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第5話 救いの神

「しばらく、そこで見てろ」

 男にそう言われなくても、星はしばらく動けそうにもなかった。星がダウンしている間にも、男はルキのほうに歩み寄っていく。ああ、駄目だ。ルキをこれ以上傷つけたくない。ルキを、ルキを助けて――。

 本能的に、星は神に祈った。仏教徒だけれども、こんなとき人は神様に祈るものなんだなと星は思った。


「もう、その辺にしませんか?」


 神からの返事かと、星は思った。

 しかし、違う。失ってしまいそうな意識を必死につなぎとめながら、星は声がしたほうに目をやった。そこにいたのは――、慎也だった。

「なんだ、お前ぇ?」

「通りすがりの者ですが、少しやり過ぎです」

 よく通る、ハスキーボイス。間違いない、慎也の声だ。

「お兄ちゃん、これは俺たちの問題なんだよ。口出さないでくれないかなぁ?」

「そうかもしれませんが、これでは立派な営業妨害ですよ」

 たんたんと、慎也が意見を述べる。

 男は、面白くなさそうに口を歪めたが、恫喝するようなことはしなった。

「先ほど、お二人の会話を耳にしました。どうやら、女性関係のトラブルのようですね?」

「このガキが、俺の女に手を出しやがったんだ」

「なるほど……。ちょっと、そこのあなた。聞いてますか?」

 意外なことに、慎也は地面で伸びているルキに声をかけた。

「あなた、こちらの女性にもう会わないと誓いますか?」

 慎也がそう言うと、ルキは血まみれの顔を、ゆっくりと縦に動かした。

「誓うそうですよ。もう許してあげたらどうです?」

「許す許さないの問題じゃねぇ。面子の問題なんだよ」

「それって、お金で解決できます?」

 慎也はまるで魔法使いだ。こちらが想像もできない言葉を、どんどん口から繰り出していく。

 星が呆気に取られている間に、慎也はポケットから財布を取り出した。

「とりあえず、今日のところはこれで」

 折り目ひとつない万札を、慎也は男に手渡した。

 その厚さに、星は驚いた。1枚や2枚じゃない。10万? 20万? いずれにせよ、一般人が財布からポン、と取り出せる金額には見えなかった。

「あんた、馬鹿なのか?」

 男が言う。顔に滲み出ていた怒りは消え、この状況を楽しんでいるようにも見えた。

「まぁ、単なる暇つぶしです」

「馬鹿にしやがって」

 多少語気は荒げたが、結局男は慎也から金を受け取った。

「おい、行くぜ」

 女に声をかけたが、女のほうも呆然としていて、なかなか動こうとしない。

「来いって言ってんだよ、この浮気女!」

 怒鳴られると、女はようやく我に返ったようになり、男の背中を追うようにして去って行った。

「あ、ああ……」

 星の口から、安堵の声が漏れる。二人の姿が完全に見えなくなると、脱力してその場にへなへなと座り込んでしまった。

「大丈夫でしたか?」

「お、俺は平気です。腰抜けただけで」

「そうですか。でも、こっちのほうはいろいろまずそうですね」

 慎也が「こっち」と示した先には、完全に気を失ったルキがいた。


「いってぇ、いててててててて……」

 バックヤードに、ルキの声が響く。

 あのあと、星と慎也は失神したルキをコンビニまで運び、バックヤードに押し込んだ。バックヤードは、従業員用のロッカーと、小さいテーブルにパソコン、椅子が二脚だけある狭い空間だ。余分なスペースなどほとんどない中、どうにかルキを椅子に座らせペットボトル(自費)の水を飲ませると、彼はようやく意識を取り戻した。

「警察……呼びます?」

「いいって。俺のほうがやばいんだから……」

 何がどう「やばい」のか、星には見当もつかない。ペットボトルの水を飲むルキの横顔はサッカーボールのように腫れ上がっていて、普段の面影はない。しかし、喉を鳴らしながら水を飲む様子はどこか野性的だ。周りの迷惑などいっさい考えず、本能のまま生きる彼を、星は美しいと思った。

「落ち着いたら、病院に行ってください」

 静観していた慎也はそう言うと、再びポケットから財布を取り出した。

 星は、なんだか嫌な予感がした。慎也が、ルキに金を渡しそうな雰囲気を感じたからだ。

 慎也は星の予想通りの行動を取った。白く長い指で一万円札を掴み、それをルキの目前に突きつける。

「なんだよ、これ」

「病院代とタクシー代です」

 腫れていないほうの目で、ルキが慎也を睨む。まさに、「水と油」という言葉がぴったりの二人――。このまま、喧嘩の第2ラウンドが始まりそうだった。

 しかし、そうはならなかった。

 バックヤードのドアをがらりと開ける音がして、おばちゃんの「あのぉ~」と気の弱そうな声が聞こえてくる。

「室井君。私、そろそろ退勤してもいいかな?」

 この喧嘩騒動を収集している間、バイトのおばちゃんにはレジに出ていてもらっていた。本人は快く受けてくれたが、残業をさせてしまったのは申し訳なかった。

「すみませんでした。もう私たちは出ますので、室井……さんもお仕事に戻ってください」

 慎也はそう言うと、何事もなかったかのように財布をポケットにねじ込んだ。よかった、これで延長戦はなさそうだと、星はほっとした。

 しかし、それ以上に嬉しかったのは「室井さん」と名前を呼ばれたこと。憧れの人の口から、自分の名前が零れ出るなんて――まるで、夢のようだった。

「俺も、そろそろ退散しまーす」

 ルキもそう言うと、よっこらせと椅子から立ち上がる。しかし、足元はふらついていて、思わず星はルキに駆け寄った。

 ルキの腕を自分の肩に回し、一緒にバックヤードを出る。二、三歩歩き店の入り口まで来ると、ルキは「もう大丈夫だから」といった様子で星から離れていく。でも、本当に大丈夫だろうか――?

「あの、やっぱりタクシーだけでも呼びましょうか?」

「いいって。一人で帰れまーす」

 右手をヒラヒラ振りながら、ルキが夜の街に消えていく。

「本当に、大丈夫かな?」

「大丈夫ですよ。ああいう奴は、結構しぶといんです」

 思わずひとりごとを言うと、背後から慎也の声が聞こえてきて、口から心臓が飛び出るほど驚いた。

「しぶとい……?」

「今日みたいな殴り合いは、彼らにとっては日常なんです」

 日常生活がブレイキングダウンになってたまるかと星は思った。しかし、思いがけず慎也が話しかけてくれたのが嬉しくて、反論できない。

「日常……ですか?」

「ええ。あなたや私が、毎日職場に来て働くのと同じように、これは日常なんです」

 随分乱暴な論理だと思ったが、たんたんと語られると「まぁ、そうかな……」という気になってしまう。

「ところで、室井さんは立派ですね?」

「え?」

「目前で起きているトラブルに果敢に挑んで――。なかなかできることではありません」

「そ、そんな……俺、なんもしてないですよ」

 入れ墨男の圧に押され、棒立ちで固まっていた記憶が蘇る。あまりに情けなくて、顔が熱くなった。

「立派ですよ。偉いです」

 手放しの賛辞を送られて、星は耳まで真っ赤になった。なぜ、慎也は俺をこんなに褒めてくれるのだろう? 戸惑い気味に彼の顔を見上げると、優しげな視線が惜しげもなく注がれている。

「お、俺……もう、仕事戻ります……!」

 これ以上見つめられたら、どうなるかわからない――。

 そう思って店に戻ったのに、慎也が追いかけて来てくれるんじゃないか。腕を取り、引き留めてくれるんじゃないか――。そんな期待が胸をよぎり、彼のほうを振り返る。

 しかし、現実は甘くなかった。

 星の目に飛び込んできたのは、慎也の後ろ姿だった。

(ああ、やっぱり……)

 自分から突き放しておいて落胆するなんて、随分ムシのいい話だ。やはり、ドラマや映画のようにはうまくいかない。

 だが、それが現実だ。それが大人の生きる社会だ。

 このつまらない世界で、星は歯を食いしばって生きていかなければならない。

 深夜のコンビニで、たった一人の勤務が今日も始まろうとしていた。


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