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第4話 トラブル

 その日は、夜勤に5分ほど遅刻した。

 理由は、母親からの電話だった。「いつ就職するの?」「結婚は?」など、お定まりの質問攻めから始まった会話はいつの間にかヒートアップし、気づけば罵り合いになっていた。どうあがいても始業時間には間に合わないと悟ったのは、電話を切り終えた後だ。

 幸い、星は普段の勤務態度が真面目だったため、詫びの電話を一本入れただけで事は済んだ。

 直前の時間帯まで働いてくれているバイトのおばさんに頭を下げ、大急ぎで店に出る。時計の針は、今日も23時少し過ぎを差していた。

 星は、母親にカミングアウトをしていない。だからこそ、結婚の話を切り出されると腹が立つ。だが、この生活も2年目になると、母親の「このままでいいの?」「いつまでフラフラしているの?」という言葉にも、「確かに、そうかもな……」と思ってしまうから不思議だ。

 俺は、男が好きだ。

 でも、決まったパートナーはいない。

 毎週水曜日に来る(今週は木曜日も来てくれたが)王子様に恋焦がれ、あれこれ妄想して一日が終わる……。

 もしほかの誰かがこんな生活をしていたら、「お前、このままでいいのか?」と言ってしまうだろう。

(待てよ。それって、慎也さんと付き合えれば、全部解決するってことじゃねぇ?)

 そんな考えが頭に浮かんで、即座に追い払った。

 あの、誰がどう見ても「デキる」リーマンの慎也さんが、俺みたいな非正規を相手にするわけないだろう?

(それに、慎也さん彼女持ちっぽいしな……)

 結局、いつもの妄想は、いつもと同じ終着点を迎える。

 26にもなって、理想の王子様と付き合う妄想をすることでしか、時間を潰せない自分が嫌になる。でも、妄想するだけなら自由だ。妄想でなら、「椿姫」を慎也さんと一緒に見に行くことだって、できる。

 星は、瀟洒なオペラハウスに、慎也と出掛ける日を思い描いた。彼は、どんな格好で「椿姫」を観に行くのだろう。隣に座った慎也からは、どんな匂いがするんだろう。暗くなった劇場で、慎也さんは俺の手を握ってくれるだろうか――。


「てめぇ、もっぺん言ってみろぉーーーーーーーーーーー!!!!!!!」


 脳内妄想劇場は、耳をつんざく罵声によって終演を迎えた。

 声は、駐車場のほうから聞こえる。自動ドアは閉じられた状態なのに、ここまで声が聞こえるなんてすごい声量だ。

「この落とし前どうつけろってんだよ!」

「人の女に手ぇ出しやがって!」

「指の一本、二本じゃすまねーぞ、こらぁっ!」

 まるで「ウシジマくん」の世界だ。

 目を凝らすと、駐車場のど真ん中で、パーカーを来た大男が、もう一人の男を足蹴にしている。男の足が相手の腹を踏み潰すたび、「ぐしゃ」「ぐしゃ」という嫌な音がこちらまで聞こえてきそうだ。

「室井君……あれ、喧嘩?」

 バックヤードから、シフトを終えたばかりのおばちゃんが出て来て、星にそう問いかける。帰りたくても、帰れない状況なのだろう。

「みたいっす、ね……」

「あの女の人、よく来るお客さんじゃない?」

「え?」

 おばちゃんにそう言われるまで、星は女の存在に気づいていなかった。しかし、よく見ると男たちに挟まれるようにして、女性が立っている。あの髪型、だるだるのジャージ、ゴムサンダル――。

(マルボロメンソール女じゃねぇか!)

 先日の腹立たしい記憶が蘇ってくる。

 それと同時に、星は「ルキ」のことを思い出していた。

(まさか、今蹴られてるのって……)

 再び、目を凝らす。

 アスファルトに蹲っているのは、鼻血を流しながら苦悶の表情を浮かべてはいるものの、ルキ本人だった。

「ちょっと、俺止めてきます!」

 おばちゃんの制止も聞かず、ルキは店を飛び出した。

「あのぉ、すみませーん……」

 恐る恐る話しかけると、パーカーの大男がこちらを振り返ってくる。その瞬間、星の全身に鳥肌が立った。夜なのにサングラスをかけ、鼻には牛のようなわっかのピアス、両頬に大きなタトゥーが入っていて、威圧感をこれでもかと放ってくる。

(ブレイキングダウンじゃねぇか……)

 思わず、そう思ってしまうほどに、彼は星の生きる世界の「向こう側」にいた。

「なんだ、文句あんのか?」

 意外にも、男の声は落ち着いていた。しかし、それが星の恐怖心を一層煽る。

「あの……、何があったかは知りませんが、暴力はいけないと思います……」

 震える声で、お定まりの忠告をする。しかし、男はにや、と顔に笑いを浮かべただけだった。

「お兄ちゃん、こいつが何したか、知ってる?」

 男が、つま先でルキの腹を突く。ルキはわずかに呻き声を上げたが、意識はほとんどないようだった。

「いえ、知らないですが……」

「俺の女、寝取りやがったんだよ!」

 猛烈な蹴りが、ルキの顔に飛ぶ。整った顔が一瞬歪んだかと思うと鼻血が噴き出、顔一面に血が飛び散った。

「やめてよぉ、ルキ君叩かないでよぅ」

 女は、足をがくがく震わせながら泣いている。そして、助けを乞うような目でこちらを見てきた。クレームの多い痛客だが、今と普段とでは事情がまったく違う。ここで引き下がったら一生後悔するだろうと星は思った。

「け、警察呼びますよ!」

「ああ? お前には関係ねぇだろ!」

「こちらはコンビニの敷地内ですので……」

「あ? じゃあよそ行ってこいつナマスにしろっての?」

 ナマスとは何だろう? そう思った瞬間、男の平手打ちが星の右頬に飛んだ。

 びたーん、というなんとも爽快な音。男にとってはウォーミングアップにすらならないような一撃でも、星を威圧するには十分だった。頬は痛み、殴られた衝撃で脳はびりびりと痺れたが、倒れるほどではない。

 それにもかかわらず、星の体は硬直してしまった。立っているのに、動けない。立っているのに、逃げられない。

 自分の体が思うように動かない――。それは、星が生まれて初めて味わうタイプの恐怖だった。


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