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第18話 優しさの届く場所

「おはよう、遠藤君。昨日は響華君に散々な目に合わされたんだって?」


 カウンター越しに芳村さんが、くすりと笑いながら声をかけてくる。

 朝のコーヒーの香りと、どこか懐かしい空気。ここだけは、戦いの世界とは隔絶されたような静けさがあった。


「……まぁ、はい。」


 僕は肩をすくめて答える。

 昨日の夜の“あれ”を思い返すと、笑える余裕は正直なかった。

 血と命を、あまりにも軽く扱うような響華の言葉。それは、“まだ人でいたい”という僕の願いを、まるで嘲笑うかのように踏みにじってくる。


 芳村さんは手元のカップを丁寧に磨きながら、ふと目を細めた。


「彼女はね、ああ見えて……実は優しいところがあるんだ」


 その言葉に、思わず顔を上げる。


「……優しい、ですか?」


「うん。本人は絶対に認めないだろうけどね」


 芳村さんは小さく笑って、コーヒーを淹れる手を止めた。


「君に“喰え”って突きつけたあの手も、本当は……“喰わなきゃ君が死ぬ”って、分かってたからだと思うよ」


「……」


「不器用で、強がりで、ちょっと乱暴。でも、見捨てられない子なんだよ」


 それは、まるで家族を語るような口調だった。

 ただの同僚を語るには、どこか優しすぎて――少し踏み込んだ響きだった。


「彼女も……きっと大切なものをたくさん、失ってきたんだろうね」


 芳村さんは、僕の前にコーヒーを差し出す。


「この場所に集まるのは、“もう戦いたくない”吸血鬼たちだ。けれど皆、心のどこかで――誰かを助けたがってる」


 そしてふっと微笑んだ。


「だから私は、ここを作ったんだよ。戦わずに済む静かな憩いの場としてね。

 それと……ほんの少し、人間と仲良くなれたらって。そんな願いを込めて――“Yume”って名前をつけたんだ」


“Yume”。


 その言葉が、胸の奥でじんわりと広がっていく。

 それはどこか、夢のような優しい響きを持っていた。


「さて――そろそろ、お客さんが来る時間だ」


 カランカラン。


 扉のベルが、静かな空気に軽やかに鳴り響いた。


「芳村さん、お久しぶりです」


「お、柚葉ゆずはさん。お久しぶり。……ひよりちゃんも、こんにちは」


 入ってきたのは、穏やかな雰囲気の母娘だった。

 柚葉さんは、どこか疲れたような優しげな笑みを浮かべており、少女――ひよりは、彼女のスカートの裾をきゅっと握っていた。


「いつものですね。準備しますよ」


 芳村さんがそう言いかけたところで、ふと僕の方を振り返る。


「それと、遠藤君。……今日の夜、調達に同行してもらうから」


「……え? あ、はい」


 突然のことに少し間抜けな返事をしてしまう。


 柚葉さんが、優しく微笑んで僕の方を見る。


「新人さんですか?」


「はい。……よろしくお願いします」


 自然と背筋を伸ばして答えた。

 この店に流れる空気の中でなら、自分が“普通”でいられるような、そんな気がした。


 **


 昼のYumeは、いつも通り穏やかだった。

 近所の常連客や、芳村さんを頼ってやってくる訳ありの者たち。

 誰もが静かに、そして優しく、この場所の空気に身を委ねていた。


「遠藤君、二階のひよりちゃんにコーヒー届けてくれるかな?」


「分かりました」


 僕はトレーに湯気の立つカップをのせ、階段を上がる。


 二階の個室――

 何度か案内で通ったことのある部屋の前に立つ。


「ひよりちゃん、入るよー」


 ノックもせずにドアを開けたのが、間違いだった。


「――っ」


 そこにいたひよりは、今朝とはまるで別人だった。


 赤い。


 瞳孔が、深紅に染まっていた。


 小さな唇の端に、赤黒い液体が残っていて、手にはまだ誰かの名残のようなものが――


「……あ、あ、ご、ごめん!」


 僕は思わず身を引いて、ドアを閉めた。


 胸が高鳴る。


(今のは……吸血衝動……? それとも――)


“普通の子ども”だと思っていた。

 だが、あの目は……明らかに“喰う側”のそれだった。


 カップの中のコーヒーが、カタカタと震えていた。


 階段を駆け下りた僕を見て、芳村さんはすぐに気づいたらしい。

 カウンターの奥から顔を上げて、苦笑を浮かべる。


「……あー、見ちゃったか」


 その声には、怒りも責めるような色もなかった。

 ただ、少しだけ“予想していた”というような、穏やかな疲れが滲んでいた。


 僕は言葉に詰まり、手にしたままのコーヒーをテーブルに置く。


「……その、ごめんなさい。ノックしないで入って……」


 芳村さんはふっと笑って、ゆっくりと首を振る。


「いや、悪いのは私の方だよ。何も言ってなかったからね」


 彼はカップを洗いながら、少しだけ声を低くした。


「……あの歳の女の子はね、吸血中の姿を“誰かに見られる”ってのを、すごく嫌がるんだ。人間の子どもと同じでさ。恥ずかしいとか、見られたくないって気持ちがちゃんとあるんだよ」


 僕は黙って頷く。


 ひよりの赤く染まった瞳が、まだ脳裏に焼き付いていた。


「あの子たち――柚葉さんとひよりちゃんの親子はね、自分からは“人を襲えない”吸血鬼なんだ」


「襲えない……?」


 芳村さんは、小さく笑う。


「牙があって、力も多少はある。でも、彼女たちには“喰らう本能”より“理性”が強く根づいてる。喰いたくても、手が出せない。そういう吸血鬼も、いるんだよ」


 そう言いながら、彼はコーヒー豆を挽き始めた。


「だから私たちが、時々“調達”して渡してあげてるんだ。合法なルートから、廃棄予定の血液とか、医療機関の協力とか……なるべく“痛みのない形”で、ね」


 優しげな声だった。

 だけどそこにあるのは、明確な意志だった。


“彼女たちが人を傷つけなくても済むように”という、願いと選択。


「だからね、遠藤君。……できれば、謝ってあげてくれないか?」


「……はい」


「彼女、たぶん、今頃すごく気にしてると思うよ」


 そう言って、芳村さんはトレーの上に、新しいカップをそっと置いた。


「次は、ちゃんとノックして渡してあげて。大丈夫。ひよりちゃんは、君を怖がったりしないよ」


 僕はその言葉に頷き、もう一度トレーを手に取った。


 コーヒーの香りが、心のざわつきを少しだけ落ち着けてくれる気がした。


 階段の先――

 小さな吸血鬼が待つ扉の前で、僕は今度こそ、ゆっくりとノックをした。


 ひよりちゃん、さっきはごめんね。……入るよ」


 今度は、ちゃんとノックをしてから扉を開けた。

 中にいたのは、小さな影。


 ひよりはベッドに座り、そっと口元をハンカチで拭っていた。

 その動きには、どこか“隠そうとする”気配があった。


 僕と目が合うと、彼女はビクッと肩を揺らし、すぐに視線を逸らした。


「……本当に、さっきはごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」


 そう言って、僕はトレーをサイドテーブルに置いた。

 カップからは、芳村さんが丁寧に淹れてくれた香ばしい香りが漂っている。


「……これ、芳村さんが入れてくれたコーヒー。少し甘めにしてくれたって」


 ひよりは黙ったまま、そっとそのカップを見つめた。

 少しだけ、頬が赤くなっているようにも見える。


「……あの、遠藤さん」


 突然、小さな声が漏れた。

 かすれるような、けれど確かに届く声。


「……漢字、教えてくれませんか?」


「……え?」


 思わず聞き返してしまった。

 彼女は、もじもじと指を絡ませながら言葉を続ける。


「学校……行ってなくて、その……吸血鬼だから……人の中に混ざれないから。だから、読み方とか、書き方とか……分からないこと、いっぱいあって……」


 声がどんどん小さくなる。

 でも、それがどれだけ勇気を出した言葉かは、表情で分かった。


(……こんな小さな子が、“吸血鬼だから”って理由だけで、教室にも入れないのか)


 僕はそっと笑って、うなずいた。


「うん、分かった。……よかったら、また今度ノートとか持ってくるよ。一緒に練習しよう」


 ひよりは驚いたように僕を見て、それから、少しだけ――ほんの少しだけ、微笑んだ。


「……ありがとう、ございます」


 その小さな声は、さっきよりも少しだけ明るかった。


 ほんの一瞬、彼女の赤い瞳の奥に“人間らしさ”が灯った気がした。


 ここは“Yume”。

 人間にも、吸血鬼にも、“優しさ”が許される、ささやかな場所。


 そんな空気が、部屋の中に静かに流れていた。








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 ちなみにこの章、雰囲気がいきなり“ガラッと”変わる瞬間があるとか、ないとか――

 それは――読者様にしか分からない。

 ……ご判断はお任せしますが、面白すぎて戻れなくなっても知りませんよ?

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