東京都千代田区霞ヶ関三丁目。
官公庁の巨大な建物群に紛れるように、ひときわ高く、無機質な外観のタワーが聳え立っていた。
――神代財閥本社ビル。
霞ヶ関の中でも異様な静けさを持つそのビルは、まるで他の建物とは“空気”が違っていた。
音が吸い込まれるように消え、目に見えぬ圧が、周囲にじわじわと広がっている。
俺たちの乗った黒い車は、ビル正面の円形ロータリーで静かに停車した。
まるで舞台の幕が開くように、ドアが自動で開き、冷たい夜風とともに異質な空気が流れ込んでくる。
「こちらです」
先導するのは、さきほどの仮面の男だった。
無表情なデジタル音声のような声で、無駄のない動きで俺たちを促す。
神代財閥。
日本の財閥界の頂点に立つ存在であり、政財界、さらには国際的な枠組みにまで深く根を張る影の支配者。
中でも、代表を務める**
何十年もその座に就きながら、顔も、声も、まるで老いることがないという不気味な噂がある。
都市伝説と笑う者もいれば、真実だと囁く者もいる。
だが、今――その真偽に踏み込む機会が、目の前にある。
自動ドアが静かに開く。
中に一歩踏み入れたその瞬間、世界の“密度”が変わった気がした。
白を基調にした無機質なロビー。
その中央に、仮面をつけた数十人の男女が整列していた。
全員がスーツを着込み、顔の上半分を覆う、まるで儀式のような仮面をつけている。
「――お待ちしておりました」
全員が同時に一礼し、同時に言葉を発した。
(……なんだ、この空気は)
違和感が、皮膚の裏からじわじわと忍び込んでくる。
ただの企業とは思えない、**“集団としての意志”**のようなものを感じた。
「こちらから私がご案内いたします」
そう言って一歩前に出てきた男だけは、他の者とは明らかに異なる仮面をつけていた。
黒を基調とした、鳥を模したような仮面――
まるで“告死の使者”を思わせるような、不気味な意匠だった。
その声を聞いた瞬間、隣のセレナがピクリと反応する。
「……あなたは……」
わずかに声が震えていた。
「お久しぶりです、セレナ様。――こちらへどうぞ」
その男は、深く一礼し、まるで昔からの知己のような口ぶりでセレナにだけ語りかけた。
俺は思わず、彼女の横顔を見た。
動揺していたのは、どうやらセレナだけのようだった。
その視線の奥には、驚きと、恐れと、拭いきれない過去の影が入り混じっていた。
――この男の正体は、かつてセレナの上司としてG.O.Dに所属していた人物。
表向きは3区掃討作戦で既に死亡、もしくは失踪とされていたはずの男だった。
そして今、神代の元で仮面をつけ、“別の顔”として立っている。
鳥の仮面の男に導かれ、俺たちは無言のままエレベーターに乗り込んだ。
ボタンは押されていない。
自動で、ゆっくりとエレベーターは上昇を始めた。
外の景色が少しずつ遠ざかっていく。
窓のない筐体のはずなのに、なぜか“見下ろしている”という感覚だけは、はっきりとわかる。
高く、高く、どこまでも上へ――。
静寂の中で、わずかに軋む金属音が、不思議と耳に残った。
このまま、空を突き抜けてどこか違う世界へ連れていかれるような、そんな錯覚すら覚えた。
チン。
電子音が鳴る。
目的の階に到着したことを告げるには、あまりにも小さく、静かな音だった。
神代財閥本社ビル――最上階。
代表執務室。
鳥の仮面の男が一歩前に出て、無言で扉をノックする。
その動作はまるで儀式のように丁寧で、異様な緊張感を漂わせていた。
「こちらでお待ちです」
静かに扉が開かれる。
――その奥にいたのは、ひとりの男。
艶のある肌、整った輪郭。
年齢の一切を感じさせない滑らかな顔立ち。
だが、その若々しさこそが、常識からの逸脱を感じさせる不気味さの源だった。
男は、執務室の広い窓の前で背を向けていた。
東京の街を一望できる夜景の中に、静かに佇んでいる。
そして――
「んぅぅ〜ん。やっぱりこのコーヒーは、豆から違うねぇ」
ふっと鼻を鳴らし、カップを傾けながら香りを楽しんでいた。
その声は驚くほど軽やかで、優雅だった。
まるで、俺たちの訪問など“想定通りの余興”だと言わんばかりに。
「……一緒にどうだい?」
ゆっくりと、男がこちらへ振り向いた。
薄く微笑むその表情には、敵意も好意もなかった。
ただ――すべてを知っている者の笑みだった。
「“Yume”で使っていた豆でね。手に入れるのが少々大変だったよ。
あの場所、君たちにとっては大切な記憶だろう?」
俺とセレナの視線がぶつかる。
彼の言葉の意図を読み取ろうとするが、表情からは何も読み取れなかった。
「……どうして、それを?」
俺が問いかけようとした瞬間、慧臣は楽しげに小さく笑った。
「どうして、って――僕は“見ていた”だけさ。ずっとね。
君が目覚めた夜も。
君が選んだ“血”も。
君が手放した“名前”さえも――」
その声は優しい。
だが、どこまでも底が見えない。
この男は、本当に人間なのか――
それとも、もっと別の何かか。
「さあ、エンド君。セレナ君。
ようこそ――“本当の夜”へ」
コーヒーの香りが、なぜか急に苦く感じられた。
それはまるで、心地よい眠りを断ち切る“目覚めの一杯”。
甘い夢を終わらせ、現実という名の夜へと引き戻すための――。