古びた館を中心に広がる森は、常に薄暗かった。
木々は鬱蒼と生い茂り、湿った空気が肌にまとわりつく。
陽光はほとんど届かず、腐葉土と濡れた苔の匂いだけが、空間を支配していた。
「グチャ……」
再び、体中を蝕む感覚が襲いかかる。
血液が煮えたぎり、骨が軋み、内臓がねじれるような激痛。
それはただの“進化”ではない。
自分の存在が、塗り替えられていく――その実感が、ひどく生々しくて、気持ち悪かった。
(……苦しい……)
思わず膝をつきそうになり、近くの木に手をつく。
掌に込めた力で、ぐしゃりと腐った肉が潰れた。
臭気が鼻を突く。だがもう、嗅覚もまともには機能していない。
皮膚も感覚も、もはや“人間のそれ”ではない。
(……でも、何かが……違う)
痛みの奥で、かすかな“異変”を感じ取った。
僕は、ゆっくりと手を見つめる。
――ボロボロだ。
ただれた皮膚、露出した骨。
まるで墓から這い出した死体そのもの。
腐臭は地獄の吐息のように、空気に溶けていた。
だが――
爪が、伸びていた。
鋭く、まるで刃物のように尖り、光を冷たく弾いている。
空気を裂く感覚が、確かに指先に宿っていた。
(……進化、したのか……?)
僕は“
魔物を喰らい、存在を吸収し、より強く、より俊敏に――
それが、この体に与えられた「次の段階」だ。
けれど、違和感はまだ残っていた。
(何だ? この感じは……)
「ガサゴソ……」
前方の茂みが音を立てる。
現れたのは、棍棒を手にした二足歩行の魔物。
腐った皮膚に包まれた獣のような顔が、僕を睨みつける。
(……遅い)
魔物が棍棒を振り上げ、こちらに突進してきた。
その動きが、滑稽なほどに遅く見えた。
僕は、軽く身をひねっただけで、その突進をかわす。
「シュッ!」
爪を振り抜くと、魔物の肩から脇腹にかけて深く裂けた。
肉が飛び、血が噴き出す。
「グガァッ!!」
魔物はのたうち回った。
だが――
次の瞬間、僕は反射的に拳を振り上げていた。
(……え?)
――バギンッ!
魔物の顔面に拳が直撃し、巨体が木々をなぎ倒して吹き飛んだ。
(……どういうことだ?)
爪ではなく、拳。
速度ではなく、圧倒的な“力”。
グールの力が――残っている?
進化すれば、前の特性はすべて消えるはずだった。
それが“屍鬼”の宿命。
でも、僕の体は明らかに両方の特性を持っていた。
爪の鋭さも。
拳の重さも。
速度も。
パワーも。
――まるで、“両方”を内包しているかのようだった。
(……これは、何だ?)
掌をゆっくりと開閉する。
内側から、奇妙な感覚がざわめいている。
新しい力の胎動……それとも、異質な存在への変化?
そんなときだった。
「エンド」
背後から、鋭い声が落ちた。
振り返ると、そこには老人がいた。
まるで霧のように、影から滲み出るように現れたその姿。
いつからいたのか分からない。
その冷たい瞳が、僕と、倒れた魔物を順に見つめる。
(進化に気づかれた……?)
胸の奥がざわめく。
だが――
「おぬし、まだグールか。早く進化せよ」
(……気づかれていない)
心の底に、安堵と同時に言いようのない不安が広がった。
「命令だ」
老人は淡々と続ける。
「外の世界に出てもらう。この者の護衛をし、無事に戻ってこい」
老人の背後から、少女が現れた。
――僕の生前の頃と同じくらいの年齢。
淡い光をたたえた瞳、かすかに揺れる癖毛。
彼女の呼吸が、白い吐息になって浮かんだ。
それは、今にも消えてしまいそうな、生の証だった。
死を知らない、生者の“温度”が、彼女にはあった。
しかし僕の姿を見た瞬間――
「ヒッ……!」
少女は息を呑み、怯えながら数歩後ずさった。
当然だ。
僕の体は、腐肉と骨と死臭の塊。
その姿は、正真正銘の“化け物”。
(……そうだ。人間から見れば、俺は……)
「わしは暫く研究に没頭する。帰ってきたら、また戦い続けろ――」
老人の声が、鋭利な刃のように僕の心を裂いた。
「――命令だ」
その一言で、僕の体は勝手に頷いた。
(……やはり、逆らえない)
老人は道具だけを置いて、音もなく姿を消した。
少女だけが、そこに取り残された。
(……久しぶりに、人間を見た)
僕の胸の奥で、忘れていた感情がかすかに震えた。
彼女の白い吐息が、今にも消えそうに揺れていた。
まるで、命の灯が――今にも消えそうだった。
(……とりあえず、喋る練習でもしておくか……)
口を動かす。
忘れかけた記憶を手繰るように、言葉を紡ごうとする。
「ヴォ……ン……ニチバ……」
「ヒィィ……!!」
少女は顔を引きつらせ、今にも逃げ出しそうだった。
――そして、その瞬間だった。
僕の脳裏に、電流のような衝撃が走った。
**
生身の人間の“血肉の匂い”が――
嗅覚を通り越して、脳を直接、打ち抜いてきた。
(……あ、あぁ……)
喉が焼けつくように疼く。
乾いた、渇いた、乾いた――
(……腹が……減った)
これは空腹じゃない。
“飢え”だ。
生の肉を求める、本能的な渇望。
――僕の中にある何かが、静かに蠢き始めていた。
(……ダメだ)
手が、勝手に伸びかける。
(ダメだ……やめろ!)
少女は後ずさり、恐怖に目を見開いていた。
その瞳に映るのは――化け物。
それでも、僕は――
(……僕は……僕はまだ――)