痴態を見せたことで、緊張の糸がぷつん、と切れた。
喉の痛みが引いて早々に、星は赤ワインを3杯、一気にあおった。カルパッチョも、トルティージャも飲むように平らげていく。
「随分食べるんだね」
慎也自身は、飲むばかりで皿にほとんど手をつけなかった。食欲旺盛な星を見て驚いてはいるようだったが、馬鹿にしている様子は一切ない。むしろ、食べ盛りの子供を前にしたような慈愛の表情が、顔に溢れている。
「きんちょうひてて、おなかすいてたの、はふれてました……」
会話をしないのは悪いと思いつつ、空腹を抑えることもできない。パエリアをがっつき、頬をリスのように膨らませながら、星は言った。
「星君ってさ、何歳なの?」
「に、にじゅうほくです……」
今の自分は、三十路に片足突っ込んだ男とはとても思えないほど、幼く見えるだろう。こんな男の相手を慎也にさせてしまって、星はなんだか申し訳なかった。
「しんや、さんは……」
パエリアをあらかた平らげてから、星はひと呼吸ついた。そろそろ、こちらからも会話を振らなければ――。
「慎也さんは、何歳なんですか?」
「俺? いくつに見える?」
(それって、合コンで女が訊いて一番うざがられるやつじゃん……)
古典的な返しをした慎也のことが妙に可愛らしくなり、星はふふん、と鼻を鳴らした。
「えー、31くらい?」
「ひどいな。こう見えて20代だよ」
「俺より下?」
「上」
「もうほとんど選択肢ないじゃん。27、28、29……」
「正解!」
「なんだよ。ほとんど三十路じゃん」
きゃはは、きゃはは、と甲高い笑いが口から漏れる。
幼稚なゲームに笑い転げる自分を見つめる慎也は、星よりもずっとずっと大人に見えた。こんな大人と同じ空間を共有しているのが、星は嬉しくてたまらない。
同時に、切なくもある。
「いいなぁ……」
4杯目のワインをあおりながら、星はつぶやく。
「いいって、何が?」
「慎也さんのカノジョさん……こんな素敵な彼氏がいて、いいなぁ……」
酒の力を借りなければ、こんなことは言えない。
しかし、星は本気でそう思っていた。
相手の失敗も、だらしないところも、空回りする気遣いも、すべてまとめて包み込んでくれる、器量の大きい男――。
星は、今までも恋をしたことはあった。相手は、慎也ほどではないが「かっこいい」部類に入る男だった。しかし、取り柄と言えば見た目だけ。中身は星以上に子供で、優柔不断で、自分勝手だった。結局自分は捨てられ、職も失うことになった。
星の数少ない歴代彼氏――。彼らの見た目と中身は常に釣り合わなかった。両方完璧な男がいたとりたら、それは間違いなく奇跡だろう。
「こんな素敵な人と付き合えたら、奇跡だろうな……」
今更になって酔いが回ってきたのか、目の前がくらくらする。そんな歪んだ景色の中で、慎也の美しい瞳が冷たく光っていた。
「俺に彼女がいるなんて、いつ言った?」
こんな酔っぱらいの相手をしているというのに、慎也の声は冷静そのものだった。むしろ数日前、コンビニの駐車場で入れ墨男とやり合ったときの、威嚇するような声に近い。
「だって、今日のチケット……彼女さんと観るつもりで取ったんじゃ?」
「彼女なんて、いない」
「『連れと行く』って……」
「言った。だが、都合が悪くなったというのは、嘘だ」
「……」
「はじめから、君を誘うつもりだった」
慎也は、自分のグラスにワインを注いだ。赤い液体が血のようにしぶきを上げ、グラスに溜まっていく。
「君からは、俺と同じ匂いがするから」
そう言うと、慎也はワインを一気に飲み干した。
一瞬うつむいた彼の顔に、深い影が落ちる。悲しみにも、怒りにも見える彼の表情。しかし、そんな慎也が世界一美しいと星は思った。
「もう、出ようか」
慎也に促され、星は席を立った。
ただでさえ、ほの暗い店内。酔ったせいで足元はおぼつかず、そのままテーブルに両手をついてしまった。
空になった皿が手に当たってしまい、かしゃん、かしゃん、と耳障りな音が鳴る。店側からしたら、さぞ迷惑な客だろう。
そんな酔っぱらいの手を、慎也は優しく引いてくれる。
外に出ると、すっかり夜の世界だった。周りの居酒屋では、星以上に酔っぱらったサラリーマンが家庭の不満なのか会社の愚痴なのか、意味のない言葉を「うお~、うお~」と叫んでいる。なんだかオペラみたいだな、と星は思った。
「これから、どうする?」
どうするも何も、すべては慎也次第だ。
さっき慎也は、「はじめから、君を誘うつもりだった」と言った。連れが行けなくなったなんて真っ赤な嘘で、最初から星一人に狙いを定めていたのだ。
こんなにも周到に立ち回れる慎也だ。これからどうするかも、ずっと以前から計画しているのだろう。
「慎也さんの……好きにして」
慎也の長い腕に、だらん、ともたれかかる。
こんなふうに男に甘えるなんて、いつぶりだろう。男二人が腕を組んでいる姿を見て、道行くカップルが「やばーい」と言いながらこちらをちらちらと見てくる。何が「やばーい」だ。お前らだってぐでんぐでんに酔っぱらって、はしたなく抱き合って――。これからやることは、俺たちと一緒のくせに。
「うちに……くる?」
星の腰を抱きながら、慎也が言ってくる。
想定内の答えだった。なので、星は返事をしなかった。
ただただ、慎也に導かれるまま、二人で流しのタクシーに乗り込んだ。