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第5話 囁く本能、揺れる意志

 館に戻った僕は、すでに老人の命令に“逆らえる”ようになっていた。

 けれど――今はその事実を、隠している。


(……今ここで反旗を翻しても、勝てるはずがない)


 あいつの底が、まだ見えない。

 いや、見えてはいけないほど深い気がしていた。


 だからこそ、今は“従うふり”をしている。


(今は…耐えるしかない)


 僕にできることは、ただ一つ。

 力をつけること。


 そのために、今日もまた森に出る。

 日が昇るたび、魔物を狩り続ける。

 腐肉を裂き、骨を砕き、血にまみれた拳を振るう日々。


 最初は手こずった魔物も、今では一撃だ。

 自分の成長を、確かに実感できていた。


(もうこの辺りに大物はいないか……)


 それでも、狩りを止めるわけにはいかない。

 俺は進化するしか、この地獄を生き抜く術がないのだから。


 ⸻


 今日もまた、老人は研究のために部屋から出てこない。


 僕はその隙をついて、館の中を密かに巡っていた。


 この館には、俺以外にも複数のアンデッドが存在している。


 自律して巡回するスケルトン。

 仕掛けのように動くゴーレムの残骸。

 まるでこの館自体が、生きた“研究施設”そのものだった。


(警備強化、ってわけか……ジジイ、どこまで準備してやがんだ)


 でも僕の目的は、もっと奥にある。


 ――書庫。


 あの老人の積み上げてきた研究と狂気が、そこには眠っているはずだ。


 ⸻


 ギィ……と、静かに扉を開ける。

 埃の匂いが鼻を突き、空気が重くなる。


 書庫の中には、古びた本が山のように積まれていた。

 知識の墓場。

 過去の亡霊たちのささやきが、紙の間から滲み出ている気がした。


(あるはずだ……アンデッドの進化についての記録が)


 僕は手当たり次第に棚を漁り始める。


「ムー大陸の謎」「魔王とその起源」――違う。


(くそ……どれも違う……)


 指先がページをめくるたび、焦りが募っていく。


 そして――ようやく、それは見つかった。


『アンデッドの系譜』


 タイトルだけで、背中に電流が走る。


 ⸻


《屍鬼の進化先――》


 ページをめくると、そこに描かれていたのは、漆黒の異形。


《シャドウグリム》


 影に潜み、気配を完全に絶ち、暗殺者のように標的に忍び寄る。

 影から影へと移動し、まるで闇そのものと化す存在。


“夜に気配を感じたら決して振り返るな――振り返れば、そこにシャドウグリムがいるから。”


(……これだ)


 姿を見せず、匂いも残さず、相手の背後に立つ。

 もしこの力が手に入れば、あの老人に一矢報いることができる――


 本文は強く本を閉じた。


 ⸻


 書庫を出た俺は、以前と変わらぬ顔で、老人の命令に従っている“ふり”を続ける。

 その裏で、僕は独自の鍛錬を積み重ねていた。


 ――“言葉を取り戻す練習”


「ヴァーイーヴーベェーオ……ゴンニジワ」


 喉が焼ける。

 腐った声帯が悲鳴を上げる。

 それでも、僕は繰り返し声を出した。


(……もう少しで、ちゃんと話せる)


 少しずつだが、言葉の形を取り戻してきていた。


 言葉は、“人間だった証”だ。

 絶対に、取り戻す。


 ⸻


 だが、それとは別に――


 僕が最も恐れていたことが、静かに迫っていた。


“生者の血肉への飢え”


 あの少女。

 彼女の匂いが、日に日に俺の本能を刺激してくる。


 喉の奥が、焼けるように疼く。

 理性を飲み込むような渇きが、骨の奥からせり上がる。


(ダメだ……抑えろ)


 僕は魔物の肉を無理やり喰らい、衝動を押し殺していた。


「ヴェ……ッ」


 腐った肉は、死に味がした。

 胃の中が軋み、吐き気が喉を突く。

 だが、それでも――彼女に牙を向けるわけにはいかなかった。


 ⸻


 そして、その日はやってきた。


 老人が現れた。


 いつもと変わらぬ、冷え切った目。

 だが、今回は隣に“何か”を連れていた。

 その顔には、無感情な仮面のようなものが張り付いていた。

 まるで“どちらが生きているか分からない”ような、冷たい光景だった。


 ――新たなグール。


「エンド、お前は進化が遅い。このグールと殺しあえ」


(……また僕を試すつもりか)


「殺れ」


 命令が下った瞬間、グールが突進してきた。


 ⸻


 爪を振り上げ、唸りながら一直線に俺へと迫る。


 だが――


(遅い)


 動きが単調すぎる。

 獣の本能だけで動くそれを、今の俺が見切れないわけがない。


 僕は半歩引き、体をわずかにずらす。


 すれ違いざま、爪は空を裂くだけ。


(……甘い)


 バランスを崩した相手の隙を見逃すはずもなく、

 僕の拳が、真横から叩き込まれる。


「グガァ……!」


 頭がのけぞり、肉が潰れる音。

 それでも、相手はまだ立っている。


(しぶといな)


 すぐに足を払う。

 グールが地面に崩れ落ちたその瞬間――


 崩れ落ちた相手の頭に、僕はそっと足を添えた。

 一瞬、ためらいにも似た間――

 だが、迷いはない。

 バキィッ!


 鈍く、乾いた音が森に響いた。


(……思ったより弱かったな)


 一歩引き、肩を回す。

 筋肉が軋み、でも確かな力が戻ってきている。


 僕はまだ――戦える。


 ⸻


 ふと視線を上げると、老人がじっとこちらを見ていた。


 その目には、わずかな興味と――ぞっとするほどの冷酷な光が宿っていた。


(……次は、お前か?)


「ふっ。やはり素材が良かっただけあって、やるのぉ」


 その言葉だけを残し、老人は音もなく姿を消した。


(やっぱ、あいつ……普通じゃない)


 背中を見送る僕の胸の中に、確かな決意が芽生えていた。


 ――このままでは終われない。


 次に倒すべき相手は、あの男だ。


(待ってろよ……“ジジイ”)


 僕は、僕の意志で――生き抜いてやる。


 そしていつか、この手で。

 お前を。

 絶対に――殺す。


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