星は、コンビニで働き始めるとき「できるだけ土日は休みたい」と店長に伝えていた。活動時間が夜になる分、人との関りは少なくなる。せめて土日だけは休みにして、社会との接点を持ちたいと思ったからだ。
しかし、今週は慎也と観劇する予定があったので、珍しく金曜日を休みにしていた。その影響で、土曜日の夜にシフトを入れられていた。
朝、慎也のマンションから自分のアパートに戻って、なんとか休息を取ろうとしたが、脳が興奮していたせいか2時間ほどしか眠れなかった。寝ぼけ眼で出勤すると、いつも以降に店が混んでいたので、驚いた。
「近くで、コンサートがあったみたいなんですよ」
引き継ぎの際、大学生のアルバイトにそう言われた。コンサートか……。俺と慎也は昨晩舞台を観たけれど、この連中も今から恋人との第二幕があるのだろうかと、ふとそんなことを考えた。
世の中の恋人は、「自分たちが一番幸せ」と考えるものだ。実際、星自身も「一番ラブラブなのは俺たちだから」と変な自信を持っていた。
だからだろうか――。昨晩のうまく行き過ぎた「デート」とコンビニ夜勤のギャップにさらされながらも、星はたんたんと仕事を進めることができた。
客をさばき、その合間に品出しをし、床を掃除し、チキンを揚げ――。忙しく過ごしていくうちに、4時、5時、6時と時間が経っていってしまう。
昨晩はついうっかりしていて、慎也と「次会う」約束をしないで別れてしまった。でも、もう今から次のデートの妄想が止まらない。慎也はグルメのようだから、今度は自分が好きな店に誘ってもいいかもしれない。ご飯を食べ終わったら街歩きをして、カフェで休憩して、それから、それから――。
頭の中までも慎也に支配されて、それ以外は何も考えられない。
勤務中だというのに顔をにやつかせていた、そのときだった。
ちゃららららら、ちゃらららら~
甘美な思い出を打ち砕くように、入店音が響く。
夜を孕んだ、眠たげな風が店に吹き込んでくる。
そして漂う、レモンのようにすっきりとした香り。
体の熱も、疲れも、眠気も、すべて吸い上げるかのように現れたのは――ルキだった。
ルキは、商品を取るでもなく、店内をふらつくでもなく、レジまでやって来た。
「よぉ」
幼さの残る声が、店内に響く。
星は、とっさに周囲を見渡した。
「あんたしかいねーだろ。あんたに言ってんだよ」
それは、そうだろう。
しかし、ルキの登場はあまりに刺激が強い。浮かれていたとはいえ、体は疲れ切っていたからなおさらだ。しかし、若さと活力に溢れた一人の男を目の前にして、疲れが確かに癒えていくのを、星は実感していた。
「い、いらっしゃい、ませ……」
「おどおどすんなって。今日は入れ墨野郎はいねぇよ」
ルキは、ふぅ~っと息を吐きながら顔を上げた。
額の左側にはには大きい絆創膏が張られ、目も若干充血している。眉の端にいくつか切り傷があり、いまだに血が滲んでいる。元の造作が美しいだけに、見ていて痛々しいほどだった。
「あの……」
「はぁ?」
「病院、行ったんですか?」
恐る恐る、訊いてみる。あの晩、ルキは警察も呼ばず、慎也からの「資金」も突き返した。成人男性の身の振り方にいちいち口を出すつもりはなかったが、あどけなさの残るルキが一人で痛みと戦ったと思うと、星の胸も多少は痛んだ。
「いや、行ってねぇよ……」
一瞬、ルキの瞳がきらりと光ったように見えた。
横を向き、何かを憂うような表情を見せてくる。なんだか彼を傷つけてしまったようで、星も気が気ではない。
「あの――」
「この間は――」
同時に、言葉が出る。
気まずさと恥ずかしさ、それとくすぐったい気持ちがごちゃ混ぜになり、二人は顔を見合わせた。目の前では、ルキの切れ長の目がこちらをじっと見つめている。澄んだ瞳があまりに美しくて、星は言葉を継ぐチャンスを失った。
「この間は、悪かったな」
そう言われ、星の思考が停止した。
(こいつ、わざわざ謝りに、コンビニまで来たのか――?)
日曜日の早朝、自分が店に出ている時間を見計らって、何を買うでもなく、わざわざ――。
見れば、ルキの顔もほんのりと赤くなっている。
(この見た目で、このキャラで、わざわざ謝りに来て、赤くなってる……)
(なんだよ、こいつ……)
(めちゃくちゃ、可愛いじゃん)
「にやにやしてんじゃねーよ」
決まり悪そうにルキはそう言うと、「ホットコーヒー2つ」と、ぼそりと言った。
笑いを堪えながら、星はレジ横のストックからカップを取り出した。
カウンターに、寄り添うように並ぶ2つのカップ。
あのジャージ女とはヨリを戻したのだろうかと、変な勘繰りをしてしまう。
「400円です」
「へーい」
手渡された紙幣を受け取り、おつりを返す。
その瞬間、ルキの手と星の指が触れ合う。
白く長い指――しかし、触った感じはごつごつしていて、どこか力強さを感じられる。
「じゃ、おつかれさん」
しばらくすると、コーヒーマシーンの向こうにカップをセットするルキの姿が見えた。ういーん、ういーん、とコーヒーの抽出音が店内に響く。
(ああ、もう帰っちまうのか……)
客なのだから、当然だろう。
でも、ルキが来てくれて嬉しかった。
あの年代の男が、一人できちんと詫びと礼を言いにやって来てくれた。義理にでもちゃんと買い物をしてくれた。そんな優しさが、くさくさしていた星の気持ちを慰めてくれた。
やがて、コーヒーの残り香とともに、ルキはいなくなった。
ふと時計を見ると、6時40分を回ったところだった。
不安が消えたわけではない。しかし、ルキの優しさに触れた今なら、あの狭いアパートでも自分を見失わずに済みそうだった。
「室井君、おつかれさま~」
7時になると店員の数が1名から3名に増える。
これは何かのバグなんじゃないかと思いながらも、星は朝勤のスタッフに引き継ぎをして、タイムカードを押した。
「なんか、にやついてない?」
「に、にやついてないですよ……」
朝勤のスタッフから突っ込まれて、怪しさ100%の返しをしてしまう。
気分が沈んでいるときにルキに会ったのだ。そりゃあ顔もにやつくだろう。
「ふらふらしないで、まっすぐ帰んな」
「……わかり、ました」
「あとさ、駐車場にヤンキーいたから、気をつけて」
「ヤンキー!?」
この間の入れ墨男の顔が、脳裏に蘇る。ルキが謝りに来たと思ったら、今度は入れ墨男が逆襲に来たのか――? これ以上のトラブルはご免だった。
「そろそろ駐車場も混んでくる頃だから、室井君退勤がてら注意してきて」
「ええ~」
「ほら! 若いんだから!」
そう言われると、ルキは嫌だとは言えなかった。
暗い気分のまま店を出ると、コーヒーの香りが漂ってくる。
眠たい頭をシャキッと起こしてくれる、心地よい香り――。それは間違いなく駐車場から漂っていた。本能的に、駐車場の車止めに腰を下ろしている「ヤンキー」を目がいった。
「ヤンキー」は右手にコーヒーカップを持ちながら、じっとこちらを見つめていた。
「おう、待ってたぜ」
そう言いながら、「ヤンキー」は額の絆創膏を痒そうにぽりぽりと掻いた。