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第12話 思い出を整理する定規

 最大の難関だったゼミのレポートを無事に提出したので、ひと安心していた泰生だったが、本格的なテスト期間は週明けからである。今日明日の土日は自宅でおとなしくしておこうと思い、キッチンのテーブルで午前中から少し試験勉強をした。今日は家族が全員家におり、兄の友樹は部屋で何をしているのか知らないが、静かだ。

 友樹はこの2年間、家族と何か約束があるときを除いて、週末はほぼ家に居なかった。交際していた女性と出かけていたからである。その女性は友樹の大学の同級生で、学部も違えば部活が一緒だったわけでもなかった(兄の大学にもキャンパスが2つあり、彼女は奈良寄りの新しいキャンパスで4年間過ごした人だった)が、就職した会社での新入社員歓迎会で、「うちら同じ大学やん」となって盛り上がったという。ひと昔前のとあるアニメのエンディングではないが、泰生たち家族のほうが、「あんなに一緒だったのに……」と今思ってしまう程度には、仲良しだった。

 英語講読の勉強が一段落ついたところで、泰生は兄と自分の共用の部屋に向かった。あまりに友樹に存在感が無いので、ちょっと心配になったからだ。


「にいちゃん、入るで」


 泰生は閉められたドアの外から声をかけ、おう、という返事が中からしたのを確認してから、ドアノブに手をかけた。そのまま部屋の中に扉を押すと、友樹は机に座って何か一生懸命書いている。いや、描いていた。

 友樹はスケッチブックを広げて、定規を巧みに動かしながら、紙の上に鉛筆でたくさんの線を引いていた。それが、彼が学生時代の部活動で習得した技術であることはすぐにわかった。


「……何描いてるん?」


 泰生が訊くと、友樹は、これから描くからその準備や、と答えた。


「めっちゃ真面目に歴史的建造物を描いてみよと思い立った」


 友樹は30センチの透明の定規を、スケッチブックの横に置いた。4センチほどの幅がある定規の中にも方眼が書かれていて、本格的に見える。彼が右手に持つのはシャープペンシルではなくBの鉛筆で、なかなか画家っぽい。

 友樹は学生時代、展覧会で2回ほど何か賞をもらっていて、大学祭でも毎年作品を展示していたが、泰生や両親には観にんでええと頑なに言い続けた。拒まれた母は、軟式野球の試合は観に来てくれっていつも言うたのに、と苦笑気味だった。


「何で今、そんなん描く気になったん?」


 友樹のスマートフォンの画面が目に入った。大阪の中之島の、中央公会堂が写っていた。晴れた空にテラコッタ色の建造物が映えて、美しい写真だった。友樹は本町で働いているので、中之島周辺をよく知っているはずだが、どうして今更この建物なのだろうか。


「いや、いろいろ思い出もございまして……」


 友樹はスケッチブックから顔を上げないまま半ば呟き、再び定規を手にする。彼が引いている線は、おそらくパースのための下書きだろう。


「思い出?」

「そうや、この辺で結構デートしたし」


 泰生は、ああ、と言葉にならない声を洩らした。兄がどれくらいこの絵を仕上げるつもりかわからないが、Bの鉛筆で引かれたにもかかわらず、薄くて儚い線たちは、そのうち消しゴムで跡形も無く消されるのだろう。泰生には、スケッチブックに定規を当てて無心で線を引く兄が、交際していた女性との思い出を残す、あるいは消すための儀式をしているように思えた。


「昼メシ何かあるか、おかんに訊いてくるわ」


 心の中を整理する友樹の邪魔をしてはいけない気がして、泰生はそう伝えてそのまま部屋を出ようとした。すると友樹は言った。


「レンチンパスタとかピザでええで、何かそんなん冷凍庫にあった」

「おとんがハンバーガーがええって言いそうな気ぃするな」

「その場合はチーズバーガーよろしく」


 俺が買いに行くんかい、と泰生は胸の中で突っ込んだが、まあいいだろうと思った。そしてふと、自分が旭陽に、今の兄のような思いをさせている可能性に思い到った。泰生の心にちょっと薄暗い雲がかかり、梅雨明けが近い今日の空のようになった。


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