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第9話 松脂ぱちぱち

『今日4限目俺につき合わん?』


 昼休み。岡本から来たそんなRHINEに、泰生が警戒しなかったと言えば嘘になる。


『何すんの?』

『音練場に招待する♡』


 岡本は、先週泰生に戸山を引き合わせた時みたいに回りくどい書き方をしなかった。ストレートに用件を言われても、困ることには変わりなかったのだが。

 弁当を食べていた箸を止めて、泰生は返答にやや悩む。


『音練場には用事無いけど』

『冷たい言い方(涙)。週末のコンサート面白かったって言うてたし、そろそろ楽器弾きたいかなと思って。。。』


 余計なお世話、と咄嗟に入力しかけたが、指を止めた。

 吹奏楽や演奏すること自体を、特別好きだったとは思わない。とはいえ、大学生になり吹奏楽部に入部して以来、長期休暇や試験中以外は最低週3日、楽器に触り続けてきた泰生である。

 だからかどうかわからないが、岡本の言葉に、何故か気持ちがゆらゆら揺れた。戸山は先週、コントラバスが余っていると話した。練習場で眠っている楽器を、弾かせてくれるというのだろうか。




 良い言い訳も思いつかず、誘惑に抗えなかった形で、泰生は3限が終わると学生会館に足を向けてしまった。先週も待ち合わせた入り口のガラス扉の前に、泰生に道を踏み外させようとする男が立っている。

 もちろん泰生は、管弦楽団に入部するなどとはひと言も口にしていない。部外者が音楽練習場に入るのは基本的に良くないだろうに、岡本はあっけらかんと、顔の前に「音楽練習場(大)」というキーホルダーのついた鍵をぶら下げてみせた。


「俺5時からバイトやし、ほんまに4限の1時間半だけな」


 部活は昨日からテスト休みに入っているらしく、勉学に支障が無い範囲での自主練習が認められているという。授業中の90分だけ練習場を使うという辺り、岡本も部外者を入れるところを、他の部員に見せたくないに違いなかった。

 目線の少し高い位置にある岡本の後頭部に向かって、泰生は言った。


「別に楽器弾きたくて来たんちゃうで、どんなとこで練習してるんか興味あるだけやし」


 チェリストは肩越しに振り返る。


「うん、別にそれでも構わへん」


 練習場は1階の角を曲がった先にある。岡本は鍵を開け、重そうな扉を開いた。下京キャンパスの音楽練習場もそうだが、二重の防音扉になっていて、下駄箱の奥にもうひとつ扉がある。

 泰生は岡本に倣って、靴を脱ぎ靴下のまま中に入った。広々として窓の無い、一瞬聴覚を奪われたかと錯覚する空間。


「ふうん、下京で吹部が使うてる練習場よりちょっと広いな」


 泰生が言うと、そうらしいな、と岡本は応じた。


「でもあっちのほうが新しいし、ええこともありそうやけど」


 岡本は練習場の右奥に向かい、もう1本の鍵で引き戸を開けた。楽器庫である。こまこまと大小の弦楽器のケースが並んでいた。


「狭いやろ? 管楽器は外に出て隣の小部屋に置いてんねん、夏は湿度がやばいからクラリネットとオーボエはこっちに引っ越して来るんや」


 岡本が指差した楽器庫の隅に、四角いケースが遠慮がちに幾つか並んでいた。

 岡本はヴァイオリンやヴィオラのケースの間を縫って、自分の楽器を目指した。ついて来いと言わんばかりに目配せしてくるので、泰生は恐る恐る足を踏み入れる。

 自分のチェロを抱えながら、岡本は眉を上げて見せた。


「それ、一番隅っこのコントラバスが今誰も触ってへんねん、弾いてみそ」


 そう言われることを覚悟していた泰生だが、簡単に首を縦に振るわけにはいかない。


「いや、部員でない人間に簡単に言うな」

「だからお試しやん、楽器の扱い方知ってるんやし初心者の1回生よりはずっと信用してる」


 泰生ははっきり言った。


「触ったら入部せなあかんやろ?」

「は? そんなこと俺言うた?」


 すっとぼける岡本が、ちょっと憎たらしい。泰生はむっとして、ソフトケースに入った大きな楽器に近づいた。ネックをそっと持ち上げ、ボディを立てると、既にその存在感が懐かしかった。

 他の楽器に当たらないよう慎重に運び、楽器庫の外に出ると、岡本はとっとと自分の楽器をケースから出して、弾く準備をしていた。泰生の口調がつい尖る。


「俺、松脂もクロスも何も持ってないんですけど!」

「ヤニも布も貸しますやん」


 へらっと言う岡本に、泰生は呆れた。


「チェロの松脂使ってええんか」

「好ましくはないけど、大丈夫……ちょっと硬いんかな」


 もう、1音でも出さないと帰してもらえそうにない。泰生は諦めて弓と楽器をカバーから出した。しばらく弾かれていない割には、弓がぴんと張り、状態は悪くなかった。

 楽器を立てて抱えながら、岡本から手渡された松脂を、弓に3往復擦りつける。初めての楽器なので、全ての行動に緊張した。

 岡本は椅子に座り、楽器を脚の間に立てて、マイペースに音出しを始めた。まろい豊かな音が室内を満たし、チェロってええ音やなぁと素直に思う。

 じっと観察されるよりはましなので、泰生はどさくさに紛れて自分も弓を弦に当てた。それをすっと引くと、思ったより深い音が出たので驚く。

 この楽器、もしかして上等なんか? 泰生はびびってしまう。まぐれかと思い、解放弦で全ての音を順番に鳴らしてみたが、やはり良い音である。

 岡本は泰生に話しかけもせず、アルペジオの練習を始めた。正確なボーイングで明るい音が繰り出され、弦と弓の間で松脂が擦れる音が微かにした。

 軽いぱちぱちだ。泰生は思う。松脂を塗った弓と弦の間で音が生まれる瞬間に、いつもぱちぱちと何かが弾ける感じがする。松脂が立てる音なのかもしれないし、弦と弓の間で起こる物理的な抵抗に、そんな印象を持っているのかもしれない。

 チェロのぱちぱちは、やっぱりコントラバスより軽い。その発見に気を良くした泰生は、自分もぱちぱちを沢山生み出すべく、アルペジオを弾いてみる。いつもより強い抵抗感に、松脂をつけ過ぎたかもしれないと感じたが、やはり音は前弾いていた楽器よりも深い。

 気持ちいいな。泰生が弓を動かすのに集中し始めたその時、練習場の扉が開いたのが見えた。泰生はどきっとする。

 岡本も驚いたとみえ、音が同時に止まった。2人が視線をやったその先には、ひょろっと背が高い男子が立っていた。

 あっ、と岡本が呟いたのが聞こえた。入り口に立つ男子は、その場から泰生をじっと見つめて、あ然としたまま、ぱちぱちと手を叩いた。

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