「しばらく、そこで見てろ」
男にそう言われなくても、星はしばらく動けそうにもなかった。星がダウンしている間にも、男はルキのほうに歩み寄っていく。ああ、駄目だ。ルキをこれ以上傷つけたくない。ルキを、ルキを助けて――。
本能的に、星は神に祈った。仏教徒だけれども、こんなとき人は神様に祈るものなんだなと星は思った。
「もう、その辺にしませんか?」
神からの返事かと、星は思った。
しかし、違う。失ってしまいそうな意識を必死につなぎとめながら、星は声がしたほうに目をやった。そこにいたのは――、慎也だった。
「なんだ、お前ぇ?」
「通りすがりの者ですが、少しやり過ぎです」
よく通る、ハスキーボイス。間違いない、慎也の声だ。
「お兄ちゃん、これは俺たちの問題なんだよ。口出さないでくれないかなぁ?」
「そうかもしれませんが、これでは立派な営業妨害ですよ」
たんたんと、慎也が意見を述べる。
男は、面白くなさそうに口を歪めたが、恫喝するようなことはしなった。
「先ほど、お二人の会話を耳にしました。どうやら、女性関係のトラブルのようですね?」
「このガキが、俺の女に手を出しやがったんだ」
「なるほど……。ちょっと、そこのあなた。聞いてますか?」
意外なことに、慎也は地面で伸びているルキに声をかけた。
「あなた、こちらの女性にもう会わないと誓いますか?」
慎也がそう言うと、ルキは血まみれの顔を、ゆっくりと縦に動かした。
「誓うそうですよ。もう許してあげたらどうです?」
「許す許さないの問題じゃねぇ。面子の問題なんだよ」
「それって、お金で解決できます?」
慎也はまるで魔法使いだ。こちらが想像もできない言葉を、どんどん口から繰り出していく。
星が呆気に取られている間に、慎也はポケットから財布を取り出した。
「とりあえず、今日のところはこれで」
折り目ひとつない万札を、慎也は男に手渡した。
その厚さに、星は驚いた。1枚や2枚じゃない。10万? 20万? いずれにせよ、一般人が財布からポン、と取り出せる金額には見えなかった。
「あんた、馬鹿なのか?」
男が言う。顔に滲み出ていた怒りは消え、この状況を楽しんでいるようにも見えた。
「まぁ、単なる暇つぶしです」
「馬鹿にしやがって」
多少語気は荒げたが、結局男は慎也から金を受け取った。
「おい、行くぜ」
女に声をかけたが、女のほうも呆然としていて、なかなか動こうとしない。
「来いって言ってんだよ、この浮気女!」
怒鳴られると、女はようやく我に返ったようになり、男の背中を追うようにして去って行った。
「あ、ああ……」
星の口から、安堵の声が漏れる。二人の姿が完全に見えなくなると、脱力してその場にへなへなと座り込んでしまった。
「大丈夫でしたか?」
「お、俺は平気です。腰抜けただけで」
「そうですか。でも、こっちのほうはいろいろまずそうですね」
慎也が「こっち」と示した先には、完全に気を失ったルキがいた。
「いってぇ、いててててててて……」
バックヤードに、ルキの声が響く。
あのあと、星と慎也は失神したルキをコンビニまで運び、バックヤードに押し込んだ。バックヤードは、従業員用のロッカーと、小さいテーブルにパソコン、椅子が二脚だけある狭い空間だ。余分なスペースなどほとんどない中、どうにかルキを椅子に座らせペットボトル(自費)の水を飲ませると、彼はようやく意識を取り戻した。
「警察……呼びます?」
「いいって。俺のほうがやばいんだから……」
何がどう「やばい」のか、星には見当もつかない。ペットボトルの水を飲むルキの横顔はサッカーボールのように腫れ上がっていて、普段の面影はない。しかし、喉を鳴らしながら水を飲む様子はどこか野性的だ。周りの迷惑などいっさい考えず、本能のまま生きる彼を、星は美しいと思った。
「落ち着いたら、病院に行ってください」
静観していた慎也はそう言うと、再びポケットから財布を取り出した。
星は、なんだか嫌な予感がした。慎也が、ルキに金を渡しそうな雰囲気を感じたからだ。
慎也は星の予想通りの行動を取った。白く長い指で一万円札を掴み、それをルキの目前に突きつける。
「なんだよ、これ」
「病院代とタクシー代です」
腫れていないほうの目で、ルキが慎也を睨む。まさに、「水と油」という言葉がぴったりの二人――。このまま、喧嘩の第2ラウンドが始まりそうだった。
しかし、そうはならなかった。
バックヤードのドアをがらりと開ける音がして、おばちゃんの「あのぉ~」と気の弱そうな声が聞こえてくる。
「室井君。私、そろそろ退勤してもいいかな?」
この喧嘩騒動を収集している間、バイトのおばちゃんにはレジに出ていてもらっていた。本人は快く受けてくれたが、残業をさせてしまったのは申し訳なかった。
「すみませんでした。もう私たちは出ますので、室井……さんもお仕事に戻ってください」
慎也はそう言うと、何事もなかったかのように財布をポケットにねじ込んだ。よかった、これで延長戦はなさそうだと、星はほっとした。
しかし、それ以上に嬉しかったのは「室井さん」と名前を呼ばれたこと。憧れの人の口から、自分の名前が零れ出るなんて――まるで、夢のようだった。
「俺も、そろそろ退散しまーす」
ルキもそう言うと、よっこらせと椅子から立ち上がる。しかし、足元はふらついていて、思わず星はルキに駆け寄った。
ルキの腕を自分の肩に回し、一緒にバックヤードを出る。二、三歩歩き店の入り口まで来ると、ルキは「もう大丈夫だから」といった様子で星から離れていく。でも、本当に大丈夫だろうか――?
「あの、やっぱりタクシーだけでも呼びましょうか?」
「いいって。一人で帰れまーす」
右手をヒラヒラ振りながら、ルキが夜の街に消えていく。
「本当に、大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。ああいう奴は、結構しぶといんです」
思わずひとりごとを言うと、背後から慎也の声が聞こえてきて、口から心臓が飛び出るほど驚いた。
「しぶとい……?」
「今日みたいな殴り合いは、彼らにとっては日常なんです」
日常生活がブレイキングダウンになってたまるかと星は思った。しかし、思いがけず慎也が話しかけてくれたのが嬉しくて、反論できない。
「日常……ですか?」
「ええ。あなたや私が、毎日職場に来て働くのと同じように、これは日常なんです」
随分乱暴な論理だと思ったが、たんたんと語られると「まぁ、そうかな……」という気になってしまう。
「ところで、室井さんは立派ですね?」
「え?」
「目前で起きているトラブルに果敢に挑んで――。なかなかできることではありません」
「そ、そんな……俺、なんもしてないですよ」
入れ墨男の圧に押され、棒立ちで固まっていた記憶が蘇る。あまりに情けなくて、顔が熱くなった。
「立派ですよ。偉いです」
手放しの賛辞を送られて、星は耳まで真っ赤になった。なぜ、慎也は俺をこんなに褒めてくれるのだろう? 戸惑い気味に彼の顔を見上げると、優しげな視線が惜しげもなく注がれている。
「お、俺……もう、仕事戻ります……!」
これ以上見つめられたら、どうなるかわからない――。
そう思って店に戻ったのに、慎也が追いかけて来てくれるんじゃないか。腕を取り、引き留めてくれるんじゃないか――。そんな期待が胸をよぎり、彼のほうを振り返る。
しかし、現実は甘くなかった。
星の目に飛び込んできたのは、慎也の後ろ姿だった。
(ああ、やっぱり……)
自分から突き放しておいて落胆するなんて、随分ムシのいい話だ。やはり、ドラマや映画のようにはうまくいかない。
だが、それが現実だ。それが大人の生きる社会だ。
このつまらない世界で、星は歯を食いしばって生きていかなければならない。
深夜のコンビニで、たった一人の勤務が今日も始まろうとしていた。