館に戻った僕は、すでに老人の命令に“逆らえる”ようになっていた。
けれど――今はその事実を、隠している。
(……今ここで反旗を翻しても、勝てるはずがない)
あいつの底が、まだ見えない。
いや、見えてはいけないほど深い気がしていた。
だからこそ、今は“従うふり”をしている。
(今は…耐えるしかない)
僕にできることは、ただ一つ。
力をつけること。
そのために、今日もまた森に出る。
日が昇るたび、魔物を狩り続ける。
腐肉を裂き、骨を砕き、血にまみれた拳を振るう日々。
最初は手こずった魔物も、今では一撃だ。
自分の成長を、確かに実感できていた。
(もうこの辺りに大物はいないか……)
それでも、狩りを止めるわけにはいかない。
俺は進化するしか、この地獄を生き抜く術がないのだから。
⸻
今日もまた、老人は研究のために部屋から出てこない。
僕はその隙をついて、館の中を密かに巡っていた。
この館には、俺以外にも複数のアンデッドが存在している。
自律して巡回するスケルトン。
仕掛けのように動くゴーレムの残骸。
まるでこの館自体が、生きた“研究施設”そのものだった。
(警備強化、ってわけか……ジジイ、どこまで準備してやがんだ)
でも僕の目的は、もっと奥にある。
――書庫。
あの老人の積み上げてきた研究と狂気が、そこには眠っているはずだ。
⸻
ギィ……と、静かに扉を開ける。
埃の匂いが鼻を突き、空気が重くなる。
書庫の中には、古びた本が山のように積まれていた。
知識の墓場。
過去の亡霊たちのささやきが、紙の間から滲み出ている気がした。
(あるはずだ……アンデッドの進化についての記録が)
僕は手当たり次第に棚を漁り始める。
「ムー大陸の謎」「魔王とその起源」――違う。
(くそ……どれも違う……)
指先がページをめくるたび、焦りが募っていく。
そして――ようやく、それは見つかった。
『アンデッドの系譜』
タイトルだけで、背中に電流が走る。
⸻
《屍鬼の進化先――》
ページをめくると、そこに描かれていたのは、漆黒の異形。
《シャドウグリム》
影に潜み、気配を完全に絶ち、暗殺者のように標的に忍び寄る。
影から影へと移動し、まるで闇そのものと化す存在。
“夜に気配を感じたら決して振り返るな――振り返れば、そこにシャドウグリムがいるから。”
(……これだ)
姿を見せず、匂いも残さず、相手の背後に立つ。
もしこの力が手に入れば、あの老人に一矢報いることができる――
本文は強く本を閉じた。
⸻
書庫を出た俺は、以前と変わらぬ顔で、老人の命令に従っている“ふり”を続ける。
その裏で、僕は独自の鍛錬を積み重ねていた。
――“言葉を取り戻す練習”
「ヴァーイーヴーベェーオ……ゴンニジワ」
喉が焼ける。
腐った声帯が悲鳴を上げる。
それでも、僕は繰り返し声を出した。
(……もう少しで、ちゃんと話せる)
少しずつだが、言葉の形を取り戻してきていた。
言葉は、“人間だった証”だ。
絶対に、取り戻す。
⸻
だが、それとは別に――
僕が最も恐れていたことが、静かに迫っていた。
“生者の血肉への飢え”
あの少女。
彼女の匂いが、日に日に俺の本能を刺激してくる。
喉の奥が、焼けるように疼く。
理性を飲み込むような渇きが、骨の奥からせり上がる。
(ダメだ……抑えろ)
僕は魔物の肉を無理やり喰らい、衝動を押し殺していた。
「ヴェ……ッ」
腐った肉は、死に味がした。
胃の中が軋み、吐き気が喉を突く。
だが、それでも――彼女に牙を向けるわけにはいかなかった。
⸻
そして、その日はやってきた。
老人が現れた。
いつもと変わらぬ、冷え切った目。
だが、今回は隣に“何か”を連れていた。
その顔には、無感情な仮面のようなものが張り付いていた。
まるで“どちらが生きているか分からない”ような、冷たい光景だった。
――新たなグール。
「エンド、お前は進化が遅い。このグールと殺しあえ」
(……また僕を試すつもりか)
「殺れ」
命令が下った瞬間、グールが突進してきた。
⸻
爪を振り上げ、唸りながら一直線に俺へと迫る。
だが――
(遅い)
動きが単調すぎる。
獣の本能だけで動くそれを、今の俺が見切れないわけがない。
僕は半歩引き、体をわずかにずらす。
すれ違いざま、爪は空を裂くだけ。
(……甘い)
バランスを崩した相手の隙を見逃すはずもなく、
僕の拳が、真横から叩き込まれる。
「グガァ……!」
頭がのけぞり、肉が潰れる音。
それでも、相手はまだ立っている。
(しぶといな)
すぐに足を払う。
グールが地面に崩れ落ちたその瞬間――
崩れ落ちた相手の頭に、僕はそっと足を添えた。
一瞬、ためらいにも似た間――
だが、迷いはない。
バキィッ!
鈍く、乾いた音が森に響いた。
(……思ったより弱かったな)
一歩引き、肩を回す。
筋肉が軋み、でも確かな力が戻ってきている。
僕はまだ――戦える。
⸻
ふと視線を上げると、老人がじっとこちらを見ていた。
その目には、わずかな興味と――ぞっとするほどの冷酷な光が宿っていた。
(……次は、お前か?)
「ふっ。やはり素材が良かっただけあって、やるのぉ」
その言葉だけを残し、老人は音もなく姿を消した。
(やっぱ、あいつ……普通じゃない)
背中を見送る僕の胸の中に、確かな決意が芽生えていた。
――このままでは終われない。
次に倒すべき相手は、あの男だ。
(待ってろよ……“ジジイ”)
僕は、僕の意志で――生き抜いてやる。
そしていつか、この手で。
お前を。
絶対に――殺す。