その日は授業が3限までだったので、泰生は大学の最寄り駅から準急に乗り、いつものように特急に乗り換えずに、気になっていた駅で途中下車した。その駅を通過する時、特急の窓から大きな商店街の入り口が見えるのが気になっていた。そこにはいつもたくさんの人が歩いているが、大きなスーツケースを転がす外国人観光客らしき者は目に入らなかった。
狭いホームから階段を下りて定期券を改札にかざし、人の昇り降りが多いほうの階段を上がった。視界が開けたそこは立派なアーケードのある大きな商店街で、制服を着た学生や、普段着のままで買い物に出てきた女性たち、そしてゆっくり歩く老人たちが行き来していた。
都市銀行や全国チェーンのドーナツショップやファストフード店があるかと思えば、個人商店と思しきおもちゃ屋や洋服店や洋菓子店、そして京都の地銀も並んでいた。泰生の家の近くには、シネコンを備える大きなショッピングモールがあるが、全く雰囲気が異なる。京都にも大阪にもシャッター商店街が増えたというが、ここは違った。興味深くて、泰生はきょろきょろとしながら歩く。
商店街は緩やかな下り坂になっていた。途中で振り返ると、やや目線の高い位置に電車が走っているのが見えた。駅の向こうも登り坂が続き、確か別の私鉄の駅があるはずだ。
じめじめと暑くて喉が渇いたので、どこかの店に入ってみようと思う。さっきチェーンカフェの前を通ったが、泰生が選んだのは、ちょっとレトロな木の扉を持ち、店の前のショーケースに飲み物やデザートのサンプルが並ぶ喫茶店だった。「かき氷始めました」という旗が、扉の脇に揺れていた。
そっと扉を押すと、中は思ったより広く、しかも席がほぼ埋まっていた。4人掛けのテーブルに座る3人の高齢男性が一斉に泰生を見たのは、見かけへん若い奴が来たな、という気持ちだったかもしれなかった。
「カウンター空いてますよ、どうぞ」
デニムのエプロンをつけた、店長らしき中年男性が、扉を開けたことを後悔し始めた泰生に声をかけてくれた。泰生は並ぶテーブル席を回避しつつ、店の奥のカウンターを目指した。
店内に広がるコーヒーの匂いが魅力的だったので、アイスコーヒーを注文した。大学では滅多にコーヒーなんか飲まないのに。
店内では店長らしきエプロンの男性がキッチンを担当し、中年女性がキッチンを手伝いつつ、若い男性とともにホールの客をさばいていた。若い男性が水と冷たいおしぼりを、泰生の前に静かに置く。布のおしぼりは、久しぶりに見た気がする。
コーヒーは、大きなグラスに入っていた。ガムシロップとコーヒーフレッシュを少しずつ入れて、ストローでちゅっと濃い色の液体を吸うと、香ばしい香りが鼻腔を通り抜けた。泰生は、おいしい、と心の中でひとりごちた。
「あ、長谷川……やったっけ?」
いきなり声をかけられて、泰生はびくっとして声の主を見た。お冷やとおしぼりを出してくれた男性だった。
「あれ、俺やん、覚えてへんの?」
男性がオレオレ詐欺のようなアプローチをしてくるので、基本的に人見知りの泰生は、警戒してカウンターの椅子の上で微かに上半身を引いた。すると男性は、銀の盆を抱いたまま、自己紹介した。
「日本文学科の
泰生は記憶の抽斗をひっくり返した。彼の言うことが本当だとしたら、同じ大学の同じ文学部生なのに、全く記憶に無いと答えるのは失礼過ぎる気がしたからだった。しかし抽斗の中に、彼の名と顔は残っていなかった。
「……ごめん、覚えてへん」
泰生が小さく答えると、岡本と名乗った男性は鷹揚に笑った。
「1回生の1コマだけ顔合わせてただけやったら、まあ忘れるわな」
文学部生は2回生になると、他学科とほとんど授業が被らなくなる。泰生は歴史学科なので、日本文学科との共通科目は今や全く無い。しかし岡本も、この春伏見キャンパスに引っ越してきたことを思うと、仲間意識を感じなくもなかった。
岡本はこの店でアルバイト中で、それ以上泰生に話しかけてこなかった。しかしゆっくりとコーヒーを飲んだ泰生が鞄から財布を出そうとすると、岡本は客が帰ったテーブルを片づけながら、言った。
「なあ、RHINE教えて」
「え……」
泰生が戸惑うのを、店長が笑いながら見ていた。
「おい
「ナンパちゃいますよ、おんなじ文学部の一方的知人ですって」
「一方的って、半分ナンパやないか」
喫茶のピークが過ぎて店が空いてきたからか、店長は岡本に軽口を叩き、中年女性も、うふふ、と笑う。普段こういうシチュエーションが苦手な泰生だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ちょっと待って……」
泰生はスマートフォンを出し、SNSのアプリを立ち上げた。岡本も、グラスが載った銀の盆を引き上げてくると、キッチンのどこかからスマホを取り出す。
「岡本文哉」という名が画面に表示され、久しぶりに泰生のメッセージアプリの友だちが増えた。ふらっと寄った喫茶店でこんなことになるなんて、何となく変な気分だった。でも、ちょっと面白い。
泰生はごちそうさま、と店長に挨拶して店を辞した。コーヒーも美味しかったし、当たりかもしれない。
岡本は扉から顔を出し、今度は学校でな、と言いながら見送ってくれた。喫茶店の存在も、人が行き交う商店街のざわめきも、泰生にはやや現実味が薄い白昼夢のように感じられた。