今日は世間は祝日だが、大学は休みではない。月曜の祝日にいつも休講すると、全期の授業数が消化できないからだ。休講にしてしまう教員もいるし、講義があっても欠席する学生もいるのだが、基本的に真面目な泰生は開講する授業のために登校した。
2限目だけ授業を受け、食堂の隅で日替わりランチを食べながら、泰生は昨日のドーナツショップでの岡本との会話を思い出していた。岡本は和歌山県民で、大学生になって京都に出てきたと教えてくれた。和歌山市の人は大阪の南部の大学なら、頑張って通学することも多いらしいが、京都はさすがに無理だ。何故京都の大学でないと駄目なのかと家族に反対された。
「しかも日本の現代文学なんか、文学部がある大学やったらどこでも勉強できるしな……つっか、大阪の南が嫌やったんやって」
岡本の言葉は何となく、泰生にも理解できた。泰生も大阪府民なのだから、大阪の大学を受験すればよかったのだが、兄が京都だったこともあり、やはり京都の大学がいいと思った。
「俺は長谷川のお兄さんとこが、第一志望やったんやけど」
そう話すので、泰生は言ってやった。
「今出川は御所に来る観光客でなかなか大変みたいやで、兄貴ももう近寄らへん」
泰生も兄の大学への憧れはあったが、はなから偏差値が足りず、合格目指して必死に勉強時間を増やす気も無かった。高3の模試でA判定を確実に取ることができていた泰生の大学は、兄の大学よりランクは少々下だが、歴史もあり泰生の専攻の学科に良い先生がたくさんいる。それに今は通学も便利なので、不満は無い。
岡本と話すうち、彼は自分なんかより志も、もしかしたら様々な能力も高いのだろうと思った。やはり岡本は、下京キャンパスに通っていた2年間、伏見キャンパスに部活動のためだけに移動することを、さして苦にしていなかったようだ。それを確認して、泰生は軽い自己嫌悪に陥った。
泰生は、岡本の実家がどんなところなのかが気になり、調べようと考えていたことを思い出す。岡本の故郷は、和歌山県と大阪府との境目にある港町、
何もあらへんで、と岡本は笑っていたが、ネットで上がってくる海の写真はどれも美しかった。大きな岬の向こうに島があり、その先は淡路島だ。もうひとつの岬との間に海水浴場が広がっていて、面白そうな史跡もたくさんある。
「何か、ええとこやん……」
泰生の両親はどちらも北摂出身なので、泰生はお盆や正月に「田舎に行く」という行為を経験したことが無い。それに泳ぎに行くのはいつも琵琶湖だったこともあり、灯台のある岬や、その先に広がる濃い色の海には、無条件の憧憬を覚えた。
スマートフォンの画面に釘づけになっていた泰生の前に、ラーメンのどんぶりが載った盆が置かれた。泰生が驚いて顔を上げると、そこにいたのはくりっとした目を笑いの形にした、管弦楽団の2回生だった。
「こんにちは長谷川さん、小林です」
「あっ……コントラバスパートの」
小林は椅子を引き、軽い身のこなしで座った。
「テスト終わってから、入部届書かはるんですか?」
当然のように言われて、ひえっ、と泰生は叫びそうになった。
「……いや、体験入部っていうほどのもんじゃなくて……」
「最初からその気で来てはったってことなんですよね?」
違う。小林は完全に取り違えていて、パートに新しい先輩ができるという期待感を孕んだ目で泰生を見ていた。
「岡本から聞いてると思うんやけど、俺最近まで吹部におって」
「はい、授業終わってから下京キャンパスまで行くのしんどいですよね……でも吹部より管弦楽団のほうがコントラバス活躍できますよ、ポップスでベース弾く機会はちょっと減ると思いますけど」
小林は泰生の思う場所に会話を運ばせてくれない。彼は泰生が握るスマートフォンの画面に映る、青い海に気づいた。
「あっ、どっか海行きはるんですか? 管弦楽団の夏合宿は8月の26日からで、そのちょっと前まで夏休みなんで、楽しんできてください」
小林の声を聞いていると、入部する気は無いと今全否定する気力が失せて来た。そう、別に今ここで、彼の前で拒否する必要も無い。
「えっと、合宿ってどこ行くん?」
泰生が社交辞令で尋ねると、小林はラーメンを啜ってから、答えた。
「ハチ高原です、兵庫の養父市、ですかね?」
「あ、吹部と一緒や……山か」
「今、残念がりましたよね? 僕も海がいいって言うたんですけど、楽器に悪いからあかんらしいです……そんで、どこの海調べてはりました?」
小林の押しが強いので、泰生はつい、岡本の故郷を調べていたことを話した。小林は、岡本が加太出身だと知っているようだった。
「僕の父方の田舎もええとこですよ、おススメ」
すっかり小林の調子に乗せられている泰生は、彼の田舎とやらも検索してみる。ごつごつした岩が覗く、少しエメラルドがかった海は、加太と全く表情が違った。
「三重なんや、志摩市
「牡蠣とかサザエ美味いですよ、海女さんが今も潜ってるとこです」
「へぇ……」
岬の灯台が四角いのが特徴だという。中に入ることもできるらしく、これもなかなか興味深い。
「海水浴場ある?」
「あります、砂浜自慢の阿児の松原が、彼女と行くならお薦めです」
泰生は小林の顔を思わず見た。
「彼女ちゃうねん、家族」
小林は、ほう、と丸い目をさらに丸くする。
「家族でも楽しいと思います、加太と迷ってはるんですか? うーん、加太のほうが行きやすいかなぁ」
悔しそうな小林が可笑しい。管弦楽団入ったら、こいつパートの後輩になるんか、と少し思うなどしてしまった。
そんな訳で泰生は、岬の近くから出た海の民たちに、2日間勝手に振り回されたのだった。