目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第13話 そは清かなる地

 その日は朝から、商店街で茶でも飲まないかと岡本から誘いがあった。彼はランチタイムの終わりまで「淡竹」でアルバイトがあるらしく、その後ずっとテスト勉強なんかできないからと言うのだが、泰生も自分と考え方が一緒だと思っているらしい。

 泰生は前日にかなりしっかり勉強をしたという自覚があったので、まあつき合ったろか、という気になった。兄の友樹も今日は、学生時代の男友達と遊びに行くと話していて、自分一人だけが家で母にいろいろ手伝わされるのも、ちょっと微妙だった。


「にいちゃんどこ行くねん、京都?」


 出かけ際の友樹に訊くと、彼は目を剥いた。


「まさか! もう鉾立ってるんやぞ、だれが京都なんか行くかい」

「あ、もう祇園祭か……」


 友樹は学生時代、トラウマレベルに祇園祭の混雑に巻き込まれたので、この時期の京都を忌避している。泰生の大学の下京キャンパスも最寄り駅がJR京都のため、祭りの期間中はごちゃごちゃしていた。伏見キャンパスには影響は無く、あの商店街の周辺にも、京都最大の祭りの余波は来ないだろうと泰生は考えた。

 兄は玄関に向かいながら、言った。


「京都の学校を出た俺らが梅田で集合するという、な」

「日曜の梅田も大概なんちゃう?」

「祇園祭の四条周辺よりましや、おまえどっか行くの?」

「伏見で友達と茶しよかな」


 友樹は泰生の顔を見て、ほう、と目を見開いた。団体音楽をしているくせに交友関係が少なめの弟が、休日にわざわざ時間を作ると言うのが珍しかったのだろう。


「女?」


 兄に訊かれて、泰生は口がへの字になったことを自覚した。


「男や、文学部の同級生」

「伏見キャンパス来て新しい友達できたんか、ええこっちゃ……」


 友樹は友樹で、3回生になって環境が変わった泰生をちょっと心配していたらしいとその時知る。泰生は特にお洒落もせずに出て行く兄を、何となく優しい気持ちで見送った。




 岡本は自分のバイト先ではなく、駅に近いドーナツショップを待ち合わせ場所に指定してきた。駅の改札を出て、商店街に繋がる出口を上がると、コンコンチキチンとお囃子の音がする。一応ここも京都なので、祇園祭らしい雰囲気を出しているということだろう。とは言え、アーケードの中が特別混雑している様子は無かった。

 子ども連れだらけの、少し甘い匂いのする店内で、岡本がこちらに向かって手を上げているのを見つけた。レジには列ができていたが、ドーナツを持ち帰る客のほうが多いようで、喫茶のテーブルには余裕がある。

 列の最後について、ドーナツを取るためのトレイとトングをケースから出した時、泰生は列の3人ほど前に、見たことのある人物の姿を認めた。一昨日(と思い出した泰生は、どうしてこの周辺にこんなしょっちゅう来ているのか自分でも不思議になる)、商店街の少し奥のスーパーで、チョコミントの豆乳を買っていた男性だ。

 今日は彼は、随分たくさんのドーナツを白いトレイに載せていた。家に来客でもあるのだろうか。泰生は1個ドーナツを取るべくショーケースの扉を開けた。


「あ、この間はどうも」


 そう声をかけられて、あっ、見つかってしもた、と思った。泰生が顔を左に向けると、眼鏡の男性が列の向こうから笑顔を向けていた。


「あ、こんにちは」


 泰生は今彼に気づいた振りをする。眼鏡の男性は、きょうもやはり親し気だった。


「あの後チョコミント、買わはったんですか」

「はい、半分兄に取られましたけど、美味しかったです」


 友樹も美味うまいと大喜びしていた。チョコミントの豆乳の味は悪くなかった。2人の男が間を開けて話すのを、家族連れとカップルがちょっと怪訝な目で見ているので、話を打ち切ろうとすると、そこに岡本がやって来た。


石田いしだ先生、こんにちは」


 泰生は驚いて、岡本の顔を見上げる。すると眼鏡の男性も、こんにちは、と普通に挨拶を返した。何で知り合いやねん、と泰生は言いそうになったが、逆に岡本に訊かれた。


「淡竹の常連さんなんやけど、何で知り合い?」

「えっ、そうなんか……こないだスーパーの豆乳売り場で遭遇した」

「豆乳?」


 列は進み、岡本がドーナツ追加と言うので、彼の選んだチョコレートのそれを取る。石田と呼ばれた男性は、先に会計を済ませ、2つの箱を両手に持っていた。


「夕方から子どもの集いなんですよ、岡本くんもまたお友達連れて来てください」


 まったりした口調で、石田は岡本と泰生の顔を順番に見ながら言う。お疲れさまです、と岡本はよく知る相手のように明るく応じた。

 アイスコーヒーだときっと淡竹ほど美味しくはないだろうから、アイスミルクティーを頼み、岡本の待つテーブルにトレイを運んだ。


「石田さん? 教会の牧師やで、この上のお宮さんの近くに教会あんねん」

「へぇ……」


 岡本の言う「お宮さん」は、おそらく京都市伏見区内では、千本鳥居のあるお稲荷さんの次点くらい有名だと思うが、その神社の近くにキリスト教の教会があるとは。さらにもう少し先に行くと、宮内庁が管轄する御陵も存在する。いろいろな宗教施設が集まる山の手というのは割にどこにでも存在するが、あの周辺もそういった聖域、さやかな土地なのだろう。

 岡本はアイスのカフェオレを飲んでいた。


「豆乳って何なん?」

「俺の兄貴が200ミリリットル入った豆乳のファンやねん、あのスーパーめっちゃ種類置いてて、兄貴に何か買って帰ったろと思ったら、売り場の前にあのひと……石田さん? がおって、チョコミントの豆乳を勧めてくれはったんやけど、兄貴に半分飲まれたわ」


 泰生の説明を黙って聞いていた岡本は、くすっと笑った。


「何か、今まで聞いた長谷川の言葉の中で一番情報量が多かった」


 馬鹿にされたわけでは無さそうだったが、そう言われるとちょっと返事に困った。あ、そう? とぼそっと応えておく。


「あの先生とこの教会、和風建築でおもろいねん……別に改宗せえとか言われへんから、寺田屋もいいけど教会も見に行ったって」


 清かな土地の清かな建物に居る人か。岡田の言葉に、石田と教会への興味が少し湧いた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?