23時――。
レジカウンターの正面、つまりドリンクコーナーの真上に設置された時計を見ながら、室井星は背筋をしゅっと伸ばした。
仕事中だから鏡を見ることはできない。それでも、少しでも「まとも」な大人に見られたくて、髪を手櫛でとかす。口角を限界まで上げたり頬に触れてみたりして表情筋を活性化させ、12連勤の疲れを隠すのも忘れない。
毎週、水曜日の23時。「あの人」は必ずコンビニにやってくる。
ちゃらららら、ちゃらららら~。
23時を過ぎ、入店音が響く。吸い寄せられるように自動ドアに目をやると――信じられない! あの人がいる!
年齢は、星より少し高めの20代後半。高い鼻に、切れ長の目。髪は凛々しく刈り上げられたツーブロックで、しっかりセットしているためかサイドの髪が乱れることはまずない。
いかにも「できるサラリーマン」という出で立ちだが、意外にも毎回スーツは着ていない。この日も、彼はジーンズにVネックセーターというシンプルなファッションだった。
彼が買うものは、毎回決まっている。
エナジードリンクと、完全食のパン。食に興味がないのか、それ以外のものを買っているのを、見たことがない。
その日も彼は、先週と変わらぬ動きで棚と棚の間を巡り、商品を手に取っていく。カゴを持たないのも、いつもと同じだ。
「お願いします」
「レジ袋はご入り用ですか?」
「結構です」
このやり取りも、普段と同じだ。
ちなみに彼は現金も持ち歩かない。そのため、お釣りの受け渡しもない。指と指が触れる瞬間のときめき――。それを得られないのが、星は口惜しくてならなかった。
「ありがとうございました。またお越しください」
それを合図に、二人のやり取りは終わる。
23時に始まったロマンスは、2分程度で終わってしまう。しかし、今の星にはこの2分間が人生のすべて――生きがいだった。
星は、今年で26歳。
結構な大人だが、生まれついての童顔とくせ毛に加え、絶望的にセンスの悪い黄緑色のユニフォームを着ているので高校生バイトに間違えられることも少なくない。
そんな星が新卒で入社した会社を辞め、アパート近くのコンビニで夜勤をするようになって、もう2年だった。
給料は、正社員として働いていた頃の半分以下。社員同士のしがらみや上司からのプレッシャーがない分、気持ちは楽だった。だが、競争社会からフェードアウトした今、星は人との交流に餓えていた。もっとドキドキして、ワクワクして――そして、ハラハラするような体験を、星はしたかった。
だから、夜勤中であるにもかかわらず、ひたすら目で追ってしまう。
自分を力強く抱き、愛撫してくれそうな、逞しい“男”を――。
こんな時代だから、自分の恋愛対象が男であることを「おかしい」とか「変だ」と思うことはほとんどなかった。
だが、面と向かって同性に「好きです」と言う勇気はなく、思春期の少女のように好みの男性を目で追うことくらいしかできなくなった。
名前も知らない、水曜日深夜に現れる「あの人」も、星を束の間「ハラハラ」させてくれる男の一人だった。
(次会えるのは一週間後か……)
そう思うと、星の気持ちはずん、と重くなる。
何の変哲もない、平坦な人生を歩んでいると嫌でも20代前半の狂乱を思い出して、懐かしくなってしまう。
(まぁ……二度とあんな面倒はご免だからな……)
過去を思い出すと、また胸が苦しくなる。
(だめ、だめ。仕事に集中しよう)
見上げれば、時計の針はまだ15分しか進んでいない。
星の上がりは、朝7時。まだまだ夜は、始まったばかりだった。