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第6話 呼吸を合わせて出る音は

「暑っ、こんな時間に外歩くとか狂気じみてへんか?」


 友樹は駅から目的地に向かって歩き始めるなり、言った。泰生はしゃあないやん、と兄を宥める。


「土曜日にサマーコンサートするんやったら、まあ大抵昼間や」


 元先輩のクラリネッティスト・戸山百花は、甘い菓子の他に演奏会のチケットを2枚、泰生にくれた。企業セミナーが入ってしまい、行けなくなったという。岡本もチケットを持っていたが、喫茶店のアルバイトがあるので後半からしか行けないらしかった。

 京都府の南西の隅に位置するこの市には、国宝に指定された有名な神社がある。神社のふもとの駅から徒歩10分のホールが、今日のコンサートの会場だ。使用料があまり高くなく、結構音がいいので、学生の音楽団体に人気のホールである。

 泰生はここを訪れるのは初めてではなかった。他の大学の吹奏楽部の演奏会に、今まで2回来たことがある。他大学の同業者と何かと交流があるのは、吹奏楽部も管弦楽団も同じらしく、泰生が譲ってもらったチケットは招待券だった。友樹の母校の管弦楽団なので誘ってみると、彼女と別れて暇なのと、学生時代のゼミの友達に団員がいたとかで、ちょっとその気になったらしい。

 道なりに進み緩いカーブを曲がると、ホールの建物が見え隠れしてきた。この道を歩く人は、ほぼ皆がホールを目指しているので、迷うことは無い。


「クラシックガチで聴くのって何年振りやろ、寝たらごめん」


 友樹は言ったが、泰生も管弦楽を生で聴くのは、高校の音楽鑑賞以来だ。当然その時は、途中で記憶が無くなった。


「俺もぶっちゃけ寝えへん自信無いわ、吹奏楽でも寝るからな」

「おまえ何で音楽してんねん?」


 友樹の突っ込みに、さあ、と答えるしかない泰生である。要するに、知らない曲は眠いのだ。

 建物の中に入るとさっと涼しくなり、汗がゆっくりと引いてほっとした。パンフレットを受け取り、ホールの扉を押すと、上手かみて寄りの真ん中より少し前に向かう。自由席なので、好みに合う席を確保することが大切だ。

 サマーコンサートなので、プログラムにはアニソンなども含まれていた。後半は、クラシックの有名どころを集めたとパンフレットに説明してあるが、曲目を見てぴんときたのは、ベートーヴェンの「運命」の第1楽章だけだった。

 客席はそこそこ埋まり、もしかしたら兄の同級生も観に来ているかもしれなかったが、探す気は無いようなので、軽く雑談をしながら開演を待った。やがて予ベルが鳴ると、慌てて客席に入って来る人を待たずに、オーケストラのメンバーが舞台に出て来始めた。こういう流れも吹奏楽と変わらないが、チューニングが始まると出てくる弦楽器の音が優雅なので、泰生はふうん、と思う。

 当然だが、吹奏楽と管弦楽では楽器の編成が違う。泰生はコントラバスがよく見える席を選んだのだったが、自分の大学の吹奏楽部では2本だけなのに、舞台の上には4本も並んでいた。管楽器は、2本ずつだ。例えばクラリネットは、吹奏楽では下手しもてにたくさん並ぶが、管弦楽では真ん中に2人だけ座っている。

 だから管弦楽団が楽しいのか。泰生は戸山百花の気持ちを察した。クラリネットは、この編成ではソロ楽器だ。大勢に埋もれ、存在感を発揮できないパートではない。

 客席が暗くなり、舞台の照明が強くなった。指揮者がきびきびと登場し、直ぐに指揮棒を構える。最初の音が出る時、舞台の全員が呼吸を合わせたことに泰生は気づいた。

 えっ、と思う。弦も息を吸うのか。吹奏楽では当然、皆楽器を「吹く」のだから、一斉に息を吸う音がする。その中で唯一の弦楽器を担当していた泰生は、音楽の最初の音がある時、ちょっとタイミングがわかりにくいような、乗りにくいような感じがずっとあった。

 そうか、と思った。もっと管楽器の連中と一緒に呼吸しなくてはいけなかったのだ。だから2年半の間ずっと、合奏に入りこめない感じが拭えなかった。 

 舞台から、低音の弦楽器の音がびんびん響いてくる。吹奏楽では、コントラバスはチューバやバリトンサックス、あるいは旭陽が吹いているユーフォニウムと同じ音域を担当することが多いが、この管楽器たちは音が大きいので、フォルテッシモになると泰生は自分の音を見失うことがあった。しかし今、舞台上のコントラバスは、チェロと一緒に音楽を支え、メロディが来れば長い呼吸で思いきり歌う。だから4本必要だし、4本以上の音が鳴っているように思えた。

 有名なアニソンや流行りの歌謡曲を演奏しても、何となく優雅に聴こえてしまうのもどうかと思ったが、元々がオーケストラの曲はやはり聴きごたえがあった。後半はクラシック初心者向けのような解説が少しずつ入り、泰生も友樹も居眠らなくて済んだ。ベートーヴェンの「運命」の出だしは指揮も難しいのだそうで、弦楽器群はやはりここでも、呼吸を合わせて最初の有名な4つの音を鳴らした。

 約2時間のコンサートが終わると、思ったより楽しかったらしい友樹は上機嫌だった。泰生も管弦楽でのコントラバスの役目がよくわかったような気がして、満足だった。

 バスが来たら駅まで乗ろうかと話したものの、混みそうなので歩いて帰った。日差しはまだまだ強くて、またすっかり汗ばんでしまった。


「ちょっと早いけどメシ食って帰ろか、この駅周辺は何も無いし戻ってから」


 友樹は夏のボーナスを受け取ったばかりだった。父と母は今日、友樹の奢りで箕面の日帰り温泉に行っている。夕飯も食べて帰ってくるだろうと見越してのことだった。

 泰生はちょっと欲を出す。


「え、奢ってくれんの?」

「奢るで、おもろいもんに連れてってくれたからな」


 改札にICカードをかざすと、ちょうど電車がホームに滑りこんできた。泰生は兄とぱたぱた階段を昇り、一番近くで開いたドアに駆けこんだ。


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