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第33話 目覚めの1杯

 東京都千代田区霞ヶ関三丁目。

 官公庁の巨大な建物群に紛れるように、ひときわ高く、無機質な外観のタワーが聳え立っていた。


 ――神代財閥本社ビル。


 霞ヶ関の中でも異様な静けさを持つそのビルは、まるで他の建物とは“空気”が違っていた。

 音が吸い込まれるように消え、目に見えぬ圧が、周囲にじわじわと広がっている。


 俺たちの乗った黒い車は、ビル正面の円形ロータリーで静かに停車した。

 まるで舞台の幕が開くように、ドアが自動で開き、冷たい夜風とともに異質な空気が流れ込んでくる。


「こちらです」


 先導するのは、さきほどの仮面の男だった。

 無表情なデジタル音声のような声で、無駄のない動きで俺たちを促す。


 神代財閥。


 日本の財閥界の頂点に立つ存在であり、政財界、さらには国際的な枠組みにまで深く根を張る影の支配者。

 中でも、代表を務める**神代慧臣かみしろ けいしん**という男は――

 何十年もその座に就きながら、顔も、声も、まるで老いることがないという不気味な噂がある。


 都市伝説と笑う者もいれば、真実だと囁く者もいる。

 だが、今――その真偽に踏み込む機会が、目の前にある。


 自動ドアが静かに開く。

 中に一歩踏み入れたその瞬間、世界の“密度”が変わった気がした。


 白を基調にした無機質なロビー。

 その中央に、仮面をつけた数十人の男女が整列していた。

 全員がスーツを着込み、顔の上半分を覆う、まるで儀式のような仮面をつけている。


「――お待ちしておりました」


 全員が同時に一礼し、同時に言葉を発した。


(……なんだ、この空気は)


 違和感が、皮膚の裏からじわじわと忍び込んでくる。

 ただの企業とは思えない、**“集団としての意志”**のようなものを感じた。


「こちらから私がご案内いたします」


 そう言って一歩前に出てきた男だけは、他の者とは明らかに異なる仮面をつけていた。

 黒を基調とした、鳥を模したような仮面――

 まるで“告死の使者”を思わせるような、不気味な意匠だった。


 その声を聞いた瞬間、隣のセレナがピクリと反応する。


「……あなたは……」


 わずかに声が震えていた。


「お久しぶりです、セレナ様。――こちらへどうぞ」


 その男は、深く一礼し、まるで昔からの知己のような口ぶりでセレナにだけ語りかけた。


 俺は思わず、彼女の横顔を見た。


 動揺していたのは、どうやらセレナだけのようだった。

 その視線の奥には、驚きと、恐れと、拭いきれない過去の影が入り混じっていた。


 ――この男の正体は、かつてセレナの上司としてG.O.Dに所属していた人物。

 表向きは3区掃討作戦で既に死亡、もしくは失踪とされていたはずの男だった。


 そして今、神代の元で仮面をつけ、“別の顔”として立っている。






 鳥の仮面の男に導かれ、俺たちは無言のままエレベーターに乗り込んだ。


 ボタンは押されていない。

 自動で、ゆっくりとエレベーターは上昇を始めた。


 外の景色が少しずつ遠ざかっていく。

 窓のない筐体のはずなのに、なぜか“見下ろしている”という感覚だけは、はっきりとわかる。


 高く、高く、どこまでも上へ――。


 静寂の中で、わずかに軋む金属音が、不思議と耳に残った。

 このまま、空を突き抜けてどこか違う世界へ連れていかれるような、そんな錯覚すら覚えた。


 チン。


 電子音が鳴る。

 目的の階に到着したことを告げるには、あまりにも小さく、静かな音だった。


 神代財閥本社ビル――最上階。

 代表執務室。


 鳥の仮面の男が一歩前に出て、無言で扉をノックする。

 その動作はまるで儀式のように丁寧で、異様な緊張感を漂わせていた。


「こちらでお待ちです」


 静かに扉が開かれる。


 ――その奥にいたのは、ひとりの男。


 艶のある肌、整った輪郭。

 年齢の一切を感じさせない滑らかな顔立ち。

 だが、その若々しさこそが、常識からの逸脱を感じさせる不気味さの源だった。


 男は、執務室の広い窓の前で背を向けていた。

 東京の街を一望できる夜景の中に、静かに佇んでいる。


 そして――


「んぅぅ〜ん。やっぱりこのコーヒーは、豆から違うねぇ」


 ふっと鼻を鳴らし、カップを傾けながら香りを楽しんでいた。


 その声は驚くほど軽やかで、優雅だった。

 まるで、俺たちの訪問など“想定通りの余興”だと言わんばかりに。


「……一緒にどうだい?」


 ゆっくりと、男がこちらへ振り向いた。


 薄く微笑むその表情には、敵意も好意もなかった。

 ただ――すべてを知っている者の笑みだった。


「“Yume”で使っていた豆でね。手に入れるのが少々大変だったよ。

 あの場所、君たちにとっては大切な記憶だろう?」


 俺とセレナの視線がぶつかる。

 彼の言葉の意図を読み取ろうとするが、表情からは何も読み取れなかった。


「……どうして、それを?」


 俺が問いかけようとした瞬間、慧臣は楽しげに小さく笑った。


「どうして、って――僕は“見ていた”だけさ。ずっとね。

 君が目覚めた夜も。

 君が選んだ“血”も。

 君が手放した“名前”さえも――」


 その声は優しい。

 だが、どこまでも底が見えない。


 この男は、本当に人間なのか――

 それとも、もっと別の何かか。


「さあ、エンド君。セレナ君。

 ようこそ――“本当の夜”へ」


 コーヒーの香りが、なぜか急に苦く感じられた。

 それはまるで、心地よい眠りを断ち切る“目覚めの一杯”。

 甘い夢を終わらせ、現実という名の夜へと引き戻すための――。



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