ここから出る許可が降りないのならもう勝手に逃げ出してしまえばいい。
完治した私なら公爵邸から逃げ出すことも不可能ではないだろう。
そう考えた私は机の上に今までの感謝の気持ちをしたためた手紙を置いて、必要な荷物をまとめると、さっさと今まで生活していたこの部屋を後にした。
逃げる時間帯はあえて昼間を選んだ。
たくさんの人が活動している時間帯の方が私が1人で移動していても不自然ではないからだ。
公爵邸脱出後、まずは帝都の隣街、ユランを目指す。
ユランにある小さな銀行に実はルードヴィング伯爵に裏切られた時用の資産をこっそりステラとして作っていたからだ。
そこまで行けば300万ほどの資産があるはずだ。
それだけお金があれば遠くへ移動することも必需品を買うこともとりあえずの生活をすることもできる。
これからのことを考えながらも私は公爵邸をぐるりと囲む立派な塀のところまで辿り着いた。
ここに着くまでに何人かとすれ違ったが、誰も私がここから出ようとしていると気付く者はなかった。
あとは誰にもバレずにこの塀をよじ登って外に出ればまずは公爵邸からの脱出完了だ。
「うゔっ」
私の小さな体よりも何倍も高い塀を荷物を持ったまま登ることはとても難しい。
それでも私は諦めることなく、唸りながらも塀にあるわずかな凸凹を見つけてはそこに手や足をかけ必死で塀をよじ登り続けた。
その結果ものの数分で私は何とか塀の頂上まで辿り着いた。
「やったぁ!」
「そこで何をしている」
達成感と嬉しさのあまり塀の頂上に立ち、喜んでいると塀の向こう側、公爵邸外から聞き慣れた声が私に話しかけてきた。
嫌な予感と共にゆっくりと声の方へ視線を向ければそこにはいつもの冷たい表情でこちらを見つめるユリウスの姿があった。
その黄金の瞳には少しだけ怒りの色がある。
「あ、遊んでいるの…。塀をよじ登って遊ぶ遊びなんだけど街で流行っているんだよー」
へへ、と引きつった笑みをユリウスへ向けてみる。
するとユリウスはただ一言「へぇ」と呟いた。
し、信じませんよねぇ。
まさか逃げようとしているところを1番見られたくない人に見られてしまうなんて。
「こっちに降りて来い」
「え」
「いいから」
塀の上でどうしたものかと悩んでいるとユリウスが両手を広げで私を受け止めようとしてきた。
そんなことをしなくても自分で降りられるのでユリウスの提案に困惑してしまう。
反対側、公爵邸側に戻ろうかな、とも思ったが両手を広げて今にも私を受け止めようとしているユリウスを見るとその選択をするのは何だが申し訳なくなってきた。
「自分で降りられるよ」
「それで?降りてからどうする?逃げるのか」
「この距離で?逃げられる訳ないじゃん」
「だったらここに降りて来ればいい」
「何でよ」
相変わらず冷たく無愛想なユリウスの言葉に呆れてため息を漏らす。
どうやら絶対に私を受け止めたいらしい。この鉄仮面は。
「わかったよ…。今降りるから」
ユリウスの方へ行こうが行かまいがどっちにしろ逃走は失敗したので私はユリウスのお望み通りユリウスの胸に降りることにした。
塀の上からユリウスに向かって飛び降りる。
ユリウスはそんな私を見事に受け止め、ぎゅぅと力強く抱き締めた。
「危ない遊びはするな。わかったか」
「はーい」
私を抱き締めるユリウスから怒りの声が聞こえる。
私はそんなユリウスに適当に返事をした。
「それから今後はお前がこんな危ない遊びをしないように見張り役を付ける。よかったな?これでお前は安全だぞ」
「…えー」
つまりもうこの方法では逃げられないということではないか。
安易に逃げようとした結果、さらに逃げられない状況を作ってしまい、自分の軽率な行動に私は大いに反省する羽目になった。
今度はもっとちゃんと計画を練ってから脱出しなければ。まさか公爵邸から出ることがこんなにも難しいことになるなんて。
出てからが本番だというのに。
*****
脱走しようとしてから数日。
私は毎日誰かに監視されている。
と言っても四六時中誰かが私に張り付いているいう訳ではなく、近くにいる、といった感じだ。
部屋の外に必ず護衛騎士がいるのもそういうことだ。
前まではこんな命を狙われている重鎮みたいな扱いなんて受けていなかったのに。
…命を狙われているのは間違えないんだけど。
「昨日のユリウス様との剣術のお稽古はいかがでしたか?」
昼食を食べ終えた昼下がり。いつものようにソファでくつろぐ私にメアリーがストロベリーティーを淹れてくれる。
そして彼女はにっこりと笑いながら慣れた手つきでそれを私の目の前の机の上に置いた。
「…んー。楽しかったかな。ユリウス強いし」
「そうでしょう!そうでしょう!ユリウス様はとてもお強いんです!かっこよかったでしょう!」
昨日の剣術の稽古の感想を述べるとメアリーが本当に嬉しそうに笑う。
ユリウスは時間を見つけてはよく私に剣術の稽古をつけてくれていた。
この帝国内でユリウスの剣術の腕前を知らない者はいない。どんな先生よりも優れた能力を持っていることは間違いないので、ユリウスが剣術の稽古に現れるといつもヴィル先生からユリウスへ私の剣術の先生が変わっていた。
ユリウスが剣術の先生になる時は基本、模擬戦をしながらだ。私はただ剣を振るうだけよりも、目まぐるしく状況が変わる模擬戦の方が好きなので、ユリウスとの稽古はヴィル先生の稽古よりも好きだった。
リタの代役を務めていた時も口論の末に模擬戦にまで発展することがよくあったが、その時も実は密かにユリウスとの模擬戦を楽しんでいた。
もちろん表向きは文句しか言っていなかったが。
「ステラ様もご存じだとは思いますがユリウス様は騎士団に最年少で所属を認められた天才です!そんな方とお稽古ができるステラ様もおそらく天才ですね!」
まるで自分のことのように誇らしげにしているメアリーの姿はあまりにも愛らしく、私は思わず、ふふ、と笑ってしまう。
ユリウスだけではなく私まで褒めてくれるなんて。
「ありがとう、メアリー」
愛らしい笑顔で話を続けるメアリーに私は笑顔でお礼を言った。
ここに居ればみんな私を〝ステラ〟として見てくれる。
リタの代役を務めていた時はどんなに頑張ってもそれは全て〝リタ〟のものだった。
それに不満があった訳ではない。
そういうものだと特に気も留めていなかった。
だが、ここへ来て初めて自分自身が評価されて、正しく評価されることがこんなにも気持ちよく、誇らしくなれるのだと知った。
午後からの予定は確かライアス先生の授業だ。
歴史学と貴族の礼儀作法を学ぶ予定だったはず。
「メアリー、ライアス先生は何時に…」
メアリーにライアス先生の訪問時間を聞こうとしたその時、私の部屋の扉を誰かコンコンっとノックした。
もうライアス先生が来てしまったようだ。
「ヤバい!まだ何も準備してない!」
バっ!と勢いよくソファから立ち上がり、勉強に必要なものを片付けている机の方へ向かう。
ノートと教科書と参考書!
あと予習に使った資料をまとめノート!
慌ててそれらをまとめていると予想していた声とは違う声に後ろから声をかけられた。
「何をしている」
冷たくて無愛想な声。
ユリウスの声だ。
今は学院の時間だというのにこの男はまたここに来たのか。
「…驚かさないでよ。ライアス先生が来たと思ったじゃん」
大きくため息をつきながら後ろを振り向けば、声の主、ユリウスが冷たい表情でこちらを見ていた。
相変わらずの鉄仮面だ。
「ライアスは来ない」
「…何で?風邪?」
「いや、お前に別の予定ができたからだ」
別の予定?
ユリウスの言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「花祭りに行くぞ」
そんな私にユリウスは淡々とそう言った。