玄との修行は、夜どうし続いた。
霜の降りる地面を踏みしめるたびに、シャリ、シャリと音が響く。
空は深く、星ひとつ見えない。凍てつく山の空気が、肺に突き刺さるようだった。
それでも、剣を握る手は熱を帯びていた。
玄は、焚き火の傍で静かに呟いた。
「……あと俺が教えられるのは、基本的なことと“霧化”くらいだ」
彼の横顔は、焔の揺らめきに照らされて淡く滲んでいた。
「その他の能力は……個人次第だ。血に宿る異能も、魔眼も、“その時”が来なきゃ目覚めん。俺には教えようがない」
「じゃあ、俺は――」
「自分で見つけろってことだ」
玄は空を見上げながら、淡々と続けた。
「お前がこれから、どこで何をして、誰を守るか。誰を喰らうか。……それは、誰にも教えられない」
「……」
「お前が“何者”になるのかは、お前自身が決めるんだよ」
冬の夜は静かだった。
けれど、その言葉だけが、僕の胸の奥で深く響いていた。
「遠藤くん、これを見てくれないか?」
芳村の穏やかな声が、まるで静かに記憶の底を洗い流すように僕の意識を引き戻す。
僕はゆっくりと目を開けた。
「……! すいません、ぼーっとしてました」
「ふふ、大丈夫。君も疲れているだろうしね」
芳村はそう言って、手元の木箱からそっと何かを取り出す。
「それで……これは?」
僕が尋ねると、芳村は小さく頷いた。
「マスクだよ。仮面とでも呼ぶべきかな。……吸血鬼がどうしても戦わざるを得なくなったときに、自分の素顔を隠すために着けるんだ」
テーブルに置かれたそれは、一目見ただけで印象に残る異質さを放っていた。
漆黒の仮面――無機質な光をわずかに帯び、瞳孔の部分にはあらかじめ穴が空けられている。
そして戦闘状態になると、まるで自分が“吸血鬼”であることを証明するかのように、仮面の表面には細かなヒビが走る。
左下から斜めに刻まれた、一筋の紅。
それはまるで、血の涙――
いや、流れることのなかった悲しみの痕跡のようだった。
「君の中にもあるだろう?」
芳村がふと口を開く。
「……流れない、けれど消えない傷が」
その言葉に、僕は思わず仮面の“紅”に目を落とした。
装飾とは呼べない。
これは、誰かの感情そのものだ。
怒り、痛み、絶望、祈り……それらすべてを無言で伝える“顔”。
「無表情なのに、どこか痛々しい。……そんな仮面だね」
芳村はそう言って、少し目を細めた。
「うん。髪色が白だから、黒の仮面にして正解だったと思う。目元に前髪がかかるのも相まって……どこか、闇をまとった印象を与える」
「……これ、僕が着けるんですか?」
「そう。……君が人間だった過去を捨てきれないのなら、その“素顔”は、時に君自身を壊してしまうかもしれない。だからこそ、必要なんだ」
「それに、私のお手製さ。手が器用なもんでね」
その仮面は、まるで“心の盾”のようだった。
それを見つめながら、僕は思う。
「この辺りも、人が減ったね」
通りを歩きながら、芳村がふと呟く。
G.O.Dが第3区の吸血鬼掃討作戦を正式に発表してから、住民たちは次々と避難を始めた。今や、昼夜問わず人の気配はまばらで、まるでこの街だけ時間が止まったかのようだった。
「芳村さん……逃げないんですか?」
僕の問いに、芳村は立ち止まり、静かに空を見上げた。
「ん? どうしてだい? 我々は……何か、悪いことをしたかな?」
穏やかな口調の中に、どこか試すような響きがあった。
「それに私はね、この
芳村は足を止め、ゆっくりと振り返る。
「もうすぐ、ここに“杭”が来るだろう。……だが、有難いことに、この場所を一緒に守ってくれる常連さんが何人かいるんだよ。皆、かつては戦いに身を置いた者たちばかりだ。でも今は、静かに暮らすことを選んだ……その人たちが、それでも命を懸けて“ここ”を守ろうとしている」
「――だからこそ、私だけ逃げるわけにはいかないんだ」
その目に宿った光は、老いた者の諦観ではなかった。誰よりも、今を生きる意志を持つ者の瞳だった。
「それに……遠藤くん」
芳村は静かに続ける。
「君も、そろそろ“選ばなきゃ”ならない時期だ」
「どちらの道を歩むのか。何を手に取り、何を捨てるのか――」
彼の言葉は、決して押しつけではなかった。
けれど、その静かな声は、僕の心に確かに突き刺さった。
「……僕も、この
言葉にして初めて、自分の中の輪郭が少しだけはっきりした気がした。
「前世……人間だった頃を思い出すんです。あの頃に感じていたものを、もう一度――ここでだけ、感じられる気がして」
大げさなものじゃない。ただ、扉を開けたときの空気。
湯気の立つマグカップと、誰かが笑っている声。
(それだけのはずなのに、どうしてこんなに……あたたかいんだろう)
「……こんな感覚、もう持てないと思ってました」
自分が何者で、どこに属しているのか分からなくなっていた中で、
この場所だけは、何も聞かず、何も強制せずに――ただ、受け入れてくれた。
「だから……僕にとっても、ここは大切な場所なんです」
仮面をつけていても、隠せなかった。
言葉にしなくても、胸の奥がきつくなるほどには、そう思っていた。
「そうか……君がどっちを選んでも、私は応援するよ」
芳村の声は静かで、まるで雪のようだった。
押しつけがましくもなく、ただその言葉に宿る“信頼”だけが、確かに胸を温めてくる。
(――どっちを、選んでも)
僕は目を伏せる。
まだ決めきれていない。人として生きることも、吸血鬼として生きることも。
そのどちらにも、もう戻れない気がしていた。
けれど。
ここに来てから、幾度となく揺れ動いた心が、少しずつ輪郭を持ちはじめている気がした。
人間のぬくもりも、
吸血鬼としての力も、
どちらも確かに、自分の中にある。
(ならば、選ぶしかない)
誰として、何のために戦うのか。
この力を――怒りと祈りの刃を、何のために振るうのか。
夜の帳が、街を包み込む。
雪はまだ降っていない。
けれど、冬の空気は凍えるほど静かで、街灯の明かりさえも淡くにじんで見えた。
その中を、僕はゆっくりと歩き出す。
仮面は、まだ手の中にあった。だが今は――素顔のままで歩くことにした。
この街を歩く。
この体で、この足で。
誰にも決められない、“僕の道”を。
**
やがて視界の奥に、光が見えた。
小さな喫茶店の窓から漏れる、やさしい橙色。
冬の夜に、ぽつんと浮かぶその明かりは、まるで迷い子を導く灯台のようだった。
店の名は――《Yume》。
その名の通り、ほんのひとときだけでも、夢を見させてくれる場所。
扉に手をかける前に、僕は少しだけ空を見上げた。
雲の切れ間から、かすかに星が瞬いている。
(……もう少しだけ、ここにいたい)
その想いが胸に浮かんだ瞬間、ゆっくりと扉を押し開ける。
――扉の鈴が、静かに鳴った
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次回から2章盛り上がりフェーズに入ります