好きな人と連絡先を交換するという最初のハードルは、「待ち合わせ場所を決める」という口実のもと簡単にクリアできた。誘われたその日のうちにLINEを交換し、次の金曜日に劇場近くの駅で待ち合わせをすることになった。
あまりに、すべてがうまく運び過ぎていると思った。待ち合わせ場所に行ったら、慎也が「ドッキリ」の看板を掲げてるんじゃないか――そんな妄想まで抱いてしまう。あんな素敵な人が自分を芝居に誘うだなんて、とても想像できない。
当日は、いつもは寝ている時間に起きた。押し入れから会社員時代のスーツを引っ張り出す。だが、ここでひとつ目のトラブルが発生した。初任給で奮発して買ったスーツが、星の体にまったくフィットしなかったのだ。
肥ったからではない。夜勤とはいえ、残業なしの「人間らしい」就労時間、三食しっかり食べて、適度な力仕事も行う生活――。そのおかげで、星の体型は以前よりスリムになっていた。だから、昔のスーツを着てもどこかダボついてしまい、「借り物」感が否めないのだ。
行ったことがないのでわからないが、オペラにはドレスコードというものがきっとあるはずだ。
しかし、偽物っぽいスーツに身を包むのにも気が引けた。
いろいろ考えて、星はタートルネックのシャツとスキニーパンツを合わせた。「背伸びした大学生」っぽい見た目になったが、分不相応な格好をするよりずっとマシだった。
途中、駅前のドラッグストアで整髪料を買った。
トイレを借りて、適当に髪に馴染ませる。何分か髪をいじっているうちに、次第にまとまりが出てきて、最低限の清潔感を出せた。まだまだ自分の容姿も捨てたもんじゃない――。そんな、根拠のない自信まで出てくる。
実は、整髪料を探しているとき、陳列棚にあるほかの製品が目についていた。ドレッシングに似た形状の、「アレ」――。星は、自分がゲイだと気づいてから今日まで、ネコひと筋だった。もう何年もセックスをしていないので、いざとなったら慣らす必要があるだろう。
(でも、そんなこと、本当に起きるのか?)
コンビニ以外で慎也と会うのは、今日が初めてだった。それに、慎也はゲイじゃない。こちらが一方的に浮かれているだけで、二人の間にはまだ何も生まれていないのだ。
とめどない妄想を打ち捨て、星は陳列棚を素通りした。
慎也とは、三軒茶屋の駅前で待ち合わせをしていた。
人ごみに紛れていても、独特のオーラを放つ慎也の姿はすぐに見つかった。
「すみません、お待たせしちゃって……」
「いや、俺が早く着いただけだよ」
「それでも……なんか、すみません……」
「惚れている」弱みで、ついつい星は下手に出てしまう。
「でも、驚きました。須藤さんもラフな格好なんですね」
慎也はTシャツにジーンズ、セカンドバッグという出で立ちだった。ただ、場慣れしている者特有の余裕が感じられて、変な浮き方をしていないのが流石だ。
「あれ、ひょっとしてドレスコードがあると思ってた?」
「いえ……。でも、俺芝居観に来るのなんて、初めてなんで」
「あー、なるほどね。確かにオペラハウスなんかは多少着るものに気を遣うけど、今日は違うからね」
「え? そうなんです?」
「ははは、ちゃんと確認はしてくるもんだよ」
今日の観劇に向けて、LINEで公演のURLを送ってもらってはいた。けれど、正直慎也とどう過ごすかばかり気にしていて、肝心の公演についてはあまり目を通していなかった。
劇場に着き、ロビーに入るとやはりラフな格好の人が多い。パンフレットを買うと、どうやら今回の公演は「椿姫」を現代ミュージカル化したもので、大まかなあらすじ以外はオペラとは別物らしい。公演時間も休憩なしで一幕90分と、気張らず楽しめる長さになっていた。
緊張の糸が徐々にほぐれてくると同時に、慎也が隣の席に座っている感覚がじわじわと伝わってくる。慎也という一人の人間のエキスを、ごくごくと飲み込んでいるような感覚だ。
やがて、客席の照明が落ちた。暗い、静かな空間で慎也と二人きり。照明がギラギラと照りつける、夜間のコンビとは大違いだ。
(いつか、この人と二人で……)
そう思ったとき、舞台が照明で照らされる。
(駄目だ、今は舞台に集中しなきゃ……)
それなのに、頭の中は慎也のことでいっぱいだ。ちら、と右隣を見ると、彼は美しい横顔を微動だにせず、舞台を見つめていた。
あんなふうに真剣に、俺もいつか見つめてもらいたいと思いながら、星は舞台に意識を集中させた。