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第3話 屍鬼の覚醒



 古びた館を中心に広がる森は、常に薄暗かった。

 木々は鬱蒼と生い茂り、湿った空気が肌にまとわりつく。

 陽光はほとんど届かず、腐葉土と濡れた苔の匂いだけが、空間を支配していた。


「グチャ……」


 再び、体中を蝕む感覚が襲いかかる。


 血液が煮えたぎり、骨が軋み、内臓がねじれるような激痛。

 それはただの“進化”ではない。

 自分の存在が、塗り替えられていく――その実感が、ひどく生々しくて、気持ち悪かった。


(……苦しい……)


 思わず膝をつきそうになり、近くの木に手をつく。


 掌に込めた力で、ぐしゃりと腐った肉が潰れた。


 臭気が鼻を突く。だがもう、嗅覚もまともには機能していない。

 皮膚も感覚も、もはや“人間のそれ”ではない。


(……でも、何かが……違う)


 痛みの奥で、かすかな“異変”を感じ取った。


 僕は、ゆっくりと手を見つめる。


 ――ボロボロだ。


 ただれた皮膚、露出した骨。

 まるで墓から這い出した死体そのもの。

 腐臭は地獄の吐息のように、空気に溶けていた。


 だが――


 爪が、伸びていた。

 鋭く、まるで刃物のように尖り、光を冷たく弾いている。

 空気を裂く感覚が、確かに指先に宿っていた。


(……進化、したのか……?)


 僕は“屍鬼しき”になった。

 魔物を喰らい、存在を吸収し、より強く、より俊敏に――

 それが、この体に与えられた「次の段階」だ。


 けれど、違和感はまだ残っていた。


(何だ? この感じは……)


「ガサゴソ……」


 前方の茂みが音を立てる。


 現れたのは、棍棒を手にした二足歩行の魔物。

 腐った皮膚に包まれた獣のような顔が、僕を睨みつける。


(……遅い)


 魔物が棍棒を振り上げ、こちらに突進してきた。


 その動きが、滑稽なほどに遅く見えた。


 僕は、軽く身をひねっただけで、その突進をかわす。


「シュッ!」


 爪を振り抜くと、魔物の肩から脇腹にかけて深く裂けた。

 肉が飛び、血が噴き出す。


「グガァッ!!」


 魔物はのたうち回った。


 だが――


 次の瞬間、僕は反射的に拳を振り上げていた。


(……え?)


 ――バギンッ!


 魔物の顔面に拳が直撃し、巨体が木々をなぎ倒して吹き飛んだ。


(……どういうことだ?)


 爪ではなく、拳。

 速度ではなく、圧倒的な“力”。


 グールの力が――残っている?


 進化すれば、前の特性はすべて消えるはずだった。

 それが“屍鬼”の宿命。


 でも、僕の体は明らかに両方の特性を持っていた。


 爪の鋭さも。

 拳の重さも。

 速度も。

 パワーも。


 ――まるで、“両方”を内包しているかのようだった。


(……これは、何だ?)


 掌をゆっくりと開閉する。


 内側から、奇妙な感覚がざわめいている。

 新しい力の胎動……それとも、異質な存在への変化?


 そんなときだった。


「エンド」


 背後から、鋭い声が落ちた。


 振り返ると、そこには老人がいた。


 まるで霧のように、影から滲み出るように現れたその姿。

 いつからいたのか分からない。


 その冷たい瞳が、僕と、倒れた魔物を順に見つめる。


(進化に気づかれた……?)


 胸の奥がざわめく。


 だが――


「おぬし、まだグールか。早く進化せよ」


(……気づかれていない)


 心の底に、安堵と同時に言いようのない不安が広がった。


「命令だ」


 老人は淡々と続ける。


「外の世界に出てもらう。この者の護衛をし、無事に戻ってこい」


 老人の背後から、少女が現れた。


 ――僕の生前の頃と同じくらいの年齢。


 淡い光をたたえた瞳、かすかに揺れる癖毛。

 彼女の呼吸が、白い吐息になって浮かんだ。

 それは、今にも消えてしまいそうな、生の証だった。

 死を知らない、生者の“温度”が、彼女にはあった。


 しかし僕の姿を見た瞬間――


「ヒッ……!」


 少女は息を呑み、怯えながら数歩後ずさった。


 当然だ。

 僕の体は、腐肉と骨と死臭の塊。

 その姿は、正真正銘の“化け物”。


(……そうだ。人間から見れば、俺は……)


「わしは暫く研究に没頭する。帰ってきたら、また戦い続けろ――」


 老人の声が、鋭利な刃のように僕の心を裂いた。


「――命令だ」


 その一言で、僕の体は勝手に頷いた。


(……やはり、逆らえない)


 老人は道具だけを置いて、音もなく姿を消した。


 少女だけが、そこに取り残された。


(……久しぶりに、人間を見た)


 僕の胸の奥で、忘れていた感情がかすかに震えた。


     彼女の白い吐息が、今にも消えそうに揺れていた。


     まるで、命の灯が――今にも消えそうだった。


(……とりあえず、喋る練習でもしておくか……)


 口を動かす。

 忘れかけた記憶を手繰るように、言葉を紡ごうとする。


「ヴォ……ン……ニチバ……」


「ヒィィ……!!」


 少女は顔を引きつらせ、今にも逃げ出しそうだった。


 ――そして、その瞬間だった。


 僕の脳裏に、電流のような衝撃が走った。


 **


 生身の人間の“血肉の匂い”が――


 嗅覚を通り越して、脳を直接、打ち抜いてきた。


(……あ、あぁ……)


 喉が焼けつくように疼く。

 乾いた、渇いた、乾いた――


(……腹が……減った)


 これは空腹じゃない。

“飢え”だ。

 生の肉を求める、本能的な渇望。


 ――僕の中にある何かが、静かに蠢き始めていた。


(……ダメだ)


 手が、勝手に伸びかける。


(ダメだ……やめろ!)


 少女は後ずさり、恐怖に目を見開いていた。


 その瞳に映るのは――化け物。

 それでも、僕は――


(……僕は……僕はまだ――)

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