何だかんだ言って、庶民的で大きな商店街が気に入っている泰生は、今日もふらりと学校帰りに途中下車してしまった。もしかしたらこの周辺でアルバイトを探せばいいのではないかと、思いついたのもあった。もちろん自宅の近所のショッピングモールにも、学生アルバイトを募集している店舗は沢山ある。しかし何せ生まれた時から暮らす地元なので、中学校や高校が一緒だった連中が買い物に来たら、ぶっちゃけ嫌だ。
岡本には、今日ここに来ていることは黙っている。彼と友達になりたい気持ちは十分あるし、この周辺を案内してほしい気持ちもちょっとあるのだが、急激に近づくのは怖い。
ユーフォニウムパートの井上旭陽は、吹奏楽部の同期12名の中で、泰生と一番仲が良かった。お互い大学生になってから楽器を始めた「初心者」で、低音パートだったことが大きかったと思う。人数が少ないマイナーパートに属している上に、自分から積極的に他人との距離を詰めるのが得意でない泰生にとっては、明るく声をかけてくれる旭陽は有り難い存在だった。
旭陽の自分に対する態度に微かな違和感を覚え始めたのは、2回生の冬くらいだっただろうか。とにかく何やら距離が近いし、部活動が終わってから話をしたがる。彼は京都市西京区の自宅から通学しており、泰生とは帰る方向が全然違うので、やたらと名残惜しがるのだ。
3回生になり、文学部生の泰生は下京キャンパスから伏見キャンパスに、通学の拠点を移した。部活動のために移動距離が伸びて、泰生は疲れを溜めるようになったが、社会学部の旭陽は生活に変化は無いので、泰生が早く帰りたいと言うと寂しがる。当時は若干鬱陶しかったが、きっと旭陽は、物理的な距離のせいで、泰生と自分の間にすきま風が吹くのが怖かったのだろう。彼と顔を合わせなくなった今ならわかる。
「俺、長谷川のこと好きなんやけど」
新入生歓迎イベントが落ち着き、下京キャンパスの桜の花がすっかり散ってしまったある日、旭陽は音楽練習場を出たところで、切羽詰まった表情になってそう言った。
意味がわからずきょとんとした泰生に、旭陽は念を押すように続けた。
「好きって、そういう意味で……俺、男が好きな奴なんやわ」
その時泰生が感じたのは、純粋なショックだった。同性が好きな人など珍しくもなく、泰生が知る限り、文学部の同期にも数人、同性愛者であることをカミングアウトしている者がいた。
しかし大学生になって以来ずっと近しくしていた「友達」から、「恋人」になってほしいと乞われることが、こんなにショックだとは想像しなかった。旭陽がそういう目で自分をずっと見ていたのかと思うと、少し気持ち悪いとも感じた。泰生は混乱したが、とにかく自分の気持ちの偽らざるところを旭陽に伝えた。
「俺が井上を好きやと思う気持ちは、たぶんそれとは違うし、これからそういう風にはならん……と思う」
旭陽は泰生がそう答えるのを、予想していたようだった。
「そんなんわからんやろ」
「わかるわ、今彼女おらんからっていうて、男を好きにはならへん」
肩を落としてしょんぼりする旭陽が可哀想になったが、同情で受け入れるべきものではない。泰生は友人を、こうして「振った」のだった。
例えばもし、岡本文哉も同性愛者だったら。あるいは、管弦楽団に勧誘することだけが目的で、泰生に近づいているのだったら。そう考えると、泰生から積極的に距離を詰めるのは、あまり良くないかもしれないというストッパーが働く。
商店街を下り、喫茶「淡竹」に向かって進むと、途中の筋で左手から人が流れ込んでくることに気づいた。泰生が興味半分でそこを左折すると、突然スーパーマーケットが現れた。日本全国どこにでもあるチェーンスーパーだ。
特に用は無いが、泰生は1階の食料品売り場に入った。建物はだいぶ古そうだが、売り場は夕飯の食材の買い物なのか、老若男女で賑わっている。
牛乳やジュースが並ぶ飲料売り場に何げなく足を向けると、小さいパックの豆乳がずらりと並んでいるのが目に入った。兄の友樹がこの豆乳シリーズの愛飲者で、いろいろな味を試しているのだが、自宅の近所のショッピングモールに入るスーパーではこんなに取り扱っていない。
豆乳は、3本250円で販売されていた。40代くらいの男性が吟味しているところを見ると、種類が多過ぎて迷っているのだろう。友樹が飲みたいと言っていたものがあるか気になり、泰生は棚に近づいた。
男性が半袖の腕を伸ばした先に置かれていたのは、水色のパッケージの豆乳だった。チョコミント、と書いてある。それを見た泰生の胸が、軽くどきっと鳴った。味の想像もつかないこの奇妙な豆乳を、旭陽が生協で買って何度か飲んでいたことがある。美味しいんか、と訊くと、想像してたよりかなり美味しい、と彼は笑顔で答えた。
男性がこちらを見た。何やら人懐っこい雰囲気を持つ眼鏡の男性は、泰生のために場所を空けてくれた。
「あっ、すみません」
「これ割と美味しいですよね」
明るい声でいきなり話しかけられて驚いたが、無視するのも悪いので、えっと、と泰生は言葉を探した。
「僕は飲んだことないんです、友達が好きでよう飲んでて」
友達、という言葉に、泰生の胸の深いところが疼いた。男性は感じの良い微笑を浮かべたが、密かに心を痛めた泰生にはちょっと沁みる表情だった。
「基本チョコレートです、ミントが後でふわっと来ます」
「あ、そうなんですね……」
男性は買い物かごの中に食パンと牛乳とヨーグルトを入れていたが、そこにチョコミントの豆乳を3本と、砂糖不使用とパッケージに書かれたコーヒーの豆乳を3本入れた。砂糖不使用豆乳も初めて見たので、泰生が思わず棚に注目すると、男性が言った。
「砂糖入ってへんシリーズ、どれも美味しいですよ」
そうなんか。兄貴は甘いやつが好きやけど。
泰生は親切な男性に礼を言って、棚の角に積まれた買い物かごを取った。そして、友樹のためにプリンとバナナとマンゴー、自分のために砂糖不使用のコーヒーと紅茶をカゴに入れる。あと1本でまとめ値引きになるので、少し迷ったが、チョコミントを手に取った。