いよいよ大学の期末試験が始まった。これから8日間、時間割はテスト用の特別なものとなり、開始時間や教室を間違えるとゲームオーバーである。とはいえ、1、2回生の時に比べると専門科目が増えて、塚﨑ゼミのようにレポートの提出だけを要求されたり、一部の教科で最終授業日にテストを済ませたりしたため、そんなに悲壮感は無かった。
同じ3回生の岡本も、まっとうに単位を取っているならば、この期間中はちょこっとバイトに行ったり楽器を弾いたりする余裕があるかもしれない。そう思うと、連絡を取ってみようかという気持ちになるが、試験期間中は控えておこうと思い直した。
朝から2つの語学の試験を終えた泰生は、とっとと帰途に着いた。大阪方面行きの電車のホームに降りると、ちょうど京都へ向かう電車が滑りこんできた。と思うと、大阪行きの電車もやってきて、普段静かなこの駅が、重なるアナウンスと、2台の電車のブレーキ音やドアの開閉音でちょっと賑やかになる。
泰生はよく冷えた車内の、横座りのシートに落ち着いた。そして窓越しに、向かいのホームに着いた電車から降りて来て、これから大学に行くべくとぼとぼと歩く学生たちをぼんやり眺めた。
後ろの車両から降りたのだろう、小柄な女子学生が1人遅れて階段に向かう。戸山百花に見えた。今日は就活スーツでなく、白いTシャツにブルーのジーンズというくだけた恰好だ。泰生の乗る電車が発車し、戸山の姿が窓の外ですうっと流れていく。リュックを背負った彼女が階段を昇りかけるところまで、追うことができた。
ふと、自分と同じ立場である彼女にいろいろ話してしまえたら、と泰生は思う。3回生になって伏見キャンパスに移り、吹奏楽部を退部した戸山は、2年間一緒に練習してきた同期の部員たちから、慰留はもちろんされたに違いなかった。でも考えを翻さなかった一番大きな理由は、何だったのだろう。
もし井上旭陽とぎくしゃくしていなかったら、もう少し下京キャンパスまで行って、吹奏楽部で頑張れたかもしれないと、今になって泰生はたまに思う。4回生になれば就職活動が始まり、どっちにしろクラブどころではなくなるのだから。
実は旭陽と気まずくなってしもて、吹部辞めることにしたって側面も、あります。
もし戸山に、あるいは岡本にでもそう言えたならば、なぜだかよくわからないが、吹奏楽部に所属していた自分をリセットできそうな気がする。
管弦楽団の楽器庫にあったいい音が鳴るコントラバスは、たぶん泰生と相性が良い。あれをもっと弾いてみたいという思いは、寝かせているパン生地のように、泰生の中でちょっとずつ膨らんでいた。管弦楽はあまり知らないが、チェロと一緒に低音をばりばり弾く曲にチャレンジしてみたいし、4回生の三村が卒業するまであと半年と少しであっても、4人もいて賑やかかもしれないコントラバスパートを経験してみたい。
特急と接続する駅で降りると、外の空気は重くて暑く、如何にも祇園祭の頃らしい。向かいのホームに京都方面行きの特急が到着し、殺人的な混雑も恐れずに祭りに向かう人たちが乗り込んで、いっぱいになっていた。それに対して大阪方面行きの特急は、時間が中途半端なせいか、空いていた。泰生は再び車内の冷房にほっとしつつ、進行方向に向いた椅子の窓際に腰を下ろした。
特急停車駅と、その隣の商店街前の駅の距離はとても近いので、スピードをあまり上げないまま、今日も特急は商店街の入口の前を通過する。泰生は商店街と反対側に座っていて、アーケードを抜けたほうの道を窓越しに見た。なだらかに昇っている道の先を横切る高架に、京都と奈良を結ぶ私鉄が走っているのが目に入り、初めてまともに見えたのでちょっと嬉しくなった。
昨日ドーナツショップで再会した、石田牧師がいる教会は、あの高架よりも向こうにある……ということになる。家で母にそんな話をちらっとすると、坂を更に登り進んだところに、かつて小さな遊園地があったと教えてくれた。高名な戦国武将が建てた城址にその遊園地はあり、その名もキャッスルランドといったらしい。
ぼんやりと車窓を眺めるうち、次の駅に到着する。ここも駅と駅の間が近いので、あっという間だった。泰生は小さく溜め息をついた。
戸山や岡本に、旭陽と拗れたことを話せば、理由を言わなくてはならないだろう。それができないから、泰生は独りで悶々としていた。旭陽は少なくとも吹奏楽部の中で、自分がゲイであることはオープンにしていない。そこで泰生が他の人に、旭陽から恋愛感情を寄せられていたことを話せば、アウティングになってしまう。
忘れたらいい。無かったことにしたらいい。そうできないのは、楽器を弾くという行為の記憶が、旭陽と過ごした2年2か月と分かちがたく結びついているからだった。そう気づいて、泰生は少しぞっとする。
このままやと、俺はコントラバスを弾くことだけやなくて、どこにも思いきって進むことができひんような気がする。
出発した特急はスピードを上げる。流れ去る窓越しの風景がだんだん意味を持たなくなってきて、泰生はそっと目を閉じた。このもやもやした気持ちが、次に目を開けた時は消えていたらいいのにと思いつつ。