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第9話 醜態

 痴態を見せたことで、緊張の糸がぷつん、と切れた。

 喉の痛みが引いて早々に、星は赤ワインを3杯、一気にあおった。カルパッチョも、トルティージャも飲むように平らげていく。

「随分食べるんだね」

 慎也自身は、飲むばかりで皿にほとんど手をつけなかった。食欲旺盛な星を見て驚いてはいるようだったが、馬鹿にしている様子は一切ない。むしろ、食べ盛りの子供を前にしたような慈愛の表情が、顔に溢れている。

「きんちょうひてて、おなかすいてたの、はふれてました……」

 会話をしないのは悪いと思いつつ、空腹を抑えることもできない。パエリアをがっつき、頬をリスのように膨らませながら、星は言った。

「星君ってさ、何歳なの?」

「に、にじゅうほくです……」

 今の自分は、三十路に片足突っ込んだ男とはとても思えないほど、幼く見えるだろう。こんな男の相手を慎也にさせてしまって、星はなんだか申し訳なかった。

「しんや、さんは……」

 パエリアをあらかた平らげてから、星はひと呼吸ついた。そろそろ、こちらからも会話を振らなければ――。

「慎也さんは、何歳なんですか?」

「俺? いくつに見える?」

(それって、合コンで女が訊いて一番うざがられるやつじゃん……)

 古典的な返しをした慎也のことが妙に可愛らしくなり、星はふふん、と鼻を鳴らした。

「えー、31くらい?」

「ひどいな。こう見えて20代だよ」

「俺より下?」

「上」

「もうほとんど選択肢ないじゃん。27、28、29……」

「正解!」

「なんだよ。ほとんど三十路じゃん」

 きゃはは、きゃはは、と甲高い笑いが口から漏れる。

 幼稚なゲームに笑い転げる自分を見つめる慎也は、星よりもずっとずっと大人に見えた。こんな大人と同じ空間を共有しているのが、星は嬉しくてたまらない。

 同時に、切なくもある。

「いいなぁ……」

 4杯目のワインをあおりながら、星はつぶやく。

「いいって、何が?」

「慎也さんのカノジョさん……こんな素敵な彼氏がいて、いいなぁ……」

 酒の力を借りなければ、こんなことは言えない。

 しかし、星は本気でそう思っていた。

 相手の失敗も、だらしないところも、空回りする気遣いも、すべてまとめて包み込んでくれる、器量の大きい男――。

 星は、今までも恋をしたことはあった。相手は、慎也ほどではないが「かっこいい」部類に入る男だった。しかし、取り柄と言えば見た目だけ。中身は星以上に子供で、優柔不断で、自分勝手だった。結局自分は捨てられ、職も失うことになった。

 星の数少ない歴代彼氏――。彼らの見た目と中身は常に釣り合わなかった。両方完璧な男がいたとりたら、それは間違いなく奇跡だろう。

「こんな素敵な人と付き合えたら、奇跡だろうな……」

 今更になって酔いが回ってきたのか、目の前がくらくらする。そんな歪んだ景色の中で、慎也の美しい瞳が冷たく光っていた。

「俺に彼女がいるなんて、いつ言った?」

 こんな酔っぱらいの相手をしているというのに、慎也の声は冷静そのものだった。むしろ数日前、コンビニの駐車場で入れ墨男とやり合ったときの、威嚇するような声に近い。

「だって、今日のチケット……彼女さんと観るつもりで取ったんじゃ?」

「彼女なんて、いない」

「『連れと行く』って……」

「言った。だが、都合が悪くなったというのは、嘘だ」

「……」

「はじめから、君を誘うつもりだった」

 慎也は、自分のグラスにワインを注いだ。赤い液体が血のようにしぶきを上げ、グラスに溜まっていく。

「君からは、俺と同じ匂いがするから」

 そう言うと、慎也はワインを一気に飲み干した。

 一瞬うつむいた彼の顔に、深い影が落ちる。悲しみにも、怒りにも見える彼の表情。しかし、そんな慎也が世界一美しいと星は思った。


「もう、出ようか」

 慎也に促され、星は席を立った。

 ただでさえ、ほの暗い店内。酔ったせいで足元はおぼつかず、そのままテーブルに両手をついてしまった。

 空になった皿が手に当たってしまい、かしゃん、かしゃん、と耳障りな音が鳴る。店側からしたら、さぞ迷惑な客だろう。

 そんな酔っぱらいの手を、慎也は優しく引いてくれる。

 外に出ると、すっかり夜の世界だった。周りの居酒屋では、星以上に酔っぱらったサラリーマンが家庭の不満なのか会社の愚痴なのか、意味のない言葉を「うお~、うお~」と叫んでいる。なんだかオペラみたいだな、と星は思った。

「これから、どうする?」

 どうするも何も、すべては慎也次第だ。

 さっき慎也は、「はじめから、君を誘うつもりだった」と言った。連れが行けなくなったなんて真っ赤な嘘で、最初から星一人に狙いを定めていたのだ。

 こんなにも周到に立ち回れる慎也だ。これからどうするかも、ずっと以前から計画しているのだろう。

「慎也さんの……好きにして」

 慎也の長い腕に、だらん、ともたれかかる。

 こんなふうに男に甘えるなんて、いつぶりだろう。男二人が腕を組んでいる姿を見て、道行くカップルが「やばーい」と言いながらこちらをちらちらと見てくる。何が「やばーい」だ。お前らだってぐでんぐでんに酔っぱらって、はしたなく抱き合って――。これからやることは、俺たちと一緒のくせに。

「うちに……くる?」

 星の腰を抱きながら、慎也が言ってくる。

 想定内の答えだった。なので、星は返事をしなかった。

 ただただ、慎也に導かれるまま、二人で流しのタクシーに乗り込んだ。

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