その夜、芳村に言われた通り、僕は指定された場所へ向かっていた。
(君は“どっち”になろうとも、自分を守る力が必要だ――)
言葉の意味を噛み締めながら、到着したのは、東京の喧騒から遠く離れた山岳地帯。
舗装はされているが、街灯ひとつない細い山道。
車の音も、人気もない。ただ、風の音と木々のざわめきだけが耳に届く。
――そのときだった。
「お前か。芳村さんに言われて来たってのは」
低く、掠れた声。
ふと顔を上げると、ガードレールの外、闇に溶け込むように立っていたのは、あの時の男――
「玄さん……」
「無駄口はいい。ついてこい」
そう言うなり、玄はガードレールをひょいと越え、まるで重力を無視するかのように斜面を滑り降りた。
そのまま鬱蒼とした林の奥へと消えていく。
躊躇いながらも、僕はその背中を追った。
足元の落ち葉が擦れる音が、不思議と心臓の鼓動と重なる。
踏みしめた落ち葉が凍りつき、シャリ、と音を立てる。
その音が、森の静寂に小さく波紋を広げた。
(これが、修行の始まり――)
東京の光から遠く離れたこの場所で、僕は“何か”と向き合うことになる気がしていた
「まずはお前、基本的なことはできるのか」
低く投げかけられたその声と同時に、玄は自分の左手を無造作に――いや、まるで当然のことのように噛みちぎった。
パキン、という骨の音と、じゅわ、と血が溢れ出す音。
次の瞬間、吹き出した鮮血が空中で震え、蠢き、形を変える。
玄の背丈ほどもある黒紅の大剣――
「……できるか?」
その目は冷たい。まるで値踏みするように、僕を見ていた。
(……怖気づくな)
「……やってみます」
僕は小さく息を吐き、左手を持ち上げる。
(血を……操る。みんな、自傷して血を“出す”ところから始めてた。僕も……)
そう思って、震える手で右の爪を立て、手の甲を強く引っかいた。
「っ痛……ッ、つー……」
血はにじみ出た。だが、それだけだった。
空中に浮かび上がることも、武器の形になることもない。
ただ、傷口から流れる生ぬるい赤が、肌を汚していく。
玄は、無機質に言った。
「ただの出血だな。それに吸血鬼の再生力ですぐに傷は塞ぐだろ……違う。いいか、お前の血は“お前の力”だ。流すだけじゃ、意味がない」
その声は鋭く、刃のようだった。
「まずは感じろ。体内を巡る血の流れを――その“熱”を。そして、それを意識の中心に持ってこい。形にしたいものを、強く、強く思い描くんだ」
玄のブラッドブレイドが唸るように風を切り、地面を抉る。
「お前だけの武器の姿を、心の底から望め」
僕は傷口を押さえながら、目を閉じた。
(僕の……血。僕の中を巡る、熱。武器……武器……)
遠くで風が吹いている。
頭の奥が、じん、と熱を帯び始めた。
(……“何か”が来る)
そう確かに感じていた。
G.O.D日本支部、第3区分室に到着した四ノ宮は、目の前の自動ドアが開いた音に顔を上げた。
扉から出てきたのは、二人の屈強な男たち。鋭い眼光と、所々に傷跡の残る体――だが、その顔に見覚えがあった。
「
四ノ宮は思わず背筋を正し、敬礼と共に声を張った。
「お久しぶりです!」
彼らは、訓練校時代に何度も指導を受けた教官だった。
「おぉー! 四ノ宮じゃねぇか、立派になったなぁ!」
黒瀬は大声を上げると、豪快に四ノ宮の頭をわしづかみにし、わしゃわしゃと撫で回す。
「しかももう二等隊員とは、出世頭だな! 教え子の中でお前が一番じゃねえか?」
「黒瀬、少し落ち着け。髪がぐちゃぐちゃだ」
隣の冴島が無機質に言ったあと、ふと表情を引き締めた。
「……根津の件は、本当に残念だったな」
四ノ宮はその言葉に、わずかに表情を曇らせる。
「……はい。あの人のようには、まだまだ遠いです」
「そう落ち込むな。俺たちも今回、第三区の掃討作戦に参加する」
「えっ……!」
「一緒に、根津の仇を取ろうじゃないか」
黒瀬の低い声が、静かに響いた。
「……それに」
冴島が続ける。
「第3区には、数年前に俺たちが対峙した“あの吸血鬼”が潜伏していた記録がある。未だに行方は掴めていないが――」
その顔に、教官時代とは違う、戦士の色が宿っていた。
「俺たちしか……あの戦いから生き延びられなかった。今度こそ、ケリをつけに行く」
四ノ宮は、拳を強く握りしめた。
「あの人の遺志を無駄にしないためにも……俺も、行きます」
三人の間に流れる静かな決意が、束の間の再会を戦地の予感で包み込んだ――。
冷たい山風が頬を斬るように吹き抜ける。けれど、火照った皮膚にはむしろ心地よかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
乾いた空気の中に、僕の荒い息遣いだけが残響のように響いていた。両膝は震え、足元は不安定だった。けれど、それでも――僕は立っていた。
そんな僕を、玄はじっと見つめていた。どこか飄々とした眼差し。息が上がっている僕の様子も気に留めることなく、ゆっくりと呟く。
「そうか。……それがお前の武器なんだな」
僕の両手には、いつの間にか形を成していた血剣が握られていた。
凍てつく空気の中、祈りのように両手を広げた。
血が凍る寸前の熱を保ったまま、二本の刃がそこに形を成した。
右手には重厚で厚みのある刃。切っ先は荒々しく、破壊力に重点を置いた形状。
左手にはそれとは対照的に、細身で鋭利な刃。喉元や関節、致命点だけを狙い澄ますような、冷たい線を持っている。
「まるで右手が本能的に振るう“咎の刃”、そして左手が理性と冷静さで止めを刺す“処刑刃”だな」
玄の声に、僕は一瞬だけ目を丸くする。
「それに、お前……普通の吸血鬼じゃないだろ。何か、匂いが違う。……まぁ、あまり詮索はしないがな」
(……そこまで、見抜かれてる)
そう言って玄は顎に手を当て、少しだけ思案するように目を細めた。
「ふーん……いいじゃないか。何か技名でも付けてみろ。気合いが入るし……何より、かっこいいだろ?」
意外な一言に、僕は思わずぽかんとした。
(玄さんって、こういうの好きなんだ……)
「よし。だったら俺が決めてやる」
どこか楽しそうな声色に、少しだけ救われる。
「お前、多分色々過去に苦労して、絶望もしてきたんだろ? でも、それを全部抱えたまま今こうして剣を握ってる。だったら、これしかないな」
玄はゆっくりと口元を吊り上げて、こう言った。
「――
一瞬、その名の意味を咀嚼する。
(……罰と赦)
右手の“咎”は僕自身の怒りと絶望。
左手の“赦し”は、もう戻らない誰かへの祈り――
確かに、そのどちらも、僕の中にあった。
「……なんか、少し厨二っぽいですけど」
そう返すと、玄はニヤリと笑った。
「それでいいんだよ。“少し痛いくらいが、ちょうどいい”。そういうのが、一番強いんだ」
僕は、小さく頷いた。
その名前は――不思議と、しっくりと胸に落ちた。
手放さない。どちらも、手にしたまま戦う。
それが、今の僕の“形”だった。
「とりあえず、打ち込んでこい」
玄は大剣を地面に立てかけたまま、軽く首を回して言った。
「……え?」
僕は戸惑った。構えすらしていない玄に対して、武器を振るうのか?
「実戦が一番だろ。ほら、来いよ。遠慮すんな」
その声音には余裕しかなかった。
(――やるしかない)
両手に“罰と赦”を握り、地を蹴った。
まずは右手の“咎の刃”で真正面から斬り込む。だが、玄はそれをまるで風を避けるように身をひねっていなす。
次の瞬間、強烈な蹴りが僕の腹に突き刺さった。
「ぐっ……!」
地面に崩れ落ち、咳き込みながら腹を押さえる。
「おいおい、それで終わりか? 相手が“武器だけで戦う”とでも思ったか? 戦場じゃ、体術も刃物も区別なんてない」
玄の声が響く。
「お前の全部を使え。殺す気で来い。それが“教え”だ」
立ち上がった僕は、再び距離を詰める。
右手の処刑刃を振り上げ、頭を狙う。だが、それは囮――影に溶けるように滑り込み、玄の背後を取った。
渾身の力を込めた一撃。
だが、玄は大剣を一閃し、短剣を弾き飛ばした。
「……甘い」
武器が手から離れ、空中を舞う。だが、僕は止まらない。
両の手から、鋭利に伸びる“屍鬼の爪”――かつての僕の“獣性”を解き放つ。
玄の眉が僅かに動いた。反応が、一瞬だけ遅れた。
爪が風を切り、玄の髪を数本、宙に舞わせる。
(……いける)
そう思った瞬間、僕の体は地に伏していた。
玄の体術によって組み伏せられ、完全に身動きを奪われていた。
「……まぁ、及第点だな」
玄はそのままの体勢で言った。
「見てりゃ分かる。お前には妙な力がある。爪、影、反射神経……それに何より、しぶとい」
僕は静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
立ち上がると、地面に落ちた短剣を拾い上げる。
冷たい鋼が手のひらに馴染む。怒りも、祈りも、その刃に宿っていた。
(……やっぱり、これが一番しっくりくる)
自分の手を見つめながら、心の中で小さく呟いた。
(やっぱり、これが――僕の“形”だ)
怒りも、祈りも、この手で斬り拓く。