目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話 散歩

「とりあえず、出ようか……」

 朝勤のスタッフに「ヤンキー」をどかしておけと言われた手前、ルキをそのままにしておくわけにはいかなかった。

「いーね、早朝散歩といきましょうか」

 そう言い、脇に置いていたリュックをよいしょと持ち上げる。

 さっき来店したときには、こんなものは持っていなかった。外に置いていたとしたら、随分不用心なことだ。


「どこ行く」

「適当に……マックでも――」

「コーヒーなら、あるよ」

 はい、とコーヒーを手渡された。

 見れば、キャップに口がついた気配はない。確かにさっき、2杯分コーヒーを買ってはいたけれど――。

「あんたと飲みたくて、2杯買ったんだよ」

「あ、ありがとう……」

 そこまで計算していたのかと思うと恐ろしくもあった。しかし、このコーヒーがジャージ女のものではないと安心する気持ちのほうが大きい。

「じゃあ、公園まで歩くか……」

 星が住むアパートの近くには、公園がある。日中は子供たちで賑わっているが、まだ7時を少し回ったころだ。男2人がだべるにはちょうどいいだろう。

 案の定、公園には誰もいなかった。

 空いているベンチに腰掛けようとしたときだった。

「待って! あんた、こっち!」

 ルキが、とっさに星の左側に座ろうとしてくる。

「な、なんだよ!」

「こっちの顔、まだ腫れているから見られたくねぇんだ!」

 顔の左半分を手で覆いながら、ルキが言う。

 そんなこと、気にしないのに――。そう思いながらも、顔の傷を気にするルキが、星は可愛いと思った。

「ご、ごめん……」

「いーんだよ。それより、こっち側はイケメンだろ?」

 右頬をこちらに寄せながら、おどけたようにウインクをする。本人はふざけているつもりなのだろうが、刺激に弱いアラサーにはかなりきつい。胸の奥がじん、と熱くなってつい顔を背けてしまう。

 それなのに、ルキはなおも星を見つめてくる。

「ねぇ……気づかない?」

 唐突に問われ、何のことだか星にはわからない。

 ルキの顔を見ても、幼い目がきらきらと光っているだけだ。

「気づくって……何を?」

 そう言うと、ルキは零れるような笑みを浮かべながら、リュックを開けた。そこから出てきたのは――見覚えのあるジャケットだ。

 あまりのことに、夜勤明けの頭では情報処理が追い付かない。

 星の感情を置き去りにして、ルキは紺色のナポレオンジャケットをシャツの上に羽織り、立ち上がった。

「『カルメン……』」

「マジかよ……」

 早朝の公園が、金ボタンを光らせクサい芝居をする男のせいで、「カルメン」の世界になる。

「お前……ホセだったのか……」

 慎也の面影を重ねながら、ホセ役の役者をひたすら目で追っていたのは、つい昨日のことだった。

「この度はご来場いただき、まことにありがとうございます」

 頭上で右手をくるくると回転させながら、ルキが大仰なお辞儀をする。なんだか、狐につままれたような気分だった。

「よく俺が観に来てたって、わかったな」

「客席って、舞台からも結構よく見えるんだぜ。それにあんた、前から3列目にいたろ」

 どき、と星の心臓が跳ねる。

「俺だって、びっくりしたんだぜ」

「はぁ……?」

「だって、知った顔が客席にいるんだもん。それに、ずーーーーーーーーっと俺のこと見て……」

「やめろって!」

「彼氏連れのくせに、罪な男だぜ」

 彼氏――。

 年下の男にからかわれているというのに、その甘美な響きに星の心はほんの一瞬ほだされてしまう。

「あんた、考えてること全部顔に出るのな」

「な……」

「カマかけただけなのに」

 ガン、と頭を殴られたような衝撃が、星を襲う。

「いいよ、隠さなくても。この業界、多いから」

 どの業界だよと思いながらも、星は言い返さなかった。

 星を驚かせて満足したのか、ルキはナポレオンジャケットを丁寧に畳み、再びリュックに押し込んだ。

「あの公演、昨日が千秋楽だったんだ」

「せんしゅ……?」

 相撲で聞いたことのあるようなワードだが、星にはさっぱりわからない。

「舞台の最終日ってこと。てゆうか、カーテンコールで座長が言ってたじゃん」

 その「カーテンコール」が何であるかも、星にはチンプンカンプンだった。

「えっと……」

「ああ、俺に見惚れてたから気づかなくて当然か」

 その瞬間、体がカッと熱くなった。

「俺をからかってるんだな」

「まさか、まさか。今日でこの町出るから、その挨拶に来たんだ」

 途端、水をかけられたように怒りが鎮まってしまう。

「女の家追い出されてから漫喫にいたんだけど、金かかるしいったん実家戻るわ」

「実家……どこなんだ?」

「千葉。あの女のアパートには、稽古場まで通いやすかったから住んでただけなんだよ」

「ああ……」

「今日は、最後にあんたに挨拶したいなって思って、コンビニまで来たんだ」

 さっきまでからかわれていたことも忘れ、星は悲しい気分になってしまう。

「俺、ああやって人に助けてもらうのも、優しくされるのも久しぶりだったんだ。それが、嬉しくて……」

 そう言いながら、ルキがにこ、と笑う。

 切れ長の目が潤むと、やっぱりホセ……ではなく、ルキと慎也は顔が似ているんだな、と星は思った。

「じゃあ、さよなら……」

 ルキが、手を差し出してくる。顔の幼さに似合わず、手は大きく骨ばっていた。

「なんか、こんなシーン、昨日の舞台にもあったな……」

「そう? じゃあ、あんたは俺のカルメンだな」

「馬鹿!」

 どこまでもからかってくる、ずるい奴。

 それでも、星はこの男が嫌いになれなかった。

 しぶしぶながらもルキの手を握り返す。

 時刻は、もう朝の7時になろうとしていた。

 誰も乗っていないシーソー、風に揺れるブランコ、ぽつんと佇む滑り台――。

 人々が一日の活動を始めるまで――せめて、あと数分はルキの手を握っていたかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?