泰生がベランダに出て、外の風と暮れて来た空を楽しんでいると、兄の
「ただいま、何黄昏てるん」
友樹はリビングを通過して、そのまま泰生のところへやってくる。サンダルは泰生が使っているので、靴下履きのままである。3つ上の兄は、京都の大学を出てから大阪の会社に勤務し始めて2年目だが、特に会社で何かに悩まされることもなく、順調な社会人生活を送っているようだ。
「あ、空きれいやなぁ」
友樹は梅雨の晴れ間の美しい空を見上げて、言った。泰生も兄の言葉に、うん、と同意した。吹く風も今日は爽やかなほうで、良い夕涼みだ。
「伏見のキャンパスどう? 近いしええんちゃうん?」
友樹に訊かれて、泰生は素直に、うん、と答えた。
「駅チカやし、広いし、緑も多いし」
友樹の大学くらいしか比較の対象を知らないが、伏見キャンパスは大学らしい気がする。少し古めの校舎がいくつも建ち、食堂が複数あって、学生が気軽に溜まることのできるスペースが多い。不満を挙げるとしたら、下京キャンパスと比べて周辺に飲食店が少ないことくらいだろうか。とはいえ飲み食いする場所も、部活動をしていなければほぼ用は無い。
弟がぼんやり答えるのを聞いて、友樹はふんふんと頷いた。
「あそこはまだ、外国人観光客にぎりぎり侵されてへんしな」
泰生が3月まで通っていた下京キャンパスは京都駅が最寄りだったので、外国人が多かった。観光客を歓迎しない訳ではないが、特に京都駅以北の公共交通機関の混雑状況は異様で、泰生の目から見ても、まさしくオーバーツーリズムである。
兄の卒業した大学は京都御所に近い場所にあるので、今は観光客だらけのようだが、彼が学生の頃は、まだここまで京都は大変なことになっていなかった。
「申し訳ないけど、就職して京都脱出できてよかったと思てる……」
友樹は呟いてから、そよと吹いた風に鼻をうごめかすような姿勢になった。泰生もそれを真似ると、匂ったのは夏の緑などではなく、近所の夕飯のカレーだった。
泰生はベランダから、キッチンにいる母に、夕ご飯何? と訊いた。母の返事は早かった。
「焼き鳥と、なすの揚げ浸しと、豆腐とわかめの味噌汁やけど、何?」
「別にいちゃもんはつけてへんで」
「当たり前や、いちゃもんつけるんやったら自分で作り」
何故か喧嘩腰の母に、泰生はむかっとしたが、友樹は小さく笑った。母は友樹にも呼びかける。
「ともちゃん、汗かくから着替えなさい……もうほんま、何でごつい息子にこんなん言わなあかんのやろか」
「何でそんな絡んでくんねん、パートで何かあったんか」
「そんなん、いっつも何かあるわ」
気のいい兄は、笑いながらリビングに入って行った。いつもこんな調子だが、泰生は自分の家が好きである。京都と大阪の境目に位置し、どちらにも電車1本で出ることができて、でも大概のものは近辺で揃うというこの街も好きだ。
この街は七夕伝説のゆかりの地である。だから今は、そこら中に七夕飾りが溢れ、なかなかの風情がある時期だ。
父が帰る時間に合わせて炊飯をセットしていると聞き、着替えを済ませた友樹は缶ビールを2本、冷蔵庫から出してきた。泰生はそれを見てぎょっとしたが、これからもう大学の友人と飲むことも無い(せっかく酒が飲める年齢になったのに)と思うと、相手が兄でもまあいいかと思った。
「何か吹部辞めて、ちょっと腑抜けてる?」
ベランダの手すりに腕をかける友樹に訊かれて、そうかもしれないと泰生は考える。本当ならこの時期は、吹奏楽のコンクールとサマーコンサートの練習で忙しい。もし続けていれば、こうして明るいうちに帰宅して家族と晩酌をするなど、ちょっとあり得ない。
「吹部もそやけど、キャンパスも変わったから、軽く人生リセット感あるわ」
一番仲が良かった友人とも、おそらくこれで切れるだろうから。良く冷えたビールは、苦みが少し飛んで、まだ酒に慣れていない泰生にはちょうど飲みやすかった。
「どうせリセットするんやったら、何か他の……クラブはしんどいかもしれんし、サークルでも探したら?」
友樹の提案に、泰生はうーん、と首を捻る。
「言うてる間に就活とか始まるやん、どんだけ活動できる?」
「大学時代に友達作っとかへんかったら、社会に出てから寂しいで」
そう語る友樹は、大学で4年間、美術部に所属していた。中学高校と軟式野球をしていた兄は、泰生よりずっと運動神経も良くて、この性格なのでモテキャラなのだが(ちなみに卒業した大学も泰生の大学より偏差値が高い)、何故か大学では油絵にハマっていたのだった。美術部の同級生とは、今でもちょこちょこ会うようである。
半分ほど缶ビールを飲んでから、泰生は洗濯物を取りこみ始めた。ぱりぱりに乾いたバスタオルやジーンズ、色褪せないように裏返して干されたTシャツ。鼻を近づけると太陽の匂いがした。友樹は見ているだけなのだが、給料の幾らかを自宅に入れている身なので、泰生には文句は言えない。
「兄貴、今週末は彼女とメシ食ったりとかするん?」
深い意味も無く泰生は尋ねた。しかし、友樹の返事は想定外に悲劇的だった。
「ううん、もう俺とメシ食ってくれる女はおらんくなりました」
「あ、……そ」
泰生は男3人の2日分のパンツを抱えながら、ビールをぐっと飲み干す兄の姿を見つめた。すいと頬を撫でた風は、会話に似合わず心地良かった。