夜の街は、ひどく静かだった。
人通りもなく、アスファルトに落ちた街灯の光だけが、ぽつぽつと世界を照らしている。
(調達って……何をだ? コーヒー豆? まさかね)
僕は首をすくめてため息を吐いた。
芳村さんに「夜の調達、お願いね」と言われたときは、てっきり喫茶店の仕入れか何かかと思っていた。けれど、渡された地図はどう見ても業務用倉庫ではない。むしろ“人のいないことが前提の場所”だった。
(……ここで、合ってるはずだけど)
不安と緊張が、体をこわばらせる。
「……遠藤か」
背後から、低くくぐもった声がした。
驚いて振り返ると、そこには一人の男がいた。
黒いロングコートを羽織った大柄な男。
顔は痩け、顎には無精ひげが浮かび、口元には煙草。
口を開くことなく、鋭い眼差しだけがこちらを射抜いている。
男は、ゆっくりと近づいてきた。
「……芳村さんから聞いてる」
そう短く告げて、足元に置かれたケースをポン、と軽く叩いた。
金属製のそれは、ひんやりと空気を拒絶するような無機質さがあった。
「開けるな」
一言だけ、低く短く。
僕は、ただうなずくしかなかった。
「……血だ。中身は、“足りない連中”の明日」
「……」
彼は僕の視線に気づいたのか、ふっと煙草を吐いて目をそらす。
「俺は玄。渡すだけだ」
無駄のない動きでケースを持ち上げ、僕の前に差し出す。
差し出すその手は、酷く分厚く、でもどこか震えているようにも見えた。
受け取ると、想像以上の“重さ”に思わず腕が沈む。
(これが……吸血鬼の命綱)
「――気をつけろ」
唐突に言い残し、玄は背を向けた。
まるでそれ以上の会話が、必要ないと言わんばかりに。
その背中が、すべてを語っていた。
このケースが、どれだけの意味を持つか。
この“夜の運搬”が、どれだけ静かな覚悟の上に成り立っているか。
僕は深く息を吐き、重みを肩に背負い直す
「ここ、“木”って読むんだ。一本、二本って数えるときの、木」
「……キ?」
「そう。ほら、この形、木が枝を広げてるみたいでしょ?」
僕はそう言いながら、紙の上にゆっくりと「木」と書いた。
ひよりは僕の手元をじっと見つめている。
真剣な瞳。まばたきも忘れるくらい集中していた。
「……かけるかな?」
彼女は、小さくうなずいた。
そして、鉛筆を握り、緊張した手でそっと書き始める。
ゆっくり、線を一本。
横に一本。
そこから、枝を描くように左右に。
「……できた?」
「うん。上手だよ、ちゃんと“木”に見える」
「……ほんとに?」
「ほんと」
嬉しそうに目を細めた彼女は、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……“木”って、あったかいね。なんか」
「え?」
「……この字、すき。……なんか、安心する」
ひよりの声は小さいけれど、言葉の一つ一つが丁寧で、
まるで心の底から本当にそう思ってるのが伝わってくるようだった。
(……こういうのが、彼女の“人間らしさ”なのかもしれない)
吸血鬼として生まれながら、
彼女の心には、確かに人としての温もりが残っていた。
「他にも、好きな字ある?」
「……“空”。」
彼女は、ぽつりと呟いた。
「空って、広くて……逃げられそうで。見てると、どこまでも行ける気がするから」
僕はしばらく黙って、彼女の横顔を見つめた。
こんな小さな子どもが、“逃げ場所”を空に重ねている。
(……それだけで、この世界がどれだけ彼女に冷たいか分かる)
「じゃあ、“空”も書こうか。ゆっくりでいい」
「……うん」
鉛筆を握り直し、ひよりは新しい字に挑もうとしていた。
その手の震えは少しずつおさまり、線は少しずつ整い始めている。
カリカリと鉛筆の音が、静かに響く。
ここには敵も、脅威もない。
ただ紙と鉛筆と、小さな学びの時間だけが流れていた。
突然、勢いよく扉が開いた。
「ひより!元気だったか?!」
「響華お姉ちゃん!」
ひよりはパッと顔を輝かせて、椅子から立ち上がる。
響華はその小さな身体を軽く抱き寄せると、ぐしゃぐしゃに頭を撫でた。
「ったく、こんなとこに引きこもって……って、あれ?ノート?」
「うん!今、漢字教えてもらってたの!」
「……こいつにか?」
響華が僕の方をチラッと見る。
その視線には、どこか“信じられない”と“妙な警戒心”が混じっていた。
「うん!“木”と“空”って字書いたの。すごく分かりやすく教えてくれたよ!」
「ふーん……」
響華はふっと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「……ま、いいんじゃない? ちゃんと教えられてるなら」
「でしょ!遠藤さんすごいんだから!」
「……調子に乗んなよ、半端もん」
そう言い捨てるくせに、どこか安心したような響華の声。
僕は苦笑しながら、もう一度ノートを開いた。
「芳村さん、ありがとうございました。響華ちゃんも、またね。遠藤さん、娘に漢字を教えてくれてありがとう」
柚葉さんが丁寧に頭を下げると、ひよりもぺこりとお辞儀をして、ふたりは店をあとにした。
「またね、ひよりちゃん」
僕が声をかけると、ひよりは小さく手を振ってくれた。
その様子を見ていた響華が、ふっと鼻を鳴らす。
「半端もんのくせに、ひよりと仲良くしてんじゃねぇよ」
言葉はきついが、どこか拗ねたような響きがあった。
そこへ芳村さんが顔を上げて、カウンター越しに声をかけてくる。
「おっと、今日は雨だね。遠藤君、柚葉さんたちに傘を届けてあげてくれないか?」
「……あ、はい。分かりました」
「ひより今日、楽しかった?」
雨の中、傘を揺らしながら柚葉が尋ねる。
「うん!」
ひよりは笑顔で頷いた。手には、祐と一緒に書いた「木」と「空」の字が書かれた紙を大切そうに持っている。
その瞬間――空気が変わった。
ザァ……という雨音に紛れて、足音。
そして、乾いた声が闇から降りてくる。
「間違いない。母娘の吸血鬼だ。対象ナンバー……89。害虫を駆除するよ」
黒いコートに身を包んだ影が現れた。
顔も感情もないその姿は、まるで“処刑人”。
柚葉の表情が強張る。
「ひより――っ!」
その声と同時に、柚葉は娘を突き飛ばす。
次の瞬間、鋭く伸びた鎖が、ひよりのいた場所を切り裂いた。
ザンッ!
雨水が跳ね、地面がえぐれる。
「お母さん……っ!」
ひよりが叫ぶ。
柚葉は血を噴き出しながら、両腕を広げた。
血が盾のように形を変え、ひよりと敵の間に展開する。
「逃げて……! ひより、早くっ!!」
「……害虫のくせに泣かせる親子愛だねぇ」
四ノ宮が口元を歪める。
その手には、すでにレヴナント――巨大な大剣が具現化していた。
「杭の仕事は、情けに流されないことだ」
ゴッ。
コンクリートが砕け、柚葉の血の盾が破壊されていく。
「やばい……やばい……」
祐は、建物の影から状況を見ていた。
震える拳、噛み締めた唇。
(あれは……“杭”。G.O.Dの――!)
思考が混乱する。
でも、ただひとつだけ確かなことがあった。
――あのままじゃ、柚葉は殺される。
(だけど……僕が動いたら、正体が……)
それでも。
(ひよりちゃんだけでも……!)
祐は決断した。
フードを深く被り、かつて“グール”として暴れていた頃のリミッターを外す。
吸血鬼としての脚力を活かし、雨を切り裂いて駆け出した。
「ひよりちゃん!」
少女の小さな体を抱きかかえ、傘を放り捨て、全速力で路地裏へ飛び込む。
「ひよりちゃん!今は何も聞いちゃダメだ、目を塞いで!」
彼女の頭を抱き寄せ、塀の陰に伏せる。
雷鳴のような轟音が、遠くから響いた。
そして、柚葉の叫び声が――
「ひより……! 愛してるよ!!」
ズガァァァッ!!
四ノ宮のレヴナントが、柚葉の体を貫いた。
血が、音もなく雨に溶けていく。
しばらくして、空気が静まった。
雨が、いつもより冷たく感じた。
祐は唇を噛んだまま、ただひよりを抱きしめるしかなかった。
彼女の肩が、しゃくりあげて震えている。
それでも祐は、ひと言も発せず、その震えを受け止めていた。
(なんで……なんで、こんなことに……)
“杭”と“吸血鬼”。
どちらが正しいのか――もう、分からなかった。
でもただ一つ、はっきりしていることがあった。
――この世界で、“優しさ”だけでは、生きていけない。
そして祐は、もう決して“見過ごさない”と、心の奥で誓っていた。
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1章若干改稿しました
ストーリーに影響はありません