詰んだ、と泰生は昨日の音楽練習場での出来事を思い返しては悔やんでいた。
初めて弾かせてもらった楽器につい夢中になりかけていると、管弦楽団の2回生が現れた。彼は
岡本もさすがに軽く焦った様子で、泰生を体験入部者だと紹介した。小林が岡本に敬語を使うので後輩だとすぐに察した泰生は、岡本の顔をこの場で潰すのは良くないと思って、肯定しなかったが否定もしなかった。愚かな態度を取ったと今は思う。
小林は経営学部に所属していると泰生に自己紹介した。
「今パートリーダーのミムラさんが就活で部活に来はらへんので、初心者の1回生と僕の2人で寂しく練習してるんです……そやし、今からでも入ってきてくれはったら、めちゃ嬉しいですぅ」
刈り上げた髪にくりくりした目の小林は、そう言って泰生に抱きつかんばかりで、岡本まで苦笑していた。
三村という4回生は、自分が抜けた後に、コントラバスパートに最上級生がいなくなることをやや憂いていると、岡本は帰り道にさりげなく説明してくる。長谷川が来てくれたらみんな嬉しいんやけどなぁ、と、泰生との別れ際に優しい捨て台詞を吐いていた。
「ではみんなレポートちゃんと出してくれたから、今日はこれで終わります」
ゼミの担当教官の声に、泰生は我に返る。2限の終了予定の20分前で、ゼミ生たちは夏休みの宿題を与えられてうんざりする気持ちと、前期の授業がこれで終わるという嬉しさの双方を抱えている様子である。
おつかれ、と間延びした挨拶が交わされ、学生たちが教室を出ていく。泰生も鞄を肩にかけたが、担当教官の
「長谷川、ちょい待ち」
「えっ」
泰生は初老の教授を振り返る。彼は泰生の提出したレポートの紙束を、顔の横に掲げていた。
「学籍番号入ってへんで」
泰生は咄嗟に、すみません、と言った。この授業はレポートのデータだけでなく、プリントアウトしたものの提出も求められるので、昨夜ざっと目を通した。なのにまさか表紙からそんなミスをするとは。
塚﨑は笑いながら、手書きしておくように泰生に求めた。
「今日は何かずっと気が散ってるみたいやな、何かあったんか?」
そんな風に言われて、恥ずかしくなった。昨日の音楽練習場での一連の出来事は、確かに泰生の気持ちの平穏を乱していた。
泰生はボールペンを取り出して、レポートの表紙に印刷された自分の名前の上に、学籍番号を書き込む。
ベテランの塚﨑教授は、他人の書いたものやネットのサイトの丸写しをしてレポートを作成したり、出席率や小テストの点数が基準に満たないことに対してつまらない言い訳をしたりすると、即除籍すると評判の人だが、普通に授業を受けていれば、明るくて親切な良い先生だ。泰生はゼミ生として3か月過ごし、割に塚﨑に対して気安くなっていた。
「すみません、とあるクラブから熱心な勧誘を受けてて、ここんとこ微妙な感じで」
そう話すと、塚﨑は微笑した。
「伏見に来てから前のクラブ辞めたんやったかな? あと1年半もあるんやし、よっぽど嫌ちゃうかったら、やっとけ」
塚﨑が部活推進派とは思わなかったので、泰生は驚いた。「あと1年半ある」などという考え方をしたことが無かった。
「……でも、就活も始まるし……」
「部活してますって面接で言えたほうが多少有利なんは、昔も今も変わらんで」
前向きに考えると、確かにそれはある。塚﨑は、諭しモードになった。
「自分が何を勉強してんのか思い出しなさい……人類の長い歴史の中で1人の人間の一生なんか一瞬やから、迷ったことは何でもやってみるくらいでちょうどええはずです」
泰生はそれを聞き、はあ、と思わず答えた。塚﨑は続ける。
「授業の90分でそれはちょっとあかんけど、人生は気を散らすくらいでよろしい」
人生の先輩に言われると、そうかなぁと思ってしまう。
「でも、人間関係ちょっと面倒くさくて……誰かと拗れたらうっとうしいでしょ?」
泰生は一応抵抗してみる。これにも塚﨑は、微笑で返した。
「それも勉強、誰とどう拗れたんか知らんけど、10年後に振り返ったらたぶん大したことちゃうようになってるわ」
「そうですかねぇ」
「そうや、スルーするなり話し合いして解決するなりしていって、対人スキルを高めんの……と言いつつあれやけど、部活って人間関係だけちゃうやろ? やってみたいことがあるんやったら、それだけで人生儲けもんや」
塚﨑の言葉には、なかなか説得力があるように思えた。気づくと教室の中には2人の他には誰もおらず、塚﨑の昼休みを削ぐのも申し訳ないので、泰生は彼に礼を言った。
「ありがとうございました、失礼します」
「おう、楽しい夏休みを送りなさい」
小学生のような激励を受ける。家族で琵琶湖に泳ぎに行くことも決まっているし、小学校時代回帰ムーブメントかもしれなかった。
泰生はふと気になって、教室を出る前に塚﨑を振り返った。
「先生は学生時代、何か部活してはったんですか?」
回収したレポートを机の上でとんとんと揃えながら、塚﨑はにっと笑った。
「よう訊いてくれた、俺は高校と大学の7年間、マンドリン弾いとった」
泰生は思わず、へぇ、と声を裏返した。繊細でちょっぴり哀しみを帯びた音がする、8本の弦をトレモロで鳴らす楽器だ。古い曲や民族音楽が似合う。
「渋いっすね」
「やろ? 通じてよかった、現役時代それではモテんかったけどな」
得意そうな担当教官に、ちょっと似合わんけど、と言うのは辞めておいた。塚﨑にとっては気を散らしただけなのかもしれないが、それを聞いて渋いと思う自分のような学生がいるなら、いいことに違いない。
弦楽器は楽しい。泰生にとっても、それは紛れの無い事実だった。