玲は祐に怯えていた。
腐りかけた肉、濁った声、濁った瞳。
彼女にとって、“エンド”はまぎれもない化け物だった。
しかし、それでも玲は彼を観察し続けていた。
エンドが自分に牙を剥くことは一度もなかった。
むしろ、人間の肉に対する衝動を押し殺し、黙って森へと歩いていく背中を何度も見た。
ある日、少女が足をくじいたとき――
祐は何も言わずに、黙って手を差し出した。
その手は冷たくて、指先は少し爪が伸びていたけれど、
――温かさがあった。
少女の小さな手が、祐の手をそっと握り返した。
その温度が、腐った体にも確かに伝わってきた。
「……ありがとう」
その一言が、彼女の中の何かを変えた。
少しずつ、彼女は祐を見る目を変えていった。
最初は毎朝怯えたように顔を背けていた彼女も、今では少しずつの言葉を交わすようになっていた。
恐怖が消えたわけではない。
けれど、その恐怖の中に、わずかな信頼と――
人と話す、暖かさを思い出したようだった。
狩りを続けるうちに、僕はだいぶ話せるようになっていた。
最初は、たどたどしいうめき声しか出なかった声帯が、今では日常会話に近い言葉を扱えるようになっていた。
腐りかけた喉が再構築されるたびに、自分が“言葉”というものをどれだけ愛していたか、痛いほど思い知らされた。
「玲、なんであいつの言うことを聞くんだ?」
ある日の帰り道。
陽が沈みかけ、木々が紅に染まるその中で、ふと口をついて出た。
玲は立ち止まり、どこか遠くを見るように呟いた。
「…トレイナの魔術に縛られてるからよ。」
「解除できないのか?」
「無理。」
一言で切って捨てたその声には、もう希望を求めていない者の響きがあった。
続けざまに、彼女はぽつりと呟いた。
「ていうか…もうどうでもいいの。」
その言葉が胸を刺した。
僕はまだ生にしがみつこうとしている。
なのに、玲はもう、生きることすら諦めていた。
「玲…もし、ここを出られたら、何がしたい?」
沈黙の後、彼女は小さく首を振る。
「…何も。生きるの、疲れた。
もし死んだら…お墓でも作ってよ。」
その言葉に、心が潰されそうになる。
(玲……)
生前、病弱だった僕にとって、玲は初めての“友達”だった。
その彼女が、命をもういらないと言っている。
僕はそれ以上、何も言えなかった。
無言のまま立ち去り、足を森の奥へと運ぶ――
その胸の奥で、何かが叫んでいた。
⸻
狩りを続けるうちに、最近――異変が起きていた。
(腹が……減る)
魔物を倒して肉を喰らっても、満たされない。
どれだけ血肉を吸収しても、乾きは癒えず、逆に内から焦げつくような渇望が暴れ出す。
(……足りない)
喉の奥が焼け、胃が裏返るほどに空っぽを訴えている。
(肉を……もっと……)
まるで“本能”が、獣のように僕を突き動かしていた。
牙をむき、魔物の肉を裂き、内臓を啜る。
ただ、渇きを癒すために――
「…何をしている、エンド。」
その時だった。
背後から、冷ややかな声が落ちた。
(――ッ!?)
声の主は、トレイナ。
「普段は用意した肉すら食わないと思ったら…こんな所で喰っていたのか?
…人間の肉は、まだ食っていないか?」
その瞳には喜色が混じっていた。
(見られた…!)
本能的に、これはまずいと理解した。
低く唸るように言うと、トレイナは驚きもせず、目を細めた。
「ほう……これだけの知性を見せるとは...生前の記憶が、まだ残っているのか?」
一歩、踏み込んでくる。
本能が警鐘を鳴らす。
「近づくな…」
「逆らう知能まで持ち合わせてるとはな…
――跪け。」
その一言に、呪が乗った。
だが――
(……動かない)
膝が、沈まない。
逆らえなかったはずの“声”に、身体が反応しなかった。
「命令にも逆らうか…!
ただの“素材”だと思っていたが、これは想像以上だ…素晴らしい!」
トレイナは狂気じみた笑みを浮かべる。
「それに…その魔物の傷跡を見るに、おぬし――屍鬼じゃな?
進化まで隠していたとは…何たる僥倖!」
(バレた……)
「時間がない。騎士団に見つかる前に儀式を進めねば……!
――ついてこい!」
命令の言葉ではなかった。
だが――
(ッ!?)
影が、僕の足を掴んでいた。
黒く伸びた“それ”は、僕の影を捕らえ、全身を縛りつける。
(魔術で、体が……!)
動かない。
僕は抵抗できず、無理やりトレイナに連れられて館へと戻る。
⸻
館へ戻る途中――
「ヴォカァン!!」
天地が割れるような轟音。
森のどこかが焼け落ちるような衝撃が走る。
「クッ……! もう結界を破ったか!」
トレイナが苛立ちを露わにする。
森を覆っていた“結界”が、音を立てて崩れ落ちていく。
「だが…“迷いの結界”がまだある。
もう少し……時間は稼げる。」
そう言うと、トレイナは指を鳴らした。
直後――地面が蠢き、死が湧き出す。
鎧を纏ったスケルトン。
地を揺らす狼型魔物。
空気を腐らせるアンデッドの群れ。
館の周囲は、異形の軍勢に包囲された。
「ふふ……時間をかけて準備した甲斐があったわ。」
(だが…!)
その時、森の奥――
(光……!?)
白銀の輝きが、闇を切り裂くように迫ってくる。
(あれは――ヴィザ……セレナ……!)
あの“光”が、ついに到達した。
⸻
僕は六芒星の刻まれた魔法陣の中央に立たされていた。
空気が重く、呼吸がしづらい。
「エンド……貴様は“わし”に……
そして、わしは“貴様”になる。」
(……なに……!?)
トレイナが、静かに笑った。
「これは器を作る儀式よ。
わしの魂を、おぬしの身体に定着させる。
貴様の進化した肉体……最高の素材だ」
(――こいつ……俺の身体を乗っ取る気か!?)
理解した瞬間、全身に寒気が走る。
「これで……わしも悲願の“吸血鬼”よ……!!」
トレイナは狂ったように高笑いする。
(させるかよ……!)
魔法陣が光を放ち、意識が引きずり込まれていく。
視界が歪む。記憶が曇る。
“祐”という名前が、白く薄れていく。
(……まだだ……僕は――)
まだ、ここで終わるわけにはいかない。
(生きたい……!)
生への執着――
それが、僕がまだ祐であることの証明。
「エンド! 抵抗など無駄だ……!
どうせ死に体だ、楽になれ!」
(……少しでも、道連れに……!)
⸻
そして――
森の魔物の気配が、一斉に途絶えた。
静寂。
闇の胎動が、息を潜めたその時。
「
セレナの声が、天を裂いた。
まばゆい銀の光が、森の深淵を焼き尽くすように差し込んだ――
銀の閃光が、森を引き裂き、魔物を灰に還す。
光滅騎士団が、ついに現れた。
(……来たか)
光が館に届くより先に――
“僕の終わり”が訪れるのか。
それとも――
この地獄から、やっと“生き返る”のか。