街灯の明かりも届かない、コンクリートの橋の下。
冷たい冬の空気に湿気と鉄錆の匂いが混ざり、響華はひとり震えていた。
それは恐怖からではなかった。
怒り――それだけだった。
目の前、血溜まりの中心に横たわるのは、柚葉の遺体。
その胸部にはぽっかりと穴が空いていた。血核だけが、正確に抜き取られていた。
「……プレゼントは気に入ってくれたかな?少し早いがクリスマスプレゼントだよ」
背後から聞こえる声。
その声には、軽薄な嘲笑と、確信犯の愉悦が滲んでいた。
「腐れ外道が……」
響華が絞り出すように返す。
握りしめた拳からは血が滲んでいた。あまりに強く握り締めていたために、爪が掌を裂いていた。
「無垢な捜査官二人を殺しておいて、そんなこと言われる筋合いはないよ。――害虫が」
「君もその女のようにすぐにしてあげるよ」
言葉を終える前に、響華は駆け出していた。
その瞬間、空気が震えた。
血を纏う。
身体から放出された鮮血が刃の形を成す――
鋭いその刃を構え、一直線に根津へと迫る。
だが、根津の手には既にレヴナントがあった。
彼はその鎖を振るい、まるで蛇のように、唸るように空間を切り裂く。
「リーチの差では、勝てないよ」
涼しげに言い放つその顔に、嘲笑が浮かぶ。
そう判断した響華は、距離を取り、自身の血を弾丸のように凝縮し、次々と撃ち放った。
しかし――
「ふふ……甘いね」
根津はもう一つのレヴナントを取り出した。
盾。
それは――まるで柚葉が使用していた《ブラッドブレイド》を模したような形をしていた。
「彼女の血核で新しいレヴナントを作ったんだ。なかなか、良い素材だったよ」
「てめぇ……!!」
響華は思わず叫び、次の瞬間、柱を蹴って跳躍した。
橋の支柱を次々と駆け上がりながら、身体の周囲に赤い血を散らし、それを一気に弾丸へと変える。
一斉に放たれた赤の嵐が根津を包む。
だが、それでもなお、彼は微動だにせず盾を構えたまま弾を防ぎきった。
(……なら、今だ!)
響華は盾で視界が遮られたその瞬間を狙って、死角から肉薄した。
だが――
「読んでたよ、その動き」
根津の鎖が、背後から空中の響華を絡め取る。
重力が逆らえぬまま、鋭利な鎖が響華の腹部を貫いた。
「ぐっ……あああッ!!」
彼女の身体が宙を舞い、無造作に壁へと叩きつけられる。
霧化にも動じることなく対応したのは、数多の死地を潜り抜けてきた彼ならではだった。
レヴナントは吸血鬼の“血核”を素材としており、同じく血核を持つ吸血鬼に干渉する。霧化したところで、その反応から逃れることはできない。
崩れ落ちた地面に這いつくばる響華を、根津はゆっくりと見下ろした。
「もう終わりかい? 飛び回ってばかりの羽虫が、地べたに落ちたな」
響華はうめきながら、それでも睨みをやめなかった。
「この……クソッタレが……柚葉さんが何をした!? ただ平穏に、生きていただけだろ!!」
その声が震え、怒りと悲しみが混ざり合っていた。
「私たちはな……好きで吸血鬼に生まれたわけじゃねぇんだ!!」
叫びながら、自身に刺さった鎖を叩き、必死に体勢を整える。
「お前らが食うケーキって……何味だよ……! あんな味のしねぇもの、こっちは味わいたくても味わえねぇ……血でしか……満たされねぇんだよ……!」
そう言って、響華は自ら仮面に手をかけ――ゆっくりと外した。
「おや、お姿を見せてくれるのか。可愛らしいお嬢……!」
男が皮肉めいた笑みを浮かべたその瞬間、
覗いた赤い瞳が、根津を真っ直ぐに射抜く。
(……クソッ、《魔眼》か!)
それはただの視線ではなかった。
《魔眼》――吸血鬼の中でも、一部の者にだけ宿る異能。
誰もが持っているわけではなく、その力の性質も個体によって異なる。
感情を揺さぶるもの、幻を見せるもの、思考を乱すもの――どれも予測できない厄介な力だ
理性をねじ伏せ、思考を歪めるその力が、一直線に根津の精神へと流れ込んでくる。
「……チッ……!」
根津は舌打ちし、眉間に皺を寄せた。
経験と訓練によって《魔眼》に耐える術は知っていた。気配を感じた瞬間に視線を逸らす――それが常道だ。
だがこの距離、この瞬間において、それは叶わなかった。
「……くだらない力……!」
視界がぐにゃりと歪む。
響華の目は、血のように紅く染まっていた。
ただの殺意ではない。
その奥にあるのは、怒りと、悲しみと、絶望。
それが全部、視線を通じて心に流れ込んできた。
「……柚葉さんの分だ……」
響華が呟く。
その声が、耳じゃなくて心臓に突き刺さった。
(ああ、まずい。足が――動かない)
根津は自分の身体が一瞬、凍りついたようになるのを感じた。
思考と身体の乖離。
それこそが、《魔眼》の恐ろしさ。
(くそ……なぜ、躊躇った……!?)
目の奥が痛む。心が揺らぐ。
――その隙を、響華は見逃さない。
「今ッ……!」
己の血で生み出した紅の刃を、響華は一閃。
鎖が断ち切られる。足枷のように絡みついていた拘束が、はじけ飛ぶ。
「死ねぇッ!!」
跳び込んだその勢いのまま、振り抜かれた刃が――
根津の首筋を、真横に裂いた。
頸動脈を断ち、気管を裂き、刃は骨にまで届いた。
根津の体が仰け反る。視界がぐらつき、空が傾く。
「――がッ」
(四ノ宮君にまだまだ教えておかないことがあったのに、それに……すまない先に逝く)
絶命の瞬間、根津の左手が、無意識に響華の肩へとかすった。
響華はその手を払い、倒れ伏す根津の腕を見下ろす。
た。
「……手袋、なんかして……そこまでして、吸血鬼に……触れたく……なかったのかよ!」
震える声でそう呟くと、響華はその手袋を静かに外した。
現れたのは、男の手には不釣り合いなほど綺麗に磨かれた銀の指輪。
左手の、薬指に――しっかりと、嵌められていた。
「……なんだよ、それ……」
つぶやきながらも、響華はもう、涙を止められなかった。
それが、誰のための指輪だったのか――今となっては、知る術もなかった。
彼を失った“誰か”
彼が、もう戻れなかった“日常”
自分たちと同じだ――ただ立場が違うだけで、失ったものは、きっと変わらなかった。
「……クソッタレが」
膝をつき、響華は震えながらつぶやいた。
根津は、もう動かない。ただ静かに、夜の中へと沈んでいた。
「……仇は取ったぞ、ひより……」
血に濡れた冬の夜の空気の中で、橋の下に冷たい風が吹き抜ける。
その風は、泣きじゃくる少女の背を、まるで“寒さ”が哀れんだかのように包み込んでいた。