「とりあえず、出ようか……」
朝勤のスタッフに「ヤンキー」をどかしておけと言われた手前、ルキをそのままにしておくわけにはいかなかった。
「いーね、早朝散歩といきましょうか」
そう言い、脇に置いていたリュックをよいしょと持ち上げる。
さっき来店したときには、こんなものは持っていなかった。外に置いていたとしたら、随分不用心なことだ。
「どこ行く」
「適当に……マックでも――」
「コーヒーなら、あるよ」
はい、とコーヒーを手渡された。
見れば、キャップに口がついた気配はない。確かにさっき、2杯分コーヒーを買ってはいたけれど――。
「あんたと飲みたくて、2杯買ったんだよ」
「あ、ありがとう……」
そこまで計算していたのかと思うと恐ろしくもあった。しかし、このコーヒーがジャージ女のものではないと安心する気持ちのほうが大きい。
「じゃあ、公園まで歩くか……」
星が住むアパートの近くには、公園がある。日中は子供たちで賑わっているが、まだ7時を少し回ったころだ。男2人がだべるにはちょうどいいだろう。
案の定、公園には誰もいなかった。
空いているベンチに腰掛けようとしたときだった。
「待って! あんた、こっち!」
ルキが、とっさに星の左側に座ろうとしてくる。
「な、なんだよ!」
「こっちの顔、まだ腫れているから見られたくねぇんだ!」
顔の左半分を手で覆いながら、ルキが言う。
そんなこと、気にしないのに――。そう思いながらも、顔の傷を気にするルキが、星は可愛いと思った。
「ご、ごめん……」
「いーんだよ。それより、こっち側はイケメンだろ?」
右頬をこちらに寄せながら、おどけたようにウインクをする。本人はふざけているつもりなのだろうが、刺激に弱いアラサーにはかなりきつい。胸の奥がじん、と熱くなってつい顔を背けてしまう。
それなのに、ルキはなおも星を見つめてくる。
「ねぇ……気づかない?」
唐突に問われ、何のことだか星にはわからない。
ルキの顔を見ても、幼い目がきらきらと光っているだけだ。
「気づくって……何を?」
そう言うと、ルキは零れるような笑みを浮かべながら、リュックを開けた。そこから出てきたのは――見覚えのあるジャケットだ。
あまりのことに、夜勤明けの頭では情報処理が追い付かない。
星の感情を置き去りにして、ルキは紺色のナポレオンジャケットをシャツの上に羽織り、立ち上がった。
「『カルメン……』」
「マジかよ……」
早朝の公園が、金ボタンを光らせクサい芝居をする男のせいで、「カルメン」の世界になる。
「お前……ホセだったのか……」
慎也の面影を重ねながら、ホセ役の役者をひたすら目で追っていたのは、つい昨日のことだった。
「この度はご来場いただき、まことにありがとうございます」
頭上で右手をくるくると回転させながら、ルキが大仰なお辞儀をする。なんだか、狐につままれたような気分だった。
「よく俺が観に来てたって、わかったな」
「客席って、舞台からも結構よく見えるんだぜ。それにあんた、前から3列目にいたろ」
どき、と星の心臓が跳ねる。
「俺だって、びっくりしたんだぜ」
「はぁ……?」
「だって、知った顔が客席にいるんだもん。それに、ずーーーーーーーーっと俺のこと見て……」
「やめろって!」
「彼氏連れのくせに、罪な男だぜ」
彼氏――。
年下の男にからかわれているというのに、その甘美な響きに星の心はほんの一瞬ほだされてしまう。
「あんた、考えてること全部顔に出るのな」
「な……」
「カマかけただけなのに」
ガン、と頭を殴られたような衝撃が、星を襲う。
「いいよ、隠さなくても。この業界、多いから」
どの業界だよと思いながらも、星は言い返さなかった。
星を驚かせて満足したのか、ルキはナポレオンジャケットを丁寧に畳み、再びリュックに押し込んだ。
「あの公演、昨日が千秋楽だったんだ」
「せんしゅ……?」
相撲で聞いたことのあるようなワードだが、星にはさっぱりわからない。
「舞台の最終日ってこと。てゆうか、カーテンコールで座長が言ってたじゃん」
その「カーテンコール」が何であるかも、星にはチンプンカンプンだった。
「えっと……」
「ああ、俺に見惚れてたから気づかなくて当然か」
その瞬間、体がカッと熱くなった。
「俺をからかってるんだな」
「まさか、まさか。今日でこの町出るから、その挨拶に来たんだ」
途端、水をかけられたように怒りが鎮まってしまう。
「女の家追い出されてから漫喫にいたんだけど、金かかるしいったん実家戻るわ」
「実家……どこなんだ?」
「千葉。あの女のアパートには、稽古場まで通いやすかったから住んでただけなんだよ」
「ああ……」
「今日は、最後にあんたに挨拶したいなって思って、コンビニまで来たんだ」
さっきまでからかわれていたことも忘れ、星は悲しい気分になってしまう。
「俺、ああやって人に助けてもらうのも、優しくされるのも久しぶりだったんだ。それが、嬉しくて……」
そう言いながら、ルキがにこ、と笑う。
切れ長の目が潤むと、やっぱりホセ……ではなく、ルキと慎也は顔が似ているんだな、と星は思った。
「じゃあ、さよなら……」
ルキが、手を差し出してくる。顔の幼さに似合わず、手は大きく骨ばっていた。
「なんか、こんなシーン、昨日の舞台にもあったな……」
「そう? じゃあ、あんたは俺のカルメンだな」
「馬鹿!」
どこまでもからかってくる、ずるい奴。
それでも、星はこの男が嫌いになれなかった。
しぶしぶながらもルキの手を握り返す。
時刻は、もう朝の7時になろうとしていた。
誰も乗っていないシーソー、風に揺れるブランコ、ぽつんと佇む滑り台――。
人々が一日の活動を始めるまで――せめて、あと数分はルキの手を握っていたかった。