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第4話 蚊が飛ぶ教室にて

 喫茶店で遭遇した同級生、岡本文哉は、学食で一緒に食事をしようと早速泰生を誘ってきた。この日の授業は3限からなので、泰生は少し早く家を出て大学に向かった。

 岡本が待ち合わせ場所として指示してきたのは、一番新しい大食堂だった。テストが近いこともあって、最近キャンパス内の人口密度が高めなのだが、案の定広い食堂内は人だらけだった。

 下京キャンパスよりも広くて通学してくる学生が多い伏見キャンパスは、下京キャンパスの3倍の数の食事処があるのに、どこも混雑ぶりが凄まじい(と、少なくとも泰生は思っている)。岡本と落ち合えるのかとやや不安だった泰生は、背が高くて頭が少し周囲から抜け出している彼を見つけて、心から安堵した。

 岡本は昨日同様、ずっと前からの知り合いのように気さくに声をかけてきた。


「おはよう、混んでるなぁ」

「うん、試験前やししゃあないと思う」

「暑いからみんな中に入ってくるしなぁ」


 季節のいいときは、オープンカフェのように設えられたテーブルで食事をするのも心地いいのだが、今日のように暑くて今にも降りそうな日に、そこを使う学生はいない。

 食券を買うために行列を作る人々を見て、岡本はああ、とぼやく。


「……購買行く?」

「俺は何でもええよ」


 自分が誘ったのに席も無いような事態になっていることに、岡本が少々申し訳なさを感じているのがわかったので、泰生は何とも思っていない感を強調しながら答えた。事実、購買のおにぎりでもパンでも構わなかった。

 方向転換して大学生協の購買部に入り、泰生は冷たいうどんとおにぎりを買った。岡本はサンドウィッチと菓子パンを買っていて、お互い3限目は授業だから、文学部棟の飲食可能教室を使うことにした。


「ごめんな、結局こんなんで」


 椅子に落ち着くなり、岡本は言った。そんなに気を遣わなくてもいいのにと、泰生は思う。


「全然いいし……ほんで? 何か用事あるんかな?」


 泰生は他意無く訊いたのだったが、岡本は目を見開き、一瞬ぽかんとした。


「長谷川って、用事が無かったら誘ったらあかん奴なんか……」


 岡本の言葉に、泰生もぽかんとしてしまった。ほとんど初対面の人間から一緒に食事をしようと言われたら、時間を作って話したい何かがあると思うのが普通ではないのか。


「いや、そうやないけど……わざわざ誘ってきたら何か用事かなと思うやん」

「別に用事は無いねんけど」

「……あ、そうなん? ということは、単に交流を深めるひとときなん?」


 ちょっと面倒くさいと思いつつ泰生が言うと、岡本は笑顔になり、そうそう、と答えた。


「だって俺ら文学部生って、春からこっちのキャンパスに来て、皆アウェーやん? 仲間欲しいやん?」


 岡本の言葉に共感はするが、泰生はそこまで仲間が欲しいとは思っていなかった。同じゼミの子たちとも特に親しくしておらず、部活を辞めてしまった今は通学時も独りだが、不便とも寂しいとも感じていない。


 その時、右耳の傍でぷうん、と嫌な音がした。泰生は首を右に振り向け、後頭部の辺りから黒い小さなものがふわっと飛んだのを確認した。


「蚊がおるわ、そっち行ったで……あっ」


 泰生が岡本のほうを向くと、蚊はサンドウィッチを持つ岡本の手の甲に止まろうとしていた。反射的に泰生は腕を伸ばし、岡本の右手を叩く。ぺちっと軽い音がしたのと、ひえっと岡本が叫んだのがほぼ同時だった。


「怖いって!」

「ごめん、思いきりしばいた」


 岡本は辛うじてサンドウィッチを取り落とさず堪えていた。泰生の攻撃を逃れた細い足を持つ虫は、今度はこちらに向かって飛んでくる。泰生は蚊を視界から外さないよう、その姿に集中した。


「ちょ、真剣過ぎひんか」


 岡本が言い終わらないうちに、泰生は飛来してきたものを両手で思いきり挟んだ。ぱん! と高い音が鳴り、教室の中にいた他の学生が一斉にこちらを見た。

 泰生が合わせた手を開くと、蚊は右手の手根部でぺったんこになっていた。誰の血も吸っていない。よっしゃ、と満足感から思わず呟くと、岡本がぷっと笑った。


「集中力と反応すごいな、何かスポーツしてたん?」


 泰生は購買部でもらった紙ナプキンで、蚊の死骸を拭き取った。こんなことで持ち上げられると、照れくさいというか、ほとんど居たたまれない。


「ううん、俺は運動音痴……最近まで楽器やってたけど」

「楽器?」


 岡本はサンドウィッチを頬張りながら、明らかに興味を示してきた。うっかり口にしてしまったものの、楽器の話はあまりしたくないので、泰生はうどんを啜ってごまかそうとした。自分が麺をずるずる言わせる音だけがして、微妙に気まずい。


「……何?」

「え? 何やってたんかなぁと思ってる……」


 岡本の探るような視線に、まあ当たり前か、とも思う。楽器に触っている人間の割合なんて、この大学の中で、いや、日本社会全体を見てもそんなに多くはない。音楽に興味が無くても、楽器をやっていると相手が口にすれば、何をやっているんですかと社交辞令的に問うだろう。


「あー、吹部でコントラバス弾いてた」


 泰生がそう答えて、空になったプラスチックの容器を机に置いた時、岡本がにたりと笑ったような気がした。ちらっと目だけで彼を窺うと、ペットボトルの紅茶をぐびぐび飲んで、何となくニヤついている。

 キモいなと泰生が思った時、岡本は口を開いた。


「キャンパス変わったから吹部辞めたっちゅうこと?」

「……そうや、移動すんのしんどかったし」


 泰生が警戒しつつ言うと、ははーん、と岡本はよくわからない声を上げてから、晴れやかな笑顔になって泰生を見た。


「あのな、俺チェロ弾きなんやけど」

「は?」

「オケで弾かへん? 練習すぐそこでやってんで」


 岡本の言葉に泰生は固まった。その時感じたものは、絶望に近かった。

 楽器やってる人間、近いとこにおった。しかも俺と同じく、デカい弦楽器。……これ、詰むやつか。


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