その瞬間――“それ”は、空から堕ちてきた。
空を裂くように、黒い影が舞い降りる。
一拍遅れて、地面が砕ける音が響いた。
着地と同時にアスファルトが陥没し、中心から蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
乾いた音とともに、粉塵と夜風が舞い上がる。
そして、そこに立っていたのは――
白銀の髪に、血のように赤い双眸。
黒衣に身を包み、仮面の下から漏れる冷たい殺気。
まるで、“夜そのもの”を身に纏ったような怪物。
その姿は、“人”のものではなかった。
まるで、地獄から這い上がった“何か”。
「――っ、お前……!」
響華が、恐怖と驚愕を同時に吐き出す。
「あの時の……吸血鬼……!?」
四ノ宮も、苦しげに呻く。
あの赤い瞳、冷たい気配――数日前、自らの剣を受け止めた“存在”だ。
「新手ですか。司令部に連絡を」
荒井が無表情のまま無線に触れる。
「こちら荒井。未確認の吸血鬼を視認。応援を願います」
『了解。各部隊、周辺警戒を強化しつつ対応せよ』
無線越しの声が届くと同時に、影が音もなく揺らめいた。
“それ”――エンドは、静かに響華の前に立つ。
ゆっくりと仮面を外し、血のように赤い瞳を彼女へと向ける。
「……俺は、“守るべきもの”のために来た」
その声は、静かで、どこまでも深かった。
「
怒りも、悲しみも、後悔も――すべてを抱えた者だけが持つ、“決意の刃”。
それが今、真に振るわれる。
そのときだった。
後方――夜の闇を裂くように、複数の足音が響いてきた。
G.O.Dの応援部隊が、警戒網を突破して続々と到着していた。
「……うん。邪魔だな」
エンドは、ぽつりと呟いた。
その瞬間、彼の姿が“掻き消えた”。
「!? 消えた……?」
荒井が声を上げる暇すらなく――
気配が、“影”の中を滑った。
まるで水に染みこむように、彼の気配はアスファルトの下を這い、背後から迫る部隊の影へと入り込む。
そして次の瞬間――
スパァン――ッ!
右手の“咎の刃”が、一人目の首元を水平に裂いた。
血飛沫が音もなく夜に散り、兵士の体がぐらりと傾く。
それは、まるで“本能”のままに振るった一撃“咎の刃”だった。
悲鳴が上がる暇もない。
もう一人の兵士が振り返るよりも早く、
彼の“影”と、エンドの“影”が――結びついた。
闇の中に張られた一本の“縄”が、標的の行動を封じる。
そのまま、静かに。
エンドは左手の“赦しの刃”を引き抜くように持ち上げ、
すうっと滑るような足取りで近づく。
次の瞬間――
ズッ――。
刃は、まるで脈を探るように喉元へと滑り込み、
兵士の命を断ち切った。
そこにあったのは、怒りではない。
ただ、冷静に“必要な死”を与えるための一太刀“処刑刃”だった。
影の中で、エンドの白髪がゆらりと揺れる。
“咎”と“赦”――
本能と理性。怒りと祈り。
そのどちらもが、彼の中に在る。
そして今夜、それらは初めて“本物の刃”として振るわれる。
「……うん。ほんとに邪魔だ。俺の邪魔者ばかりだな」
その声は、怒っているわけでもなく、どこか冷めていた。
淡々と、感情の起伏もなく、ただ“事実”を並べるような声音。
次の瞬間――また、姿が掻き消えた。
「消えた――!?」
四ノ宮が叫ぶも、それはもう遅かった。
“気配”が移動する。
まるで空気すら察知できない、闇を裂くような瞬間移動。
そして――
スゥッ――
荒井の背後に、エンドの姿が“現れた”。
反射だけで、荒井は穿鋼を逆手に振り返る。
ガンッ――!!
金属が軋み、火花が散る。
なんとか受け止めた……はずだった。
しかし、次の瞬間。
「……!」
頬を、細い赤線が走った。
遅れてじわりと、血が流れ出す。
荒井は無言で一歩、距離を取った。
仮面の奥、紅の瞳が細められる。
「なるほどね……」
エンドは、まるで相手を咀嚼するように、淡々と呟いた。
戦士としての荒井の反応を、“興味深いサンプル”として観察しているかのように。
その眼差しは、すでに“人間のまなざし”ではなかった。
静かに踏み込む靴音。
仮面の紅が、夜に浮かび上がる。
それはまるで――影が、人間を試しているような光景だった。
「こいつ……見えているのか?」
荒井が穿鋼を構え直す。頬を裂いた一撃は浅い。けれど、その“正確さ”が不気味だった。
「さっきの斬撃……動きに無駄がなさすぎる」
四ノ宮も、隣に並びながら言葉を絞るように漏らす。
それは、殺すことだけを前提とした動き。
一度も躊躇せず、一歩の踏み込みにもためらいがない。
まるで“命”という概念を、既に断ち切った存在のようだった。
「俺が囮になる。四ノ宮、影を取らせるな。あれは影を媒介にするタイプだ」
「了解!」
荒井が一歩踏み込む。
穿鋼が炸裂し、エンドに向けて鋭く飛び出す。
しかし――
「遅い」
エンドの姿が、再び消えた。
穿鋼が穿ったのは、ただの空間。
そして次の瞬間――
「四ノ宮、下だ!!」
荒井の叫びに応じる前に、足元の影が揺れ、四ノ宮の背後に黒い“気配”が立ち上がる。
「クソ……!」
四ノ宮が間一髪で身をひねる。だが――
ザシュッ!!
右肩を浅く裂かれ、血が飛び散った。
「ぐっ……!」
痛みを押し殺しながら、大剣を振るう。
それを見ていたエンドは、一歩、すうっと距離を取る。
エンドは何も喋らなかった。まるで淡々と授業を進める教師のような冷静さがあった。
(こいつ……俺たちを“試してる”?)
荒井の額に、薄く汗がにじむ。
エンドは仮面の下から、紅の瞳を細める。
その目は、もう“誰かを殺すための戦い”ではなく、
“誰を残すべきかを見極める”ような冷たい選定の色だった。
「ならば」
荒井が息を整え、穿鋼を装填する。
「……こっちも、全力で応えるしかないな」
次の瞬間、穿鋼が火花を上げた。
同時に、四ノ宮の大剣が弧を描くように振るわれる。
左右からの挟撃。
本来であれば、避けようのない一撃。
――だが。
エンドは、静かに息を吸い込んだ。
次の瞬間――その身体がふっと“霧”へと変わる。
薄く、淡く、輪郭を失っていく影。
斬撃も、杭も、その身体を貫かない。
四ノ宮と荒井の攻撃は虚空を裂くだけだった。
エンドは霧となって姿を消した。
「……っ!? 消え――」
その言葉を最後まで紡ぐ暇もなく、
霧の中から――“紅”が煌めいた。
空間に漂っていた微粒子がゆっくりと収束し、輪郭を得ていく。
そこに立っていたのは、仮面をつけたまま、ただ一つの紅を灯す“怪物”だった。
音すら置き去りにする疾走。
吸血鬼としての身体能力に加え、かつて“グール”であった時のリミッターを完全に解放した力。
常識の枠を超えた脚力が、地面を穿つ。
「……っ!」
気づいたときには、すでに“通過していた”。
荒井と四ノ宮の間を、稲妻のような軌道で走り抜ける影。
アスファルトに靴音は残らない。
あるのは、焼き付いたような“紅い残像”だけだった。
(……見えない――!)
四ノ宮が瞬時に背後を振り返る。
だが、その視線の先にあるのは――空気の裂け目のような、静寂。
次の瞬間、空間そのものが“断ち切られた”。
ズガァッ――!!
「が……ッ!!」
鋼の如き音を立てて、四ノ宮の剣が弾かれた。
エンドの“咎の刃”が正面から振り下ろされる。
ただの一撃――だが、その重さと鋭さは尋常ではなかった。
ズガァッ!!
激突と共に、四ノ宮のレヴナント――黒銀の大剣が、刃の根元からバキバキと音を立ててひび割れ、次の瞬間には粉砕された。
砕けた金属片が空に舞い、地に落ちる。
「ッ……!」
肘が痺れ、腕が言うことを利かない。
そのまま四ノ宮はよろめき、膝をついた。
「四ノ宮!!」
荒井がすぐに駆け寄ろうとする。
だがその時、エンドが静かに振り返った。
瞳だけが、紅く灯る。
次の瞬間――
彼の拳が、荒井の右腕めがけて突き出された。
ただの拳。
武器でもない、素手の一撃――
しかしそれは、穿鋼ごと荒井の腕を打ち砕いた。
ゴガァッ!!
凄まじい衝撃音と共に、穿鋼の本体がバラバラに砕け散る。
中身の機構も外装も容赦なく粉砕され、破片が火花とともに辺りに降り注いだ。
「――は……?」
荒井の声が、しばらく言葉にならなかった。
手首から先が感覚を失い、穿鋼は見るも無残な残骸に成り果てていた。
「……理解できなかった」
思わず、そう零すしかなかった。
それは、ただの戦闘力の差ではない。
“理不尽”――その言葉が最も近い。
彼は、恐怖でも殺意でもなく、
ただ、当然のように壊した。
無造作に、無感情に。
まるで、それが“風を払う”ような些細な動作であるかのように。
エンドは二人を一瞥したあと、
まるで“価値のない対象”を切り捨てたかのように、無言で背を向けた。
その背中は、確かに語っていた。
――もう終わった。
――お前たちは、これ以上見るに値しない。
「お前……っ!」
四ノ宮が悔しげに地面を握りしめる。
震える拳。折られた剣。
砕けたレヴナントの破片が、彼の足元で虚しく転がっている。
その姿を、エンドは一切振り返らない。
まるで“殺す価値すらない”と判断されたかのような背中だった。
(――くそっ、俺たちは……殺される価値すらないってのかよ……ッ!)
死よりも恨めしい――
それは、“存在を見限られた”という、G.O.Dにとって最大の屈辱だった。
エンドは、振り返らなかった。
砕けた武器も、膝をつく二人の姿も、もはや視界には映らない。
彼の瞳は、もっと遠くを――
まだ崩れていない、“守るべきもの”の方を見ていた。
夜の風が、音もなく吹き抜ける。
冷たさも、匂いも、彼の肌にはもう届かない。
ただ静かに、歩き出す。
その背には、殺意も怒りもない。
あるのはただ――“選別”の意志。
「終わりだ。お前たちは、残す理由がない」
誰に語るでもなく、そう呟いた彼の声は、闇に溶けて消えていった。
“裁き”とは、斬ることではない。
誰を赦し、誰を見逃すか――
その選択が、“夜を歩く者”の術。
紅の瞳が、夜を切り裂く。
そしてそのまま、エンドは影へと溶けた。
彼が去ったあとに残ったのは、
破壊された街と、沈黙。
そして――
“殺されなかった”という、深く、静かな敗北だった。