試験前週間に入り、各々の授業が前期の最終日を迎えると、小テストやレポートの提出だけで終わることもままある。3限目が30分も早く終わった泰生は、あの商店街を抜けて少し歩いたところにある、幕末の志士ゆかりの史跡を見に行ってみようと思い立った。
「わ、何か天気やばそう」
「早よ帰ろ」
「えー、みんな4限無いの?」
教室の窓から外を見た女子学生たちが、空を見てざわめいている。確かに3限が始まる前は、梅雨半ばと思えないようなかんかん照りだったのに、黒い雲が空をどんどん覆い始めていた。
伏見キャンパスは、ほぼ駅前と言っていい。多少の雨なら駅まででずぶ濡れになることはあまり無いが、一応折りたたみ傘を鞄の中の一番上に移動させて、泰生は教室を後にした。
迷ったが、大阪に向かう特急に乗り換えずにそのまま準急に乗った。すると、商店街の入り口にある踏切を、のんびりと電車が横切ろうとした途端、大粒の雨がぱつん、と窓を叩いた。あっという間に降り始めて、電車の中がざわめくレベルに強くなる。
泰生は電車から降りたものの、ホームに雨が吹き降ってきて、一緒に降りた人々と、ホームの最後尾にある階段に慌てて駆け込む。真っ黒な空が、低く脅すような音を立てると、母親に手を繋がれた小さな女の子が、わあっと恐怖を湛えた声で叫んだ。
特急に乗り換えて帰るべきだったと、泰生は軽く悔やんだ。この辺りと泰生の自宅周辺では、天気が全く違うこともよくあるからだ。
でも、せっかく降りたしなぁ。気を取り直して、泰生は階段の下に見える改札を出た。左手の出口は商店街の中に直結しているので、濡れることはない。果たして階段を昇ると、商店街から先の登り坂のほうに向かいたい人々が、雨が緩むのを待っていた。
しかし雷雨はそんな人たちを嘲笑うように荒れ狂い、強い風で雨が商店街の入り口を脅かしたと思うと、ぱあっと空が光った。ほぼ間を置かず、ばん! と何かを引っ叩くような音が泰生の耳をつんざき、地響きを立て高い雷鳴が轟いた。きゃあっと誰かが悲鳴を上げ、泰生も密かに身体を縮めた。近くに落ちたのだろう。
観光を諦めた泰生は、仕方なく商店街を下って行った。アーケードに雨が打ちつける音が響く。辺りは薄暗く、道行く人たちも、あーあ、止むまでどっかで待とか、などと諦め混じりで話していた。
泰生は喫茶「
雷雨になるのを察して帰途に着いた人も多いのか、喫茶タイムだというのに店は空いていた。店長がやはりデニムのエプロン姿で、いらっしゃい、と迎えてくれた。
「ああ、文哉の友達の」
「こんにちは、めちゃ雷と雨ですね」
岡本の友人と認識されるのはまだ微妙だが、店長が顔を覚えていてくれたので、泰生もつい気安くなった。
今は店長が1人で切り盛りしているらしい。カウンターに座り、店内を見回した泰生に気づき、店長は笑顔で言う。
「夏って感じやなぁ……今日は5時に文哉が来るまで俺だけやねんけど、こんな天気やし楽勝や」
「そうなんですね」
この店には窓が無く、表の出入りが無ければ、雨の音も雷の音もほとんど聴こえないようだ。静かに流れるジャズに、泰生はほっとした。
「管弦楽団に入りはるんか?」
アイスコーヒーを出しながら、店長は泰生に訊いた。思わず、えっ、と声が出てしまう。
「あ、いや……迷い中です」
元吹奏楽部員で、コントラバスを弾いていたことも、きっと岡本から伝わっているに違いなかった。
「もう3回生の夏じゃないですか、あんまり活動も出来ひんし」
戸山に答えたのと同じことを、店長に言う。しかし戸山にそう話した時と今では、微妙に自分の気持ちが変化している自覚があった。オーケストラでコントラバスを弾くのは、きっと魅力的だ。
しかし、どうも旭陽を始めとする吹奏楽部の面々に対し、気が引ける。積極的に伝えなくても、何処からか誰かの耳に入るに違いない。
泰生は店内に誰もいないのをいいことに、正直に店長にそう話してみた。そうしてみたくなるような、不思議な包容力を漂わせる店長は、ふんふんと頷く。
「もしかしたら前のお仲間は、多少気ぃ悪いかもなぁ……でも通勤の都合もありはるんやろ?」
「はい、伏見キャンパスで同じ時間練習しても、帰るのはかなり楽です」
「音楽なんて無理してやるもんちゃうで、文哉もここのバイト減らすの演奏会の直前だけや、のんびりチェロ弾いてるわ」
店長の声を聞きながら、アイスコーヒーをストローで吸うと、やはり今日も美味だった。少しガムシロップを減らしてみたが、全然いける。
「……コーヒー美味しいですねぇ」
泰生の言葉に、店長はにかっと笑う。
「涼しなったらホットも飲んでや」
「はい、是非」
店長は泰生がコーヒーを飲むのを見ながら、今度は違う種類の笑顔になった。
「長谷川くんは真面目なんかな、たまにはいろいろ考える前に動くのも悪うないで」
そうなんかな、と思う。この間この店に入ったのは、行き当たりばったりだった。ああでも、確かに悪くなかったかもしれない。
泰生は確認しておきたくなり、店長に訊く。
「あの、寺田屋ってここからそんなにかかりませんよね?」
店長はああ、と目を見開いたが、直ぐに微苦笑した。
「でも今日休みかもしれへん、寺田屋さん月曜不定休やねん」
これは調査不足だった。泰生は自分の迂闊さにがっかりした。
「あ、ありがとうございます、そうですか……」
「クラブ無い日に文哉に連れてってもらい、あいつあの辺に住んでるし」
なるほど。しかしあまり岡本にこちらからアクションすると、管弦楽団に引きずり込まれてしまうので、微妙なところだ。
今日は観光は諦めることにした。雷雨が通り過ぎるまで、この店で過ごして帰ろうと考える。岡本が来るまでには、止んでくれるだろう。