翌朝、久しぶりのあの夢を見た。
『結婚するって、どういうことだよ?』
聞こえてくるのは、ほとんど泣き声に近い、男の怒号。
夢の中では、スーツ姿の男が二人、会社の会議室のような部屋で、向かい合っている。問い詰められているほうの男は、ひどく面倒そうに顔をしかめていた。
『だって、あっちは取締役の娘だぜ。俺だって出世がしたいわけよ』
『なんだよ……お前、女は抱かないって……俺が一番好きだって言ってたじゃないか』
泣き男は、相手の胸に必死に縋りついている。
『あー、もう、うぜーな。ドライな関係でいよう、って言ったじゃねぇか』
『誘ってきたのはそっちだろ? 卓人(たくと)……!』
この流れは、今まで何百、何千と自分の夢の中で反芻した内容だった。
夢を見ながら、星はああまたか、と思った。俺は、自分の過去から逃れられない。いつまでもいつまでも、トラウマを抱えて生き続けている――。
泣いているのは、商社に勤めている頃の自分。そして、そんな自分の腕を振り払おうとしているのは、かつての恋人、卓人だった。
星の人生でもっとも屈辱だった時間が、夢の中で繰り広げられている。
『名前で呼ぶんじゃねぇ! 外まで漏れてたら、どうするんだよ!』
『でも、卓人……』
星の手を、卓人は今度こそ振り払った。
『あーあ、スーツ汚れちまったじゃねぇかよ。これからプレゼンだってのに』
卓人が、ゴミを見るような目で、星を見つめる。
彼の目は、本来はこうではなかった。いつだって、彼は星を優しく見つめてくれた。二人だけでいるときは、その視線は舐めるような目つきに変わり、星を高めてくれたのだ。
『お願いだ、卓人。お前が誰と結婚しててもいい。俺を、捨てないで……』
『気持ちわりーな、ほんと!』
卓人が、星の両肩を突き飛ばす。星が倒れると、出しっぱなしにしていたテーブルや椅子が、ガラガラと崩れる。
『あーあ、ちゃんと片付けとけよ』
『待って、卓人……まって……!』
男の冷たい背中を、なおも星は目で追った。
お願い、行かないで。俺を、一人にしないで――。
最後に「卓人!」と叫んだとき、目が覚めた。
寝汗をびっしょりかいたせいか、背中とTシャツが張り付いている。
「畜生、なんで……」
誰もいないアパートの一室で、星はひとりごちた。
2年も前に別れた恋人のことを思い出して、惨めな思いをするのは御免だった。努めて彼のことを考えまい、考えまいとしてこの2年生きてきたのに、夢の中まではコントロールできない。星の深層心理に深く深く入り込んだ卓人は、時折夢の中に現れ星の心を掻き乱した。
それでも、ここ最近は卓人の夢を見るのは稀なことだった。それが、今になって彼の顔も、声も、飛んでくる唾の生ぬるさまでリアルに感じられる夢を見るなんて――。昨日、慎也が星の過去について訊いてきたから、こんな夢を見たのだろうか?
(いっそのこと、慎也にすべて話そうか……)
枕元に置いたスマホを、そっと手に取る。
暗い画面に、LINEの通知がぴかぴかと光っていて、眩しかった。
「もう寝た?」
「昨日は楽しかったね」
「ウサギにハートの風船もらったのはマジおもしろかった」
ロック画面をスクロールしていくと、慎也からのメッセージがアコーディオンのように無限に表示されていく。最近思ったのだが、慎也はLINEになると少し幼い喋り方になる。普段のきりっとした印象からは想像もできない、男子高校生のようなウキウキした語り口が、星は愛おしかった。
慎也からの短いメッセージを読んでいるうちに、星の気持ちは落ち着いてきた。
こんなに素敵な恋人――手をつなぎながらショッピングモールを歩き、ウサギの着ぐるみからハートの風船をもらうような――がいるのだ。過去についてウジウジしていても仕方ない。
(慎也、ありがとう……)
メッセージの送り主である恋人に、感謝したときだった。
「あ」
見慣れない名前の通知を見て、星は小さく声を上げた。
条件反射的に通知をタップする。
「Luki」
LINEのトーク画面には、そう表示されていた。
(あいつ、俺にメッセージなんか送ったのか?)
実は、公園で別れたとき「次の舞台が決まったら連絡する」という約束で、星とルキはLINEを交換していたのだった。あれから1週間以上経っても音沙汰がないので忘れられたものと思っていたが、今朝になってメッセージが何通か送られていた。
メッセージをさかのぼっていくうちに、落ち着きを見せていた心臓が再びばくばくと脈打った。
「どうも、昨日のウサギです」
口から、変な声が出そうになる。親にエロ本を見つかったときのような気まずさと、恥ずかしさ。それなのに、画面から目が離せない。
「あんたたち、ラブラブし過ぎ」
「遠目でも、すぐわかったわ」
とっさに、星はメッセージを返した。
「あのウサギの着ぐるみ、お前だったのか?」
するとすぐに既読がついてメッセージが返ってくる。
「舞台俳優は大変なんだよ。バイトして生活費稼がなきゃ」
「俺たちのこと、ずっと見てたのか?」
「人聞きわりーな。着ぐるみバイトしてたら、たまたまあんたたち二人が歩いてるのが見えたんだよ」
「Sorry」と書かれたスタンプが送られてくる。まぁ、わざわざルキが自分たち二人を追いかけ回す理由はないし――だったらあれは、本当に偶然だったのだろう。
「風船、星さんが持って帰ったの?」
ルキが、すかさずメッセージを送ってくる。
「ああ、俺の部屋にあるよ」
「あれ、一人50個さばかなきゃいけないから、大変なんだぜ」
「協力できたようで、よかったよ」
皮肉のつもりで送ったのに、「Thank you!」とスタンプが返ってくるので、星は怒ることもできなかった。
「てゆうかさ、一緒にいたカレシ。よくよく見れば『ケンカはやめなさーい!』ってコンビニで言ってた奴じゃん。あの頃から付き合ってたの?」
「付き合い始めたのは、舞台観に行ったあとからだよ」
ポン、と「了解しました」のスタンプが送られてくる。
「カレシ、いい人そうだね」
「伝えておくよ」
「今度、一緒に舞台観に来てくれよ」
「次、決まりそうなか?」
「実は、来週オーディションが一件あるんだ。でも、ちょっと悩んでて……」
文章だけだが、なんとなくルキが弱気になっているのを感じられた。
「なんだよ、自信ないのか? ホセ」
「やめろー」
「No」と言うスタンプが続けざまに3個送られてくる。可愛い奴だな、と星は思った。
「実は、宣材写真のことなんだ」
「写真?」
ドクン、と星の心臓が高鳴った。
「今使ってる写真、10代の頃に撮ったやつなんだ。俺もそろそろ大人な役やりたいからさ、撮り直そうと思ってる」
「撮ればいいだろ」
「簡単に言うなよ。カメラマンってそう簡単につかまらないんだぜ。それに、金もねぇし」
「BAD」のスタンプがチカチカと光っている。なんだか、星にはそれが何かの啓示に見えた。
「カメラマンの知り合いとか、星さんいるー?」
文面から、たいして期待していない様子がうかがえる。
星は、極めて冷静にスマホの画面をタップした。
「いるよ」
「マジ?」
「いるんだよ」