その翌日、予想に反して岡本は一度もRHINEを寄越さなかった。彼とは連絡を取り合わないと、大学で顔を合わせることは無いだろうから、泰生も自分からアクションしなかった。にもかかわらず、何となくそわそわしてしまったのだったが。
さらにその翌日の朝。スマートフォンの画面に岡本からのメッセージが現れ、ネットニュースを半分寝ながら眺めていた泰生は、満員電車の中で強制的に覚醒させられた。
『一昨日はありがと。突然ですが、長谷川と話したいって人がいます。女性です』
何やねん、それ。
女だと言えば釣られると思っているのか。というか、何が目的なのかわからなくて怖い。続けてメッセージがやってきた。
『その人は4限に授業があるらしいので、長谷川が今日4限までいるなら、学生会館の入口に来てあげてほしいです』
残念ながら、今日4限目に必修の授業があった。嘘をついて面会をお断りする手もあったが、その女性に悪いような気がするし、岡本に嘘がばれると後々気まずい。
一昨日泰生は小一時間ほど岡本と雑談をして、彼と仲良くしてみたい気になった。管弦楽団への入部が友達づきあいの条件だともし岡本が言うなら、それはそれで構わなかった。今ならまだ、傷は大きくないだろうから。
4限が終わると泰生は文学部棟を出て、帰宅する学生の波とは別の方向に逸れた。じりじりと暑い中、奥の建物に向かう。
他の校舎と同じくレンガ色の壁を持つ学生会館は、主に文化系のクラブが利用している。クラブボックスと大小の音楽練習場、幾つかの多目的室を、建物内に備えていた。
この大学の正規の音楽系クラブは、現在吹奏楽部と管弦楽団、そして軽音楽部が元気に活動中だ。吹奏楽部のみ下京キャンパスで練習しており、伏見キャンパスで授業を受ける吹奏楽部員は、4限の授業が終わるとスクールバスを使い、下京キャンパスに向かわなくてはならない。
管弦楽団は伏見キャンパスに練習場を持つので、6月までの泰生とは逆に、下京キャンパスから伏見にやってくる部員もいるだろう。そう考えた時、岡本がまさしくそれで、2年間練習日はこちらに移動していたのでは、と泰生は思い至る。すると、キャンパス間移動を理由に吹奏楽部を辞めたと彼に話した自分が、微妙に恥ずかしくなった。
「うおーい、こっちこっち」
岡本は約束通り、学生会館の入口のガラス扉の前に立っていた。彼の横には、彼より頭一つ小さい、黒いスーツ姿の女性が立っている。彼女が就職活動の帰りだと泰生は察した。つまり、4回生だ。
スーツの女子学生は、驚いたことに泰生を知っていた。
「長谷川くん、久しぶり」
驚いてよく見ると、吹奏楽部でクラリネットを吹いていた、
「戸山さん……ご無沙汰してます」
戸山も文学部生で、昨年春、キャンパス移動をきっかけに吹奏楽部を退部していた。クラリネットは高音楽器、コントラバスは低音楽器ということもあり、普段の部活中にほとんど接触が無かったので、彼女が退部すると聞いても、別段惜別の思いも湧かなかった。
だから戸山が本当に懐かしそうに自分を見つめるのを見て、泰生は申し訳なくなる。そんな自分を岡本が観察していることには、泰生は気づいていなかった。
「私、こっちのキャンパス来てすぐに管弦楽団入ってん」
戸山は笑顔で言った。全く知らなかった。マジか、と言いそうになるのを、泰生は辛うじて堪える。ここでは暑いし蚊に刺されるので、建物の中に入った。そのまま廊下の奥の、フリースペースに連れて行かれる。
泰生と戸山が椅子に落ち着くと、岡本が部屋の隅にある自動販売機に小走りで向かった。この2人が部活に行かなくてもいいのか、泰生は少し気になったが、戸山は黒く四角い鞄を開けて、小さな紙袋を出す。
「梅田で買ってん、これ美味しいで」
戸山が紙袋から出した箱には、色とりどりのグミが恭しく並んで入っていた。鉱石の標本のようで、美しい。紅茶を3本買ってきた岡本が、しまったぁ、と口走る。
「琥珀糖ですよね? お茶にしたらよかった」
グミではないらしい。泰生は琥珀糖という名の菓子を知らなかった。戸山が箱を泰生に差し出す。
「味はたぶん、色から想像できると思う」
「……いただきます」
目についたピンク色のものをそっと摘む。口に入れると、想像したよりも硬かった。すると突然じゅわっと崩れて甘さが広がり、微かに桃の風味がした。グミでもゼリーでもない不思議な食感と、しつこくない上品な甘味の意外性に、泰生は驚いた。
「美味しいですね」
「やろ? 最近ちょっとこれにハマってて」
そう応じる戸山の横で、岡本も遠慮なく、赤い色の琥珀糖を取る。お菓子で籠絡する作戦かと密かに泰生は警戒したが、当たらずも遠からずのようだった。
「オケでコントラバス弾いたら? 楽器あるで」
「……もう3回の夏ですし、あんまりできひんことないですか」
予想していた問いかけに、用意していた回答を返す。戸山もあっさりと切り返してきた。
「まあそれは、取得単位数と就活の捗り具合によるな」
「俺そんなに自信無いですよ」
「……吹部辞めるって言うた時、井上くんとかに止められへんかったん?」
いきなり出てきた旭陽の名前に、泰生は軽く動揺した。
「止められました、何かそれが逆に……しんどかったんです、だからもう部活はせんとこかなって」
口にしてみると、それもまた事実だったように思えた。人間関係は泰生にとって、いつだって少し面倒くさい。
戸山は、そうやなぁ、と泰生に理解を示す口調になったが、ぱっと翻った。
「あ、でも管弦楽団は、吹奏楽部とそこはちょっと違うかも」
「……え?」
「結構あっさりしてる……そんなことない?」
戸山は言葉の最後を、横に座る岡本に向けた。ペットボトルの紅茶の蓋を開けた岡本は、ちらっと泰生を見る。
「どうですかね、俺は比較の対象を知らんので……まあでもくどいとかしつこいとか、練習以外では無いかもですね」
「練習はしつこいよな、それ以外は琥珀糖っぽい、あっさりしてるけど美味しい」
戸山は言って笑った。その表情を見て、この人はオケのほうが楽しいのだと泰生は知る。吹奏楽部時代の彼女を知らな過ぎて、それこそ比較の対象が無いも同然だけれど。