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第7話 森に響く光滅、滅びの胎動

 玲は祐に怯えていた。

 腐りかけた肉、濁った声、濁った瞳。

 彼女にとって、“エンド”はまぎれもない化け物だった。


 しかし、それでも玲は彼を観察し続けていた。

 エンドが自分に牙を剥くことは一度もなかった。

 むしろ、人間の肉に対する衝動を押し殺し、黙って森へと歩いていく背中を何度も見た。


 ある日、少女が足をくじいたとき――

 祐は何も言わずに、黙って手を差し出した。

 その手は冷たくて、指先は少し爪が伸びていたけれど、

 ――温かさがあった。


 少女の小さな手が、祐の手をそっと握り返した。

 その温度が、腐った体にも確かに伝わってきた。


「……ありがとう」


 その一言が、彼女の中の何かを変えた。


 少しずつ、彼女は祐を見る目を変えていった。

 最初は毎朝怯えたように顔を背けていた彼女も、今では少しずつの言葉を交わすようになっていた。

 恐怖が消えたわけではない。

 けれど、その恐怖の中に、わずかな信頼と――

 人と話す、暖かさを思い出したようだった。





 狩りを続けるうちに、僕はだいぶ話せるようになっていた。

 最初は、たどたどしいうめき声しか出なかった声帯が、今では日常会話に近い言葉を扱えるようになっていた。

 腐りかけた喉が再構築されるたびに、自分が“言葉”というものをどれだけ愛していたか、痛いほど思い知らされた。


「玲、なんであいつの言うことを聞くんだ?」


 ある日の帰り道。

 陽が沈みかけ、木々が紅に染まるその中で、ふと口をついて出た。


 玲は立ち止まり、どこか遠くを見るように呟いた。


「…トレイナの魔術に縛られてるからよ。」


「解除できないのか?」


「無理。」


 一言で切って捨てたその声には、もう希望を求めていない者の響きがあった。

 続けざまに、彼女はぽつりと呟いた。


「ていうか…もうどうでもいいの。」


 その言葉が胸を刺した。


 僕はまだ生にしがみつこうとしている。

 なのに、玲はもう、生きることすら諦めていた。


「玲…もし、ここを出られたら、何がしたい?」


 沈黙の後、彼女は小さく首を振る。


「…何も。生きるの、疲れた。

 もし死んだら…お墓でも作ってよ。」


 その言葉に、心が潰されそうになる。


(玲……)


 生前、病弱だった僕にとって、玲は初めての“友達”だった。

 その彼女が、命をもういらないと言っている。


 僕はそれ以上、何も言えなかった。

 無言のまま立ち去り、足を森の奥へと運ぶ――

 その胸の奥で、何かが叫んでいた。


 ⸻


 狩りを続けるうちに、最近――異変が起きていた。


(腹が……減る)


 魔物を倒して肉を喰らっても、満たされない。

 どれだけ血肉を吸収しても、乾きは癒えず、逆に内から焦げつくような渇望が暴れ出す。


(……足りない)


 喉の奥が焼け、胃が裏返るほどに空っぽを訴えている。


(肉を……もっと……)


 まるで“本能”が、獣のように僕を突き動かしていた。


 牙をむき、魔物の肉を裂き、内臓を啜る。

 ただ、渇きを癒すために――


「…何をしている、エンド。」


 その時だった。

 背後から、冷ややかな声が落ちた。


(――ッ!?)


 声の主は、トレイナ。


「普段は用意した肉すら食わないと思ったら…こんな所で喰っていたのか?

 …人間の肉は、まだ食っていないか?」


 その瞳には喜色が混じっていた。


(見られた…!)


 本能的に、これはまずいと理解した。


 低く唸るように言うと、トレイナは驚きもせず、目を細めた。


「ほう……これだけの知性を見せるとは...生前の記憶が、まだ残っているのか?」


 一歩、踏み込んでくる。

 本能が警鐘を鳴らす。


「近づくな…」


「逆らう知能まで持ち合わせてるとはな…

 ――跪け。」


 その一言に、呪が乗った。

 だが――


(……動かない)


 膝が、沈まない。


 逆らえなかったはずの“声”に、身体が反応しなかった。


「命令にも逆らうか…!

 ただの“素材”だと思っていたが、これは想像以上だ…素晴らしい!」


 トレイナは狂気じみた笑みを浮かべる。


「それに…その魔物の傷跡を見るに、おぬし――屍鬼じゃな?

 進化まで隠していたとは…何たる僥倖!」


(バレた……)


「時間がない。騎士団に見つかる前に儀式を進めねば……!

 ――ついてこい!」


 命令の言葉ではなかった。


 だが――


(ッ!?)


 影が、僕の足を掴んでいた。

 黒く伸びた“それ”は、僕の影を捕らえ、全身を縛りつける。


(魔術で、体が……!)


 動かない。


 僕は抵抗できず、無理やりトレイナに連れられて館へと戻る。


 ⸻


 館へ戻る途中――


「ヴォカァン!!」


 天地が割れるような轟音。

 森のどこかが焼け落ちるような衝撃が走る。


「クッ……! もう結界を破ったか!」


 トレイナが苛立ちを露わにする。


 森を覆っていた“結界”が、音を立てて崩れ落ちていく。


「だが…“迷いの結界”がまだある。

 もう少し……時間は稼げる。」


 そう言うと、トレイナは指を鳴らした。


 直後――地面が蠢き、死が湧き出す。


 鎧を纏ったスケルトン。

 地を揺らす狼型魔物。

 空気を腐らせるアンデッドの群れ。


 館の周囲は、異形の軍勢に包囲された。


「ふふ……時間をかけて準備した甲斐があったわ。」


(だが…!)


 その時、森の奥――


(光……!?)


 白銀の輝きが、闇を切り裂くように迫ってくる。


(あれは――ヴィザ……セレナ……!)


 あの“光”が、ついに到達した。


 ⸻


 僕は六芒星の刻まれた魔法陣の中央に立たされていた。


 空気が重く、呼吸がしづらい。


「エンド……貴様は“わし”に……

 そして、わしは“貴様”になる。」


(……なに……!?)


 トレイナが、静かに笑った。


「これは器を作る儀式よ。

 わしの魂を、おぬしの身体に定着させる。

 貴様の進化した肉体……最高の素材だ」


(――こいつ……俺の身体を乗っ取る気か!?)


 理解した瞬間、全身に寒気が走る。


「これで……わしも悲願の“吸血鬼”よ……!!」


 トレイナは狂ったように高笑いする。


(させるかよ……!)


 魔法陣が光を放ち、意識が引きずり込まれていく。


 視界が歪む。記憶が曇る。

“祐”という名前が、白く薄れていく。


(……まだだ……僕は――)


 まだ、ここで終わるわけにはいかない。


(生きたい……!)


 生への執着――

 それが、僕がまだ祐であることの証明。


「エンド! 抵抗など無駄だ……!

 どうせ死に体だ、楽になれ!」


(……少しでも、道連れに……!)


 ⸻


 そして――


 森の魔物の気配が、一斉に途絶えた。


 静寂。

 闇の胎動が、息を潜めたその時。


煌滅こうめつ!」


 セレナの声が、天を裂いた。


 まばゆい銀の光が、森の深淵を焼き尽くすように差し込んだ――


 銀の閃光が、森を引き裂き、魔物を灰に還す。

 光滅騎士団が、ついに現れた。


(……来たか)


 光が館に届くより先に――

“僕の終わり”が訪れるのか。


 それとも――

 この地獄から、やっと“生き返る”のか。

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