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第29話 影より来たりて、赦さず

 その瞬間――“それ”は、空から堕ちてきた。


 空を裂くように、黒い影が舞い降りる。

 一拍遅れて、地面が砕ける音が響いた。


 着地と同時にアスファルトが陥没し、中心から蜘蛛の巣状に亀裂が走る。

 乾いた音とともに、粉塵と夜風が舞い上がる。


 そして、そこに立っていたのは――


 白銀の髪に、血のように赤い双眸。

 黒衣に身を包み、仮面の下から漏れる冷たい殺気。


 まるで、“夜そのもの”を身に纏ったような怪物。

 その姿は、“人”のものではなかった。


 まるで、地獄から這い上がった“何か”。


「――っ、お前……!」


 響華が、恐怖と驚愕を同時に吐き出す。


「あの時の……吸血鬼……!?」


 四ノ宮も、苦しげに呻く。

 あの赤い瞳、冷たい気配――数日前、自らの剣を受け止めた“存在”だ。


「新手ですか。司令部に連絡を」


 荒井が無表情のまま無線に触れる。


「こちら荒井。未確認の吸血鬼を視認。応援を願います」


『了解。各部隊、周辺警戒を強化しつつ対応せよ』


 無線越しの声が届くと同時に、影が音もなく揺らめいた。


“それ”――エンドは、静かに響華の前に立つ。


 ゆっくりと仮面を外し、血のように赤い瞳を彼女へと向ける。


「……俺は、“守るべきもの”のために来た」


 その声は、静かで、どこまでも深かった。


罰と赦ばつとゆるしをいだくやいば


 怒りも、悲しみも、後悔も――すべてを抱えた者だけが持つ、“決意の刃”。

 それが今、真に振るわれる。



 そのときだった。


 後方――夜の闇を裂くように、複数の足音が響いてきた。

 G.O.Dの応援部隊が、警戒網を突破して続々と到着していた。


「……うん。邪魔だな」


 エンドは、ぽつりと呟いた。


 その瞬間、彼の姿が“掻き消えた”。


「!? 消えた……?」


 荒井が声を上げる暇すらなく――


 気配が、“影”の中を滑った。


 まるで水に染みこむように、彼の気配はアスファルトの下を這い、背後から迫る部隊の影へと入り込む。


 そして次の瞬間――


 スパァン――ッ!


 右手の“咎の刃”が、一人目の首元を水平に裂いた。

 血飛沫が音もなく夜に散り、兵士の体がぐらりと傾く。


 それは、まるで“本能”のままに振るった一撃“咎の刃”だった。


 悲鳴が上がる暇もない。


 もう一人の兵士が振り返るよりも早く、

 彼の“影”と、エンドの“影”が――結びついた。


 闇の中に張られた一本の“縄”が、標的の行動を封じる。


 そのまま、静かに。

 エンドは左手の“赦しの刃”を引き抜くように持ち上げ、

 すうっと滑るような足取りで近づく。


 次の瞬間――


 ズッ――。


 刃は、まるで脈を探るように喉元へと滑り込み、

 兵士の命を断ち切った。


 そこにあったのは、怒りではない。

 ただ、冷静に“必要な死”を与えるための一太刀“処刑刃”だった。


 影の中で、エンドの白髪がゆらりと揺れる。


“咎”と“赦”――

 本能と理性。怒りと祈り。

 そのどちらもが、彼の中に在る。


 そして今夜、それらは初めて“本物の刃”として振るわれる。


「……うん。ほんとに邪魔だ。俺の邪魔者ばかりだな」


 その声は、怒っているわけでもなく、どこか冷めていた。

 淡々と、感情の起伏もなく、ただ“事実”を並べるような声音。


 次の瞬間――また、姿が掻き消えた。


「消えた――!?」


 四ノ宮が叫ぶも、それはもう遅かった。


“気配”が移動する。

 まるで空気すら察知できない、闇を裂くような瞬間移動。


 そして――


 スゥッ――


 荒井の背後に、エンドの姿が“現れた”。


 反射だけで、荒井は穿鋼を逆手に振り返る。


 ガンッ――!!


 金属が軋み、火花が散る。

 なんとか受け止めた……はずだった。


 しかし、次の瞬間。


「……!」


 頬を、細い赤線が走った。

 遅れてじわりと、血が流れ出す。


 荒井は無言で一歩、距離を取った。


 仮面の奥、紅の瞳が細められる。


「なるほどね……」


 エンドは、まるで相手を咀嚼するように、淡々と呟いた。

 戦士としての荒井の反応を、“興味深いサンプル”として観察しているかのように。


 その眼差しは、すでに“人間のまなざし”ではなかった。


 静かに踏み込む靴音。

 仮面の紅が、夜に浮かび上がる。


 それはまるで――影が、人間を試しているような光景だった。


「こいつ……見えているのか?」


 荒井が穿鋼を構え直す。頬を裂いた一撃は浅い。けれど、その“正確さ”が不気味だった。


「さっきの斬撃……動きに無駄がなさすぎる」


 四ノ宮も、隣に並びながら言葉を絞るように漏らす。


 それは、殺すことだけを前提とした動き。


 一度も躊躇せず、一歩の踏み込みにもためらいがない。

 まるで“命”という概念を、既に断ち切った存在のようだった。


「俺が囮になる。四ノ宮、影を取らせるな。あれは影を媒介にするタイプだ」


「了解!」


 荒井が一歩踏み込む。

 穿鋼が炸裂し、エンドに向けて鋭く飛び出す。


 しかし――


「遅い」


 エンドの姿が、再び消えた。


 穿鋼が穿ったのは、ただの空間。


 そして次の瞬間――


「四ノ宮、下だ!!」


 荒井の叫びに応じる前に、足元の影が揺れ、四ノ宮の背後に黒い“気配”が立ち上がる。


「クソ……!」


 四ノ宮が間一髪で身をひねる。だが――


 ザシュッ!!


 右肩を浅く裂かれ、血が飛び散った。


「ぐっ……!」


 痛みを押し殺しながら、大剣を振るう。

 それを見ていたエンドは、一歩、すうっと距離を取る。


 エンドは何も喋らなかった。まるで淡々と授業を進める教師のような冷静さがあった。


(こいつ……俺たちを“試してる”?)


 荒井の額に、薄く汗がにじむ。


 エンドは仮面の下から、紅の瞳を細める。

 その目は、もう“誰かを殺すための戦い”ではなく、

“誰を残すべきかを見極める”ような冷たい選定の色だった。


「ならば」


 荒井が息を整え、穿鋼を装填する。


「……こっちも、全力で応えるしかないな」


 次の瞬間、穿鋼が火花を上げた。


 同時に、四ノ宮の大剣が弧を描くように振るわれる。


 左右からの挟撃。

 本来であれば、避けようのない一撃。


 ――だが。


 エンドは、静かに息を吸い込んだ。


 次の瞬間――その身体がふっと“霧”へと変わる。


 薄く、淡く、輪郭を失っていく影。

 斬撃も、杭も、その身体を貫かない。


 四ノ宮と荒井の攻撃は虚空を裂くだけだった。


 エンドは霧となって姿を消した。


「……っ!? 消え――」


 その言葉を最後まで紡ぐ暇もなく、


 霧の中から――“紅”が煌めいた。


 空間に漂っていた微粒子がゆっくりと収束し、輪郭を得ていく。

 そこに立っていたのは、仮面をつけたまま、ただ一つの紅を灯す“怪物”だった。



 音すら置き去りにする疾走。


 吸血鬼としての身体能力に加え、かつて“グール”であった時のリミッターを完全に解放した力。

 常識の枠を超えた脚力が、地面を穿つ。


「……っ!」


 気づいたときには、すでに“通過していた”。


 荒井と四ノ宮の間を、稲妻のような軌道で走り抜ける影。


 アスファルトに靴音は残らない。

 あるのは、焼き付いたような“紅い残像”だけだった。


(……見えない――!)


 四ノ宮が瞬時に背後を振り返る。

 だが、その視線の先にあるのは――空気の裂け目のような、静寂。


 次の瞬間、空間そのものが“断ち切られた”。


 ズガァッ――!!


「が……ッ!!」


 鋼の如き音を立てて、四ノ宮の剣が弾かれた。


 エンドの“咎の刃”が正面から振り下ろされる。

 ただの一撃――だが、その重さと鋭さは尋常ではなかった。


 ズガァッ!!


 激突と共に、四ノ宮のレヴナント――黒銀の大剣が、刃の根元からバキバキと音を立ててひび割れ、次の瞬間には粉砕された。


 砕けた金属片が空に舞い、地に落ちる。


「ッ……!」


 肘が痺れ、腕が言うことを利かない。

 そのまま四ノ宮はよろめき、膝をついた。


「四ノ宮!!」


 荒井がすぐに駆け寄ろうとする。

 だがその時、エンドが静かに振り返った。


 瞳だけが、紅く灯る。


 次の瞬間――


 彼の拳が、荒井の右腕めがけて突き出された。


 ただの拳。


 武器でもない、素手の一撃――


 しかしそれは、穿鋼ごと荒井の腕を打ち砕いた。


 ゴガァッ!!


 凄まじい衝撃音と共に、穿鋼の本体がバラバラに砕け散る。

 中身の機構も外装も容赦なく粉砕され、破片が火花とともに辺りに降り注いだ。


「――は……?」


 荒井の声が、しばらく言葉にならなかった。


 手首から先が感覚を失い、穿鋼は見るも無残な残骸に成り果てていた。


「……理解できなかった」


 思わず、そう零すしかなかった。


 それは、ただの戦闘力の差ではない。

“理不尽”――その言葉が最も近い。


 彼は、恐怖でも殺意でもなく、

 ただ、当然のように壊した。


 無造作に、無感情に。

 まるで、それが“風を払う”ような些細な動作であるかのように。


 エンドは二人を一瞥したあと、

 まるで“価値のない対象”を切り捨てたかのように、無言で背を向けた。


 その背中は、確かに語っていた。


 ――もう終わった。


 ――お前たちは、これ以上見るに値しない。


「お前……っ!」


 四ノ宮が悔しげに地面を握りしめる。


 震える拳。折られた剣。

 砕けたレヴナントの破片が、彼の足元で虚しく転がっている。


 その姿を、エンドは一切振り返らない。


 まるで“殺す価値すらない”と判断されたかのような背中だった。


(――くそっ、俺たちは……殺される価値すらないってのかよ……ッ!)


 死よりも恨めしい――


 それは、“存在を見限られた”という、G.O.Dにとって最大の屈辱だった。


 エンドは、振り返らなかった。

 砕けた武器も、膝をつく二人の姿も、もはや視界には映らない。


 彼の瞳は、もっと遠くを――

 まだ崩れていない、“守るべきもの”の方を見ていた。


 夜の風が、音もなく吹き抜ける。

 冷たさも、匂いも、彼の肌にはもう届かない。

 ただ静かに、歩き出す。


 その背には、殺意も怒りもない。

 あるのはただ――“選別”の意志。


「終わりだ。お前たちは、残す理由がない」


 誰に語るでもなく、そう呟いた彼の声は、闇に溶けて消えていった。


“裁き”とは、斬ることではない。

 誰を赦し、誰を見逃すか――

 その選択が、“夜を歩く者”の術。


 紅の瞳が、夜を切り裂く。

 そしてそのまま、エンドは影へと溶けた。


 彼が去ったあとに残ったのは、

 破壊された街と、沈黙。


 そして――


“殺されなかった”という、深く、静かな敗北だった。

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