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夏の扉が開かない
夏の扉が開かない
穂祥舞
現実世界現代ドラマ
2025年04月28日
公開日
3,704字
連載中
コントラバスをたしなむ大学生の泰生(たいき)は、3回生になり通うキャンパスが変わったことを理由に、吹奏楽部を退部する。1回生の頃から親しくしていた旭陽(あさひ)との関係が拗れたことも、退部を決めた理由だったが、そのことは周囲に隠していた。 京都・伏見区のキャンパスは泰生にとって心地良く、部活はしないで卒業までのんびり過ごそうと決めていた。そんな時、学校帰りに車窓から見える商店街に興味を覚えた泰生は、途中下車して喫茶店に立ち寄る。その店でアルバイトをしている、同じ学部で管弦楽団に所属する文哉(ふみや)と知り合い、彼から管弦楽団に入部しろとぐいぐい迫られる。部活の煩わしい人間関係を避けたい気持ちと、心機一転して楽器を弾きたい気持ちの板挟みになる泰生だが……。 綺想編纂館朧様主催の物書き向け企画「文披31題」のお題に沿って、2024年7月1日から1ヶ月間かけて、毎日2000字程度の連作短編で物語を進めた実験的作品です。こちらに転載するにあたり多少手を入れましたが、ほぼ当時の書きっぱなしのままです。物語の時間の流れは、原則1話1日です。 舞台は、京阪電鉄龍谷大学深草駅(京都市伏見区)から樟葉駅(大阪府枚方市)の区間らしき場所で展開します。ほとんど京都らしくない、泥臭い目の京都南部をどうぞ。 この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは、何ら関係ありません。

第1話 プロローグ

「俺のせいなんか?」


 井上いのうえ旭陽あさひの声は震えていた。泰生たいきの心臓がどくんと嫌な音を立てたが、聞こえなかったことにする。


「何のことや、関係無いわ……しんどいだけや、伏見からこっち来てまた大阪まで帰らなあかんから」


 泰生は、先月4回生たちに話した通りに旭陽に説明する。上級生たちは低音パートを受け持つ泰生が抜けることを惜しんだが、通学の事情を持ち出されると強く引きとめることはできない。泰生はそれを知っていた。京都市内にキャンパスを2つ持つこの大学において、3回生以降に利用するキャンパスの変更がある学部の学生は、課外活動を卒業まで続けられないことも珍しくないのだ。

 旭陽は縋るような声音になった。


「そんなん、1回の時からわかってたやん……4回まで頑張る言うてたやろ」


 肌の色も髪の色も明るく、やや女性的に整った容貌の旭陽がこんな悲痛な顔をすると、ついほだされそうになる。これまではそうだったが、泰生は同情に気持ちが揺れそうになるのを抑えつけた。


「1回の時はそのつもりでおったわ、でも実際やってみたらちょっとしんどい」


 泰生の気持ちは固まっていた。伏見キャンパスで授業を終えてから、楽器の練習のためだけに下京しもぎょうキャンパスに移動するのは、きつい。2つのキャンパスのあいだを往き来するスクールバスは18時台までしか無く、吹奏楽部は19時まで練習があるため、帰りの交通費は自腹を切ることになった。正直言って、そこまで吹奏楽を愛している訳ではない。

 後期になれば就職活動も始まる。もう、音楽生活は終わりだ。

 しかし旭陽は、低音セクションでこれまで一緒に演奏してきて、学部が違うのに親しくなった泰生に対して、明らかな未練を見せた。


長谷川はせがわがおらんくなったら、寂しい」


 泰生は舌打ちをしそうになった。

 あの時以来態度変えたんは、おまえやろが。おまえに会いたくないのもあるからクラブ辞めるって、言うてほしいんか。

 口から出そうになるのを、堪える。


「……今生の別れちゃうやろ、大げさやな」

「でもクラブ無かったら、会おうと思わな会われへんやん、キャンパスも別なんやし」


 その旭陽の言い方が、軽く癇に障った。泰生は言い返す。


「時間作って会おうと思わへんのやったら、そこまでってことやろ?」


 旭陽ははっとしたような顔になる。自分が発したのが、やや失言だったことに気づいたようだった。


「そういう意味と違う」

「どういう意味でももうええわ」


 口にしてみると、本当にどうでもよくなってきた。もう部活動の集合時間が近いので、泰生は話を打ち切ることにする。


「まあそういうことで、あと2週間よろしく……サマーコンサートの合奏にはもう出えへんけどな」


 言い捨てる形になってしまった。泰生は旭陽の顔を見ず、彼を待つこともせずに音楽練習場に向かう。一旦校舎の外に出ると、じわっと湿度がむき出しの腕に襲いかかってきた。




 そして最終出席日の今日、泰生は吹奏楽部の部員たちの前で、退部の挨拶をした。


「2年と3ヶ月、ほんまにお世話になりました……自分としても残念なんですが、やっぱり3回になってからちょっときつくなりました、皆さんはこれからも頑張ってください」


 泰生がぺこりと頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起こった。4回生がちょっとばかり引きとめてくれたことを思うと、あっさりとした幕切れだった。ちらっと右手を見ると、旭陽は足許に置いた銀色の大きな楽器に視線を落としたまま、手を叩いていた。

 部長が明日の練習予定を確認し、練習の終了を告げた。お疲れさまでした、と全員で挨拶して、各々が楽器を片づけ始める。泰生は2年と少し弾き続けた、自分より少し背の高い大きな弦楽器を最後に丁寧に拭くべく、2枚のクロスを鞄から出した。


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