(奇跡だ……!)
星が抱いた、最初の感想はそれだった。
いつもは水曜日の23時にしか現れない「あの人」が、翌日にも現れてくれたからだ。しかも、買うものもいつもと違う。
「チケットの発券、お願いします」
そう言いながら、彼はスマホの画面を星に見せてくる。
バクバクと跳ねる心臓をどうにか抑えながら、星は画面に映るQRコードをスキャンした。レジの後ろにある発券機がガー、ガー、と唸り、チケットを吐き出す。
星は震える手でチケットを彼に差し出した。
「内容に間違いがないか、ご確認ください」
そう告げると、彼が頭をぐっとこちらに寄せてくる。
ほんの少しだけ、星と彼の距離が近づいた。
(奇跡……第二弾!)
2日のうちに、奇跡がこんなに重なったらバチが当たるんじゃないかと、本気で怖くなってくる。むしろ、この時間よ早く去ってくれとすら、思ってしまう。
「あのー」
「え?」
突然話しかけられ、心臓が早鐘を打つ。
「チケット2枚申し込んだんですけど、1枚だけですか?」
上目遣いでそう問われ、星はほとんど意識が飛びかけた。黒よりは紺に近いその瞳はどこか野性的で、星の背中にぞくぞくとした感覚が走る。
「え、あの……ええと……」
「すみません。怒ってるんじゃないんです。連れと観に行く公演だから2枚揃っていないと困るので……。確認していだけますか?」
そう言われ、星は急に目が覚めたようになる。発券機まで取って返すと、2枚目のチケットが出たままになっていた。余程慌てていたのか、発券機の警告音にも気づかなかったらしい。
「大変申し訳ありませんでした。こちらが2枚目になります」
「ああ、よかった。どうもありがとうございます」
にこ、と彼が笑う。
美しく並んだ白い歯が光り、星の心臓が撃ち抜かれる。
(今の俺は、まともじゃない……)
ふと、そんなことを考えた。
(まともじゃないから、ちょっと人の道から外れることもある)
駄目だ駄目だと思いながらも、視線を手元のチケットに落としてしまう。
公演名と、公演日の下に書かれた、発券者の名前――。
(須藤慎也――。この人、慎也さんっていうのか)
今まで、一方的に慕っていた相手に名前という固有名詞が与えられ、星の心は一気に華やぐ。
「またのご来店を、お待ちしております」
いつも通りの挨拶を、彼に投げかける。しかし、その彼に今は「慎也さん」という名前がある。
(慎也さん、慎也さん、慎也さん)
二人の距離がこれ以上縮まることはないだろう。しかし、憧れの人に心の中で「慎也さん」と呼びかけられる――。これ以上に嬉しいことが、あるはずもなかった。
(やっぱり、彼女とかいるのかな?)
翌日の夜勤でも、星はそのことばかり考えていた。
深夜のコンビニに、来客はほとんどない。それなのに、店内の照明が明る過ぎるので頭は妙に冴えてしまう。結果的に、須藤のことばかり考えてしまうのだ。
チケットの名前を確認したとき、公演名も目に入ってきた。
椿姫――。
有名なオペラ作品であることは、観劇など一度もしたことのない星でも知っている。
(連れと観に行く公演だから2枚揃っていないと困るので……)
慎也の声が、脳内で何度も響く。「連れ」と言ってごまかしていたが、こういう作品を一緒に観に行くのは100%彼女だろう。今更ながら、当たり前の事実に星は落胆する。
(あれだけかっこよくて、金も持ってそうだんもん。そりゃあ、彼女くらいいるよな)
自分にそう言い聞かせたとき、入店音が響いた。
びくっ、として自動ドアのほうを見た瞬間、星はため息をつきそうになった。
たまに来る、若いカップル。男のほうはかなり若く、スキニーパンツにTシャツと、割と清潔感のある格好をしている。しかし、女のほうはジャージにサンダル、ノーメイクという、絵に描いたようなマイルドヤンキーだった。
「うわっ、まじねむ~」
「ルキ君、これ食う?」
「パン食おうぜ、パン?」
「そーいや、もうビールねーわ」
眠そうな声が、店内に響く。喋るのもほとんど女のほうだ。
サンダルの音をペタペタと鳴らしながら、女がレジかごをカウンターにどさ、と置く。スマホを見るばかりで、こちらの顔など一切見ない。くちゃくちゃとガムを噛む音が、耳ざわりだ。
「タバコ!」
女が、叫ぶ。
お前が吸っている銘柄など知るはずもないだろうと思いながら、星は必死に怒りを抑えた。
「お客様、煙草をお求めの際は番号でお願いいたします」
「はぁ!? いっつも買いに来てやってんのに、なんで覚えてねーの? マルボロだよ、マルボロ!」
女が、唾をまき散らしながら叫ぶ。薄紫色の唇からガタガタの歯がのぞき、なんだか星は悲しい気分になってしまう。さっきま慎也のことを考えて幸せだったのに……。
女の圧に押されて……と言うより、これ以上相手をしてやるのが心底だるかったので、指定された煙草を取りに行く。赤いパッケージの煙草を渡すと、再び女が吠えた。
「これじゃねーよ! いつもメンソール買ってんのなんで覚えねぇんだよ、カス!」
女は怒鳴りながら、カウンターをどんどんと叩く。あまりに激しく動くせいで、頭頂部でひとまとめにした髪が、プロペラのようにぐるんぐるん回っていた。女の怒鳴り声、カウンターを叩く音、辺りにまき散らされる女のツバ――。夜勤勤務が続いていることもあって、頭がくらくらとしてくる。
「21番」
そのとき、男のほうがぼそりとつぶやいた。
「マルボロのメンソールは、21番」
意外にもよく通る声で、男のほうが言った。
星は、言われた通り21番の煙草をカウンターに置いた。
「そーだよ、これだよ!」
女はタバコをひったくると、床にぺっと唾を吐いた。
「ルキ君に感謝するんだな!」
女のヒステリーは止み、さっきまで大暴れしていたことを忘れたかのように、男の腕を取る。
「もぉ~、ルキ君ったら優しんだからぁ」
女に抱き着かれるままになっている男を、星は見た。
ニキビひとつない、艶やかな肌。若さの滲み出た、赤い唇。そして、切れ長の美しい目――。慎也の目も切れ長なので、この二人は結構似ているのかもしれないと、星は思った。
(ルキ君、って呼ばれてたな……)
若くてルックスにも恵まれたルキが、なぜあんな女と付き合っているのか、星には疑問だった。少なくとも自分のほうが清潔感はあるし、身だしなみにも気を遣っていると、変な対抗心も抱いてしまう。
(何考えてんだよ……。さっきまで慎也さんのことばっかり考えてたのに)
ルキの隣に、あの女ではなく自分が立っている――。そんな妄想を、星はかなぐり捨てた。俺には慎也さんだけ――。いや、正確には慎也さんも自分のものではないのだけど、せめて妄想の中だけでは、一途な男でありたかった。