「おはよう、遠藤君。昨日は響華君に散々な目に合わされたんだって?」
カウンター越しに芳村さんが、くすりと笑いながら声をかけてくる。
朝のコーヒーの香りと、どこか懐かしい空気。ここだけは、戦いの世界とは隔絶されたような静けさがあった。
「……まぁ、はい。」
僕は肩をすくめて答える。
昨日の夜の“あれ”を思い返すと、笑える余裕は正直なかった。
血と命を、あまりにも軽く扱うような響華の言葉。それは、“まだ人でいたい”という僕の願いを、まるで嘲笑うかのように踏みにじってくる。
芳村さんは手元のカップを丁寧に磨きながら、ふと目を細めた。
「彼女はね、ああ見えて……実は優しいところがあるんだ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「……優しい、ですか?」
「うん。本人は絶対に認めないだろうけどね」
芳村さんは小さく笑って、コーヒーを淹れる手を止めた。
「君に“喰え”って突きつけたあの手も、本当は……“喰わなきゃ君が死ぬ”って、分かってたからだと思うよ」
「……」
「不器用で、強がりで、ちょっと乱暴。でも、見捨てられない子なんだよ」
それは、まるで家族を語るような口調だった。
ただの同僚を語るには、どこか優しすぎて――少し踏み込んだ響きだった。
「彼女も……きっと大切なものをたくさん、失ってきたんだろうね」
芳村さんは、僕の前にコーヒーを差し出す。
「この場所に集まるのは、“もう戦いたくない”吸血鬼たちだ。けれど皆、心のどこかで――誰かを助けたがってる」
そしてふっと微笑んだ。
「だから私は、ここを作ったんだよ。戦わずに済む静かな憩いの場としてね。
それと……ほんの少し、人間と仲良くなれたらって。そんな願いを込めて――“Yume”って名前をつけたんだ」
“Yume”。
その言葉が、胸の奥でじんわりと広がっていく。
それはどこか、夢のような優しい響きを持っていた。
「さて――そろそろ、お客さんが来る時間だ」
カランカラン。
扉のベルが、静かな空気に軽やかに鳴り響いた。
「芳村さん、お久しぶりです」
「お、
入ってきたのは、穏やかな雰囲気の母娘だった。
柚葉さんは、どこか疲れたような優しげな笑みを浮かべており、少女――ひよりは、彼女のスカートの裾をきゅっと握っていた。
「いつものですね。準備しますよ」
芳村さんがそう言いかけたところで、ふと僕の方を振り返る。
「それと、遠藤君。……今日の夜、調達に同行してもらうから」
「……え? あ、はい」
突然のことに少し間抜けな返事をしてしまう。
柚葉さんが、優しく微笑んで僕の方を見る。
「新人さんですか?」
「はい。……よろしくお願いします」
自然と背筋を伸ばして答えた。
この店に流れる空気の中でなら、自分が“普通”でいられるような、そんな気がした。
**
昼のYumeは、いつも通り穏やかだった。
近所の常連客や、芳村さんを頼ってやってくる訳ありの者たち。
誰もが静かに、そして優しく、この場所の空気に身を委ねていた。
「遠藤君、二階のひよりちゃんにコーヒー届けてくれるかな?」
「分かりました」
僕はトレーに湯気の立つカップをのせ、階段を上がる。
二階の個室――
何度か案内で通ったことのある部屋の前に立つ。
「ひよりちゃん、入るよー」
ノックもせずにドアを開けたのが、間違いだった。
「――っ」
そこにいたひよりは、今朝とはまるで別人だった。
赤い。
瞳孔が、深紅に染まっていた。
小さな唇の端に、赤黒い液体が残っていて、手にはまだ誰かの名残のようなものが――
「……あ、あ、ご、ごめん!」
僕は思わず身を引いて、ドアを閉めた。
胸が高鳴る。
(今のは……吸血衝動……? それとも――)
“普通の子ども”だと思っていた。
だが、あの目は……明らかに“喰う側”のそれだった。
カップの中のコーヒーが、カタカタと震えていた。
階段を駆け下りた僕を見て、芳村さんはすぐに気づいたらしい。
カウンターの奥から顔を上げて、苦笑を浮かべる。
「……あー、見ちゃったか」
その声には、怒りも責めるような色もなかった。
ただ、少しだけ“予想していた”というような、穏やかな疲れが滲んでいた。
僕は言葉に詰まり、手にしたままのコーヒーをテーブルに置く。
「……その、ごめんなさい。ノックしないで入って……」
芳村さんはふっと笑って、ゆっくりと首を振る。
「いや、悪いのは私の方だよ。何も言ってなかったからね」
彼はカップを洗いながら、少しだけ声を低くした。
「……あの歳の女の子はね、吸血中の姿を“誰かに見られる”ってのを、すごく嫌がるんだ。人間の子どもと同じでさ。恥ずかしいとか、見られたくないって気持ちがちゃんとあるんだよ」
僕は黙って頷く。
ひよりの赤く染まった瞳が、まだ脳裏に焼き付いていた。
「あの子たち――柚葉さんとひよりちゃんの親子はね、自分からは“人を襲えない”吸血鬼なんだ」
「襲えない……?」
芳村さんは、小さく笑う。
「牙があって、力も多少はある。でも、彼女たちには“喰らう本能”より“理性”が強く根づいてる。喰いたくても、手が出せない。そういう吸血鬼も、いるんだよ」
そう言いながら、彼はコーヒー豆を挽き始めた。
「だから私たちが、時々“調達”して渡してあげてるんだ。合法なルートから、廃棄予定の血液とか、医療機関の協力とか……なるべく“痛みのない形”で、ね」
優しげな声だった。
だけどそこにあるのは、明確な意志だった。
“彼女たちが人を傷つけなくても済むように”という、願いと選択。
「だからね、遠藤君。……できれば、謝ってあげてくれないか?」
「……はい」
「彼女、たぶん、今頃すごく気にしてると思うよ」
そう言って、芳村さんはトレーの上に、新しいカップをそっと置いた。
「次は、ちゃんとノックして渡してあげて。大丈夫。ひよりちゃんは、君を怖がったりしないよ」
僕はその言葉に頷き、もう一度トレーを手に取った。
コーヒーの香りが、心のざわつきを少しだけ落ち着けてくれる気がした。
階段の先――
小さな吸血鬼が待つ扉の前で、僕は今度こそ、ゆっくりとノックをした。
ひよりちゃん、さっきはごめんね。……入るよ」
今度は、ちゃんとノックをしてから扉を開けた。
中にいたのは、小さな影。
ひよりはベッドに座り、そっと口元をハンカチで拭っていた。
その動きには、どこか“隠そうとする”気配があった。
僕と目が合うと、彼女はビクッと肩を揺らし、すぐに視線を逸らした。
「……本当に、さっきはごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」
そう言って、僕はトレーをサイドテーブルに置いた。
カップからは、芳村さんが丁寧に淹れてくれた香ばしい香りが漂っている。
「……これ、芳村さんが入れてくれたコーヒー。少し甘めにしてくれたって」
ひよりは黙ったまま、そっとそのカップを見つめた。
少しだけ、頬が赤くなっているようにも見える。
「……あの、遠藤さん」
突然、小さな声が漏れた。
かすれるような、けれど確かに届く声。
「……漢字、教えてくれませんか?」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
彼女は、もじもじと指を絡ませながら言葉を続ける。
「学校……行ってなくて、その……吸血鬼だから……人の中に混ざれないから。だから、読み方とか、書き方とか……分からないこと、いっぱいあって……」
声がどんどん小さくなる。
でも、それがどれだけ勇気を出した言葉かは、表情で分かった。
(……こんな小さな子が、“吸血鬼だから”って理由だけで、教室にも入れないのか)
僕はそっと笑って、うなずいた。
「うん、分かった。……よかったら、また今度ノートとか持ってくるよ。一緒に練習しよう」
ひよりは驚いたように僕を見て、それから、少しだけ――ほんの少しだけ、微笑んだ。
「……ありがとう、ございます」
その小さな声は、さっきよりも少しだけ明るかった。
ほんの一瞬、彼女の赤い瞳の奥に“人間らしさ”が灯った気がした。
ここは“Yume”。
人間にも、吸血鬼にも、“優しさ”が許される、ささやかな場所。
そんな空気が、部屋の中に静かに流れていた。
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ちなみにこの章、雰囲気がいきなり“ガラッと”変わる瞬間があるとか、ないとか――
それは――読者様にしか分からない。
……ご判断はお任せしますが、面白すぎて戻れなくなっても知りませんよ?