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第20話 その夜、少女は牙を剥いた

 Yumeの扉が静かに閉じる音がした。


 雨に濡れたコートを脱ぎ、僕は無言のまま、ひよりを抱えて2階へ上がった。


 彼女はすっかり泣き疲れて、僕の腕の中で小さく震えていた。


(……大丈夫。もう、誰にも触れさせない)


 毛布にくるまったひよりが微かに寝息を立てるのを見届けてから、僕は静かに階下へと戻った。


 カウンター越しに芳村さんと響華が待っていた。

 ふたりとも、すでに状況を察していたようだった。


「……ひよりちゃんは、無事です」


 僕がそう告げると、芳村さんは目を伏せて、ゆっくりと息を吐いた。


「……そうか。ありがとう。連れて帰ってきてくれて、本当に」


 僕は黙って頷いた。


 しかし、静かな空気を切り裂くように――響華の声が響く。


「そんなことが……」


 彼女の拳が、カウンターの天板を小さく叩いた。

 そして、僕に睨みつけるように視線を向ける。


「クソッ……お前が――半端もんのお前が、ちゃんと守れていれば……柚葉さんは死なずに済んだ!」


 その言葉は鋭く、容赦なかった。

 彼女の目には、怒りと、悔しさと、悲しみが入り混じっていた。


 僕は何も言えなかった。

 反論なんてできるはずがない。

 彼女の言う通りだ。

 守れなかった。柚葉さんを。


 だけどそのとき、芳村さんがゆっくりと立ち上がった。


「響華君……やめなさい」


 その声は静かだった。

 けれど、確かな重みがあった。


「守れなかったのは――私たち、全員の責任だよ」


 響華は唇を噛んだ。

 悔しさが、声にならずに震えているのがわかる。


「……でも、でもよ。あんな優しい人が……何もしてないのに、ただ“吸血鬼”ってだけで殺されて……!」


 肩が震える。

 彼女は、怒りを押し殺すように目を伏せた。


 そして――そのまま、くるりと背を向ける。


「……私が、柚葉さんの仇を取ってきます」


「響華君!」


 芳村さんが止めようとした。

 けれど、響華は一度も振り返らず、店を出ていった。


 カランカラン――


 冷たい風と共に、扉のベルが虚しく鳴った。


 Yumeの空気が、しんと静まり返る。


 僕は、力なくカウンターに手をついた。




 そして、その夜。


 G.O.Dの任務を終え、ようやく一区切りついた四ノ宮は、支部を出ようとしたところで声をかけられた。


「おい四ノ宮!たまには一緒に飯食いに行こうぜ!」


 振り返ると、同じ訓練校を卒業した同期たちが、気楽そうな顔で手を振っていた。

 任務で顔を合わせることはあっても、プライベートで言葉を交わすのは久しぶりだった。


「たまにはさ、外で飯食わねぇとやってらんねぇよな。な? 」


「ああ……」


 気がつけば、近くの古びた蕎麦屋へ足が向いていた。

 店の外には、うっすらと白い吐息が浮かび、ガラスの内側には結露がにじんでいる。

 年季の入った木のカウンターと、壁に貼られた手書きのメニューが印象的な、どこか落ち着く空間だった。


「天そば大盛りで!」

「俺も天そば! いや~戦った後は、やっぱ揚げ物よな!」

「四ノ宮、お前は?」

「……じゃあ、同じので」


 注文を終えると、ほっとするような熱いお茶が運ばれてきた。

 湯気越しに、誰からともなく話が始まる。


「しかし、お前もう活躍してんだってな。ナンバー86、だっけ? トドメ刺したんだろ」


「マジかよ。さすが“優等生”って呼ばれてただけあるな。初任務でナンバー付き相手とか、普通ビビるだろ」


「いや……あれは、俺一人じゃ……」


 四ノ宮は湯呑を見つめたまま、言葉を濁す。


「ん? 何かあったのか?」


「……いや、なんでもない」


 笑って誤魔化そうとしたが、脳裏に焼きついた映像が蘇る。

 あの老婆――吸血鬼ナンバー86が崩れ落ちる瞬間。


 確かに、あれは悪だった。躊躇う理由なんて、本当はないはずだった。

 けれど、自分のレヴナントが震えたのは――

 殺したという事実を、自分の身体が初めて“覚えてしまった”からだ。


 自分の剣が、誰かの命を終わらせたという、ただそれだけの重み。


(命を終わらせたんだ)


 笑えなかった。


「ま、何にせよさ。お前の腕が頼りなんだよ。次の現場も一緒になるかもだしな!」


「そうだな……頑張ろうぜ、四ノ宮」


 同期たちの言葉は、素直にありがたかった。

 けれど、胸の奥には、重たい何かが沈んだままだった。


「……ありがとう」


「ご馳走様でした」


 店を出た


「んじゃまたな」


「ああ」


 同期2人と別れて帰路に着く。


 吐いた息が白く染まるほど、夜の空気は冷えていた。

 街灯の明かりが、凍った路面に鈍く反射している。






「やっぱ四ノ宮は優等生だな」


「すげーよ」





「……杭、2人確認」


 背後から響いたのは、感情の一切ない少女の声だった。


 吐く息さえ凍りつくような冷気の中、“それ”は音もなく現れた。

 振り向いた2人の視線の先――そこに、“それ”はもう立っていた。


 夜の街角に、白く浮かび上がる無機質な人形の仮面。

 つるりとした陶器のような面に目の穴が二つ、そして口元には小さな縫い目のステッチが刻まれている。


「……っ、何だこいつ!」


 1人が即座に腰のレヴナントに手をかけた。だが――遅かった。


 バシュッ。


 赤い霧が空中に舞う。


 気づけば、彼の右腕は肩から先ごと消えていた。

 遅れて、鈍い肉の崩れる音。


「……っぐ、ぎゃあああああ!!」


 悲鳴とともにのけぞるその隙に、もう1人の方へと“それ”が滑るように近づく。


 足音は――なかった。


 動作は滑らかで、まるで操り人形が誰かに動かされているような無機質な動き。


「やめ――っ」


 言葉の途中で、喉元に血の鞭が巻き付いた。


 バシュッ。


 首が違う方向にねじれ、ぐにゃりと倒れる。


 もう1人も、それを見て逃げ出そうと背を向けた。


 が――


 ズガン!


“それ”が放った血の杭が、背後から脊椎ごと貫通していた。


 地面に転がる肉と血の塊。

 雨のように降る返り血。

 仮面はその全てを無表情に受け止めていた。


 血の匂いとともに、冷え切った冬の風が路地に吹き込む。

 ただ静かに、命の灯が消えた痕を撫でるように――。


 **


「……目撃排除、完了」


 そう呟いた“仮面の少女”は、ただ一度だけその首を傾げた。


 まるで――


“命を刈る行為”に、感情が介在していないことを確認するように。


 **


 そしてそのまま、音もなくその場を去っていく。

 闇に溶けるように姿を消すその背中に、感情は――一切なかった。


 ただ、ステッチの縫い目だけが、まるで“笑っている”ように見えた。

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