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第8話 嘘

「いや~、面白かったねぇ」

 終演後のロビーで慎也にそう言われても星は何も答えられない。

 世界一好みの男がすぐ近くにいるのに、遠くにある舞台に集中できるはずもなかった。それでも、気の利いたコメントを返さなければと慎也に悪いと思い、星は必死に頭を回転させた。

「面白かったです。特に……歌が……」

「ああ、主演の子は元々アイドルだったんだよ。でも、高級娼婦特有の悲哀っていうのかな? それがよく出てたよね」

 高級娼婦? 悲哀? 椿姫ってそんな話だったっけ? 頭の中にいくつもクエスチョンマークが浮かび、そのまま倒れてしまいそうだ。冷や汗が背中にだらだらと流れ、その上ずっと同じ姿勢で座っていたせいで体がカチコチに固まってしまって、気分が悪かった。

「どう? この後ディナーでも……?」

 正直、何かを食べる気力もなかった。

 しかし、憧れの慎也と食事をするチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。

「あ、行きます……行きます」

「何、食べたい?」

 極めて自然に、肩に手を回される。

 熱い胸板に体を預ける安心感で、胸の奥が熱くなる。脳が完全にスパークして、まともな言葉が浮かんでこない。

「し、んやさん……の、行きたいところ」

「慎也?」

 聞き返され、名前で呼んでしまったことにようやく気づいた。取り消したくても、慎也が星の肩をますます強く抱くものだから、何も言えなくなってしまう。

「気にしないで。俺、名前で呼ばれるの好きだから」

「は、はぁ……」

「俺も、君のこと名前で呼んでいい?」

「え――」

「星って、呼んでもいい?」

 駄目なわけ、なかった。

 しかし、どういうわけか喉がカラカラに乾いてしまって、何も言葉を紡げない。気分が悪いを通り越して、もう失神しそうだった。

「星、何食べたい?」

 返事も待たず、名前で呼びかけられる。脳天から、空気がすうっと抜けるような感覚があった。

「なんでも、いいです……」

 結局、それしか言えない。

 それなのに、慎也は弾けるような笑顔をこちらに向けてくる。整った顔が、くしゃっと歪む瞬間、この人のためならなんでもしてやろうと、星は強く、心に誓った。


 連れて行かれたのは、三軒茶屋駅からほど近い、こじんまりしたバルだった。金曜の夜ということもあり店は満員だったが、席数がそれほど多くないので騒がしいというほどでもない。照明も適度に暗く、こちらの焦りや緊張を隠してくれるのがありがたい。ひょっとして、慎也なりに星を落ち着かせようと骨を折ってくれているのかもしれなかった。

「一応カルパッチョとかトルティージャとか頼んでおいたから、星もどんどん食べて」

 慣れた様子で慎也は言うと、すでに運ばれてきた赤ワインをグラスに注いだ。

「今日は、どうもありがとう」

 そう言って、グラスを手渡してくれる。

「こ、こちらこそ……」

 こんなとき、学生の飲み会のようにグラスを合わせていいものかと、どうでもいいことで悩んでしまう。

「ひょっとして、疲れてる?」

 そのとき、慎也の表情が若干曇ったように見えた。

 失望させたくなくて、星は一気にワインをあおった。

「だ、だいじょうぶ、です……。あの、あの……」

 口を開いた瞬間、喉がひりひりと痛んだ。意外にもアルコール度数が高かったようで、その場でげほげほとむせてしまう。

 うつむいていると、がた、と慎也が立ち上がる気配があった。

(だめ、帰らないで……)

 さっきから、失敗の連続だ。どうにか取り繕おうとしてきたけど、慎也は呆れて帰ってしまうかもしれない。そう思うと、アイスを地面に落としてしまった子供のように悲しい気分になった。

「大丈夫?」

 優しい声。

 ほどなくして、背中をとんとんと、優しく叩かれた。

「すみません、水を……」

 店員に話しかける声が、遠くから聞こえる。

 唇に、冷たいものがあてがわれた。「飲んで」と言われ、そのままコップの中の水を飲まされる。爽やかな、レモンの香り――。喉の痛みが、だんだん引いていく。

「どう、気分よくなった?」

 大きな手で、慎也は絶えず星の背中をさすってくれた。上下に動く手の感覚が、この世の何よりも愛しいものに感じられる。

「あ、ありがとうございます。もう、平気……」

「ごめん。君が調子悪いの気づけなくて」

「いえ、そんな……そんな……」

 今日は、もう帰ろう――。そう言われるのが怖くて、必死に言葉をつなぐ。だが、星も気づき始めていた。こうやって自分を取り繕うと思えば思うほど、失敗してしまうことに。

 もう、こんなことはやめよう。

 好きな人の前で自分を偽っても、自分が苦しくなるだけだ。

「慎也さん……俺、今日いろいろ嘘ついてました」

「嘘?」

 話が意外な方向に進んだためか、慎也がきょとんとした表情をしている。

「椿姫が楽しかったとか、わかったような口利いてたけど、本当はほとんど頭に入ってこなかったんです」

「つまらなかった?」

「いえ、多分面白い話だったんだと思います。でも、でも……」

「でも?」

「集中できなくて……」

「それは、俺が隣にいたから?」

「はい……」

 誤解してほしくない。決して、嫌だったのではない。

 あなたのことばかり考えていて、ほかは何も見えなかった――ただそれだけなのに。

「俺が、隣にいて嬉しかった?」

 まるで天の声のように、慎也の言葉が響く。

「はい」

 思いを伝えられたのが、嬉しかった。

 喉の痛みも、先ほどまでの気まずさも忘れ、星はこくんと頷いた。


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