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第17話 ウサギ

「コンビニ夜勤をする前は、何の仕事をしていたの?」


「え……?」


 急に話題が過去に向けられたので、星は言葉を継げなかった。


 黙っていると、慎也があの蠱惑的な笑みを、再び星に投げかける。


「いや、別に答えなくてもいーんだけど。あのバイトする前、星が何してたかそーいえば知らないな、って思って」


「ああ……」


 星は再び黙ったが、慎也は依然としてこちらを見つめている。


 言ってしまうことで楽になるなら、今すぐにでも星は慎也にすべてを打ち明けたかった。けど、封印していた苦い記憶を掘り起こしたら、またあの日の惨めな自分に戻ってしまいそうで、星は怖かった。


「ごめん、今は……」


「いいんだよ」


 星の右手を、慎也がぎゅっと握ってくる。その瞬間、星の心臓がどくん、と跳ねた。


(やめろ、人が見てるじゃないか……)


 思わず手を振り払うと、慎也の寂しげな視線が星を突き刺す。


 恋人同士で手をつなぐなんて当たり前のことだ。げんに、休日のショッピングモールは、自分たちの親密度をこれでもかと見せつけてくるカップルで溢れている。それなのに、星はそれができない。こんなにも、慎也のことが好きなのに――。


 当の慎也は、最初こそ少し傷ついた顔をしたが、すぐに元の落ち着いた様子に戻った。体を傾け、星と向き合いながら語り掛けてくれる。


「俺さ、最初に好きになったのが中学の先輩なんだよね」


 唐突に慎也の打ち明け話が始まり、口から「え」とお決まりの感嘆符が出てしまう。


「バスケ部でさ、すげー背の高い先輩。スリーポイントとかバンバン決めるの、めっちゃかっこよくて」


 なんだこれ? 恋バナ? 俺、恋人から初恋の話を聞かされているのか?


「俺はそのとき写真部でさ、その先輩の写真いっぱい撮ってたわけ。『学級新聞に使うんですー』とか嘘ついて」


 くくく、と顔を歪ませながら慎也は笑った。


「そしたらさ、先輩になんて言われたと思う?」


 美しい瞳が、こちらを覗き込んでくる。深淵のような黒目に捕らえられ、もう逃げることなどできない。それでも、星はひと言も発することができなかった。


「『お前、きもいよ』――。そう言われたんだ」


 しゅっ、とその場の空気が凍り付いた。慎也の悲しみが、星の体の髄まで染み込んでくる。


「そりゃ、勝手に写真撮りまくってた俺が悪いよ。でも、始終先輩にくっついて回ってたから、多分俺の気持ちはわかってたはずなんだ。それを『きもい』のひと言で片付けられて……そっからは自己嫌悪。俺のやっていることは悪いことなのかって、ずっと悩んでた」


 そのとき、慎也の手が星の太腿に触れる感覚があった。やわらかな、下心のないボディタッチ。一度凍ったかに思えた星の心臓が、今度はばくばくと早鐘を打つ。


「俺のこと、嫌い?」


 星は、ぶんぶんと首を横に振った。


 その様子が面白かったのか、慎也が目を細めながら、微笑んだ。


「お前が過去のことで悩んでるなら、無理に言わなくてもいい。お前がそれを克服できるまで、俺も寄り添っていたい。でも、でも――」


 慎也の手が、どんどん上に伸びていく。気がついたときには、慎也に再び右手を握られていた。


「一緒にいるときは、恋人として振る舞ってくれ」


 潤み、煌く瞳を前に、星はただ頷くことしかできなかった。


「ありがとう」


 手と手をつなぐ――。恋人として一線を越えた身でありながら、こうやって「恋人らしい」ことをしたのは初めてだった。なんだか、初デートに来た高校生みたいに、胸がくすぐったい。


 でも、恋人つなぎっていいものだな、と星は思った。絡め合う指から、触れ合う掌から、相手の体温を――心を――読み取ることができる。今の星は、慎也の体から「幸せ」を感じることができた。対して慎也には、星の心は伝わっているのだろうか――?


「さぁーて、フードコートでも行くかぁ」


「は? さっき食べたばっかだろ?」


「ばーか。あんな『スイーツ』で男子の腹が膨れるかよ!」


 ぽん、と慎也が自分の腹を叩く。その様子がどうにも滑稽で、星の気持ちまで明るくなってしまう。


 そのまま、手をつないだまま二人でモール内をぶらぶらと歩いた。


「俺たち、恋人同士に見えるかな?」


 慎也が訊いてくる。慎也のほうが背が高いので、密着して歩いていると彼の吐息が上から降り注いでくる。爽やかな吐息で耳やうなじを撫でられると、なんだかイケナイ気持ちになってくるのが、不思議だ。


「さぁ……案外兄弟とかに見られるんじゃねぇ?」


 そんな、適当な返しをしたときだった。


 左肩を、ぽんぽん、とやわらかいもので叩かれた。


 振り返ると、そこにいたのはウサギの着ぐるみだった。


「はっ、はぁ?」


 誰の視線も感じないと思ったのに、まさかウサギに呼び止められる。プラスチック製の青い目にじーっと見つめられ、頭の情報処理が追い付かない。


「おい、それ受け取れって」


 慎也が「それ」と指さしていたのは、ウサギが手にしたハート形の風船だった。


 星は、改めて周囲を見回した。なるほど、カップルや子供連れの中には、色とりどりの風船を手にしている者が多い。よく見ると風船に企業のロゴが印刷されており、何かのキャンペーンの一環なのだろうなと星は思った。


「ウサちゃん、ありがとーね」


 固まっている星の代わりに、慎也が風船を受け取る。ウサギは、片手で残りの風船を持ち、もう片方の手で慎也に手を振りながら、去って行った。


「何だったんだ、あれ……」


 緊張から解放されて、星はようやく口を利くことができた。


「よかったじゃねぇか」


「は?」


「あのウサちゃんには、俺たちがカップルに見えたってことだよ」


 にかっ、と慎也が笑う。


 そういうこと? それで、いいの?


 いくつもの疑問が頭にぐるぐると渦巻いたが、上機嫌な慎也を見ていると些細な疑問などどうでもよくなってしまうのだった。

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