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第3話 奇跡

(奇跡だ……!)

 星が抱いた、最初の感想はそれだった。

 いつもは水曜日の23時にしか現れない「あの人」が、翌日にも現れてくれたからだ。しかも、買うものもいつもと違う。

「チケットの発券、お願いします」

 そう言いながら、彼はスマホの画面を星に見せてくる。

 バクバクと跳ねる心臓をどうにか抑えながら、星は画面に映るQRコードをスキャンした。レジの後ろにある発券機がガー、ガー、と唸り、チケットを吐き出す。

 星は震える手でチケットを彼に差し出した。

「内容に間違いがないか、ご確認ください」

 そう告げると、彼が頭をぐっとこちらに寄せてくる。

 ほんの少しだけ、星と彼の距離が近づいた。

(奇跡……第二弾!)

 2日のうちに、奇跡がこんなに重なったらバチが当たるんじゃないかと、本気で怖くなってくる。むしろ、この時間よ早く去ってくれとすら、思ってしまう。

「あのー」

「え?」

 突然話しかけられ、心臓が早鐘を打つ。

「チケット2枚申し込んだんですけど、1枚だけですか?」

 上目遣いでそう問われ、星はほとんど意識が飛びかけた。黒よりは紺に近いその瞳はどこか野性的で、星の背中にぞくぞくとした感覚が走る。

「え、あの……ええと……」

「すみません。怒ってるんじゃないんです。連れと観に行く公演だから2枚揃っていないと困るので……。確認していだけますか?」

 そう言われ、星は急に目が覚めたようになる。発券機まで取って返すと、2枚目のチケットが出たままになっていた。余程慌てていたのか、発券機の警告音にも気づかなかったらしい。

「大変申し訳ありませんでした。こちらが2枚目になります」

「ああ、よかった。どうもありがとうございます」

 にこ、と彼が笑う。

 美しく並んだ白い歯が光り、星の心臓が撃ち抜かれる。

(今の俺は、まともじゃない……)

 ふと、そんなことを考えた。

(まともじゃないから、ちょっと人の道から外れることもある)

 駄目だ駄目だと思いながらも、視線を手元のチケットに落としてしまう。

 公演名と、公演日の下に書かれた、発券者の名前――。

(須藤慎也――。この人、慎也さんっていうのか)

 今まで、一方的に慕っていた相手に名前という固有名詞が与えられ、星の心は一気に華やぐ。

「またのご来店を、お待ちしております」

 いつも通りの挨拶を、彼に投げかける。しかし、その彼に今は「慎也さん」という名前がある。

(慎也さん、慎也さん、慎也さん)

 二人の距離がこれ以上縮まることはないだろう。しかし、憧れの人に心の中で「慎也さん」と呼びかけられる――。これ以上に嬉しいことが、あるはずもなかった。


(やっぱり、彼女とかいるのかな?)

  翌日の夜勤でも、星はそのことばかり考えていた。

 深夜のコンビニに、来客はほとんどない。それなのに、店内の照明が明る過ぎるので頭は妙に冴えてしまう。結果的に、須藤のことばかり考えてしまうのだ。

 チケットの名前を確認したとき、公演名も目に入ってきた。

 椿姫――。

 有名なオペラ作品であることは、観劇など一度もしたことのない星でも知っている。

(連れと観に行く公演だから2枚揃っていないと困るので……)

 慎也の声が、脳内で何度も響く。「連れ」と言ってごまかしていたが、こういう作品を一緒に観に行くのは100%彼女だろう。今更ながら、当たり前の事実に星は落胆する。

(あれだけかっこよくて、金も持ってそうだんもん。そりゃあ、彼女くらいいるよな)

 自分にそう言い聞かせたとき、入店音が響いた。

 びくっ、として自動ドアのほうを見た瞬間、星はため息をつきそうになった。

 たまに来る、若いカップル。男のほうはかなり若く、スキニーパンツにTシャツと、割と清潔感のある格好をしている。しかし、女のほうはジャージにサンダル、ノーメイクという、絵に描いたようなマイルドヤンキーだった。

「うわっ、まじねむ~」

「ルキ君、これ食う?」

「パン食おうぜ、パン?」

「そーいや、もうビールねーわ」

 眠そうな声が、店内に響く。喋るのもほとんど女のほうだ。

 サンダルの音をペタペタと鳴らしながら、女がレジかごをカウンターにどさ、と置く。スマホを見るばかりで、こちらの顔など一切見ない。くちゃくちゃとガムを噛む音が、耳ざわりだ。

「タバコ!」

 女が、叫ぶ。

 お前が吸っている銘柄など知るはずもないだろうと思いながら、星は必死に怒りを抑えた。

「お客様、煙草をお求めの際は番号でお願いいたします」

「はぁ!? いっつも買いに来てやってんのに、なんで覚えてねーの? マルボロだよ、マルボロ!」

 女が、唾をまき散らしながら叫ぶ。薄紫色の唇からガタガタの歯がのぞき、なんだか星は悲しい気分になってしまう。さっきま慎也のことを考えて幸せだったのに……。

 女の圧に押されて……と言うより、これ以上相手をしてやるのが心底だるかったので、指定された煙草を取りに行く。赤いパッケージの煙草を渡すと、再び女が吠えた。

「これじゃねーよ! いつもメンソール買ってんのなんで覚えねぇんだよ、カス!」

 女は怒鳴りながら、カウンターをどんどんと叩く。あまりに激しく動くせいで、頭頂部でひとまとめにした髪が、プロペラのようにぐるんぐるん回っていた。女の怒鳴り声、カウンターを叩く音、辺りにまき散らされる女のツバ――。夜勤勤務が続いていることもあって、頭がくらくらとしてくる。

「21番」

 そのとき、男のほうがぼそりとつぶやいた。

「マルボロのメンソールは、21番」

 意外にもよく通る声で、男のほうが言った。

 星は、言われた通り21番の煙草をカウンターに置いた。

「そーだよ、これだよ!」

 女はタバコをひったくると、床にぺっと唾を吐いた。

「ルキ君に感謝するんだな!」

 女のヒステリーは止み、さっきまで大暴れしていたことを忘れたかのように、男の腕を取る。

「もぉ~、ルキ君ったら優しんだからぁ」

 女に抱き着かれるままになっている男を、星は見た。

 ニキビひとつない、艶やかな肌。若さの滲み出た、赤い唇。そして、切れ長の美しい目――。慎也の目も切れ長なので、この二人は結構似ているのかもしれないと、星は思った。

(ルキ君、って呼ばれてたな……)

 若くてルックスにも恵まれたルキが、なぜあんな女と付き合っているのか、星には疑問だった。少なくとも自分のほうが清潔感はあるし、身だしなみにも気を遣っていると、変な対抗心も抱いてしまう。

(何考えてんだよ……。さっきまで慎也さんのことばっかり考えてたのに)

 ルキの隣に、あの女ではなく自分が立っている――。そんな妄想を、星はかなぐり捨てた。俺には慎也さんだけ――。いや、正確には慎也さんも自分のものではないのだけど、せめて妄想の中だけでは、一途な男でありたかった。


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