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「行きますよ」
少女は僕に距離を取り、淡々とした声で言った。
「
その瞳は、雪のように冷たく澄んでいた。
「外に出ます。黙ってついてきてください」
最初僕を見るたびに怯えていた彼女も、今では表情を変えずに必要最低限の言葉だけを口にする。
怖がっていないわけじゃない。ただ、その恐怖に慣れたふりをしているだけなのかもしれない。
その背中を追いながら、僕はふと自分の体を見下ろす。
腐った肉の下――
筋肉が、骨格が、日々の戦闘を通して異様に鍛えられていくのがわかる。
(……身長も……伸びてる?)
確かに、人間の頃とは違う。
でも、それでも。
(僕は……まだ人間だ)
必死に、そう言い聞かせる。
否定しなければ、足元から崩れてしまいそうだった。
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「森を出ます。このフードを深く被ってください」
少女の手から受け取ったフードを被り、顔を隠す。
太陽――それは今の僕にとって、“毒”に等しかった。
森を抜けた先には、静かな田舎町が広がっていた。
日差しが眩しく、空は高く、風は柔らかい。
世界は、変わらず回っている。
僕が死んでも、生まれ変わっても――
何も変わらず、今日も平和に呼吸している。
(……痛い)
皮膚の下が焼ける。
肉が軋む。
心臓が、脈打つたびに痛みを連れてくる。
――それでも、僕は歩いた。
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「通行所を通ります。黙ってついてきてください」
町に入るには身分証が必要だ。
アンデッドが蔓延するこの時代では、それが命綱だった。
(どうやって通るつもりなんだ?)
不安が胸に広がる。
だが、少女が差し出した偽造証明が通行所をあっさり通過させた。
「はい、2人でどうぞー」
(……あの老人……何者なんだよ……)
精巧すぎる手配に、背筋が冷える。
でも、今はそれより――
この町に足を踏み入れることの方が、ずっと怖かった。
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喧騒と人の温もり。
少し寂れた雰囲気のある町
久しぶりに聞く笑い声。
露店の香り。
風に舞う布。子供のはしゃぐ声。
……すべてが、遠い。
まるで、ガラス越しの世界を覗いているようだった。
そのときだった。
(……え?)
目の前に、“あの人”がいた。
(母さん……)
何気なく買い物をしていたその人影が、すぐにそれと分かった。
僕の……母だ。
懐かしさが、一気に押し寄せてくる。
声をかけたかった。
抱きしめたかった。
でも、それはできなかった。
今の僕の姿では――
(クソッ……)
フードの下で、奥歯がきしむほど噛み締める。
(母さん、僕はここにいるんだよ……!)
(生きてるよ……こんな姿だけど……!)
声にならない叫びが、喉に詰まる。
でも、屍鬼は泣けない。
感情の出口が塞がれている。
だから僕は、ただ低く――呻くしかなかった。
「ウヴゥー……」
「ちょっと……!」
震える声だった。
「お願いだから……喋らないで……」
(……)
僕は、そっと唇を噛み、視線を落とした。
(……何で僕がこんな目に……)
(死んだ方がマシだった……!)
(あんな風に……グールとして、生まれ変わるなんて……!)
――いっそ、このままフードを脱いで、太陽に焼かれて消えてしまいたい。
でも、そのときだった。
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「……う」
「ゆーう!」
――聞こえた。懐かしい声が。
優しくて、温かくて、心を包み込む声。
「貴方、体弱いんだから、あんまり無茶しないのよ。そろそろ帰るわよ」
「えぇー、まだブランコで遊びたい!」
「今日はもういっぱい遊んだでしょ? それに今日は祐の好きなカレーよ。早く帰って食べましょ!」
「カレー!? やったー!」
小さな手を、母さんの大きな手がぎゅっと包んだ。
まだ湿ったアスファルトの匂い。
蝉時雨。
西の空がオレンジに染まる中――僕らは、笑いながら帰った。
ほんの些細な日常が、今の僕には――まぶしすぎた。
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『神聖な力に守られ、幸福に導かれるように』と願って、母がつけてくれた名前。
だけど今の僕は、その名にふさわしくない。
アンデッド。
異形。
そして、他人の命令で動く“屍”。
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「何をしてるの、エンド。もう買い物終わったから帰るよ」
その声に、僕の心が震えた。
(違う……僕は、“エンド”なんかじゃない……!)
(僕は――)
その瞬間。
(僕は、“祐”だ!)
心の奥底から、叫びが突き上がった。
その叫びが、僕の体に絡みついていた鎖を砕いた。
老人の“命令”が、霧のように消えていくのを感じた。
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(今なら……母さんのもとに……帰れる!?)
でも――足は動かなかった。
――奴がいる。
あの老人が、この町のすぐ近くに目を光らせている。
帰れば、母が巻き込まれる。
それだけは、絶対にダメだ。
(……今は、帰れない)
怒りと、悲しみと、覚悟と。
すべてが一つに溶けて――
今の僕を、支えていた。
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少女と共に通行所を後にする時。
太陽の光を背に、僕の瞳はしっかりと前を見据えていた。
(必ず……戻る)
その決意は、名前と共に甦った。
祐として。
人として。
――再び母の前に立つ、その日まで。