まるで、雲の中にいるような感覚だった。
ふわふわと温かいものに包まれ、いつの間にか星はまどろんでした。
腰はずきずきと痛み、体は汗にまみれていたけれど、慎也の腕を枕に眠っていると、世界中のどんな脅威からも守られているような安心感に浸れるのだった。
このまま、朝が来なければいいと思った。
しかし、星が快楽に身を任せている間にも時間は過ぎ、カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。
光の筋に照らされ、キラキラと舞うホコリを見ながら、星はもう行かねばと体を起こした。
「行くな……」
長い腕が、星の腰を戒める。
指の腹で無防備な腹をぬる、と撫でられた。すると、昨晩与えられた、暴力にも近い快感が腰の奥で芽生えてくる。
「だめ……」
慎也の手を、星は振り払った。意外にもすぐ戒めは溶け、どういうわけか星は寂しい気持ちになる。
慎也から痛いほど視線を感じながら、星はベッドの周りに散らばった服をかき集めた。服を取ろうと屈むだけで、腰が軋む。シャツを着ると、汗がぴったりと張りついてしまい、なんとも言えない気持ち悪さがある。
慎也はベッドに体を横たえながら、なおも星を見つめていた。長い腕は、抱く者を求めてだらりと投げ出されている。
「行くな」
再び、慎也は言った。
星も、行きたくはなかった。しかし、これ以上この人にのめり込んではいけないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
「すみません」
「もう行かないと」
「秘密の部屋、見せてあげる」
唐突に、慎也が言う。
秘密――? 子供みたいな理由だが、そのひと言は妙に星を惹きつけた。
「待ってろ」
星が出て行かないことを悟ったためか、慎也はゆっくりとした動作でベッドから起き上がり、裸のまま床に降りた。そして、引き締まった体を折り曲げながら、さきほど星がそうしたように服をかき集めていく。そのなんでもない動作が、まるで映画のワンシーンのようで、星は束の間うっとりした。
「さ、こちらへ」
肩を優しく抱かれ、ゆっくり部屋の外までエスコートされる。昨晩、激しく自分を責めた男がこんなにも優しくしてくれる。星は腰のあたりが熱くなるのを感じた。
寝室を出ると、その左奥にもうひとつドアがあった。慎也がそこを開けると広がっていたのは――撮影所だった。
三脚やライトに混じって、傘のようなものが広げられた状態で何本もポールにくくりつけられている。これだけ雑多な環境なのに、壁一面に張られた白布の前はきれいに片付いていて、信じられないくらいカオスな光景が広がっていた。
「慎也さん……カメラマンだったの?」
「うん、フリーランスのね」
入れ墨男やルキに気前よくお金を渡していたことから、それなりに「稼いでいる人」なんだろうな、というのは予想できていた。しかし、まさか慎也がクリエイティブ畑の人間だったなんて――。
普通に生活していたら、目にできないような景色を見られたのが、星はシンプルに嬉しいと感じた。
「売れっ子なんだね、きっと」
「まさか……。毎日営業先でペコペコ頭を下げて――大変な商売だよ」
ふふ、と笑う慎也の手には、いつの間にかカメラが握られていた。
「ちょっと、そこに立ってよ」
「そこ」と指さした先は、白布の前だった。
「え、やだやだ。恥ずかしい……」
慎也は、普段モデルを撮ることも多いだろう。自分のようなずぶの素人が被写体になるなんて――想像しただけでも、顔が赤くなった。
「恥ずかしがるなよ。星は、十分可愛いよ」
「馬鹿!」
両手で顔を覆い困惑しながらも、星は嬉しかった。慎也にとって星が「可愛い」存在であることが分かったから。
「わかったよ……」
そう言うと、慎也はカメラを三脚の上に戻した。
「いつか、ここでお前を撮影したい」
本を読むように、丁寧に、ゆっくり、慎也が星に語り掛ける。
身も心も捧げた慎也の手で撮影され、写真に永遠の命を封じ込める――。自分で断っておきながら、星はその日がいつかくればいいと、心から願った。
「いつか――」
そう言い顔を上げると、すぐ目の前に慎也の顔があった。
美麗な顔の奥で、細いまつ毛がふるふると震えている。星の姿を目に焼き付けようと、全身の力を目に集中させているような――そんな視線だった。
「キス、していい?」
そう問われ、星は小さく頷いた。
次の瞬間、慎也の顔がゆっくりゆっくり近づいてくる。
星が目を閉じるのと、やわらかな唇が星のそれにあてがわれるのが同時だった。
舌が唇を割ることはない、優しい、あたたかなキス。
時間にして、ほんの数十秒。しかし、星の心を永遠に慎也のものにしてしまうには、十分だった。
「じゃ、さよなら」
慎也の名残り惜しげな視線を背中に受けながら、星はマンションを後にした。