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第16話 半年待っていた楽器

 試験時間の終了を告げるチャイムが鳴り、まあまあやったかなと思いながら泰生が教室を出ると、隣の教室から岡本が出てきた。一瞬固まった泰生に、岡本も気づいたようだった。


「長谷川、めっちゃグッドタイミング! RHINEしよと思ってたとこ」

「おはよう、暑いな」


 泰生はとりあえず挨拶して、やけにノリのいい岡本と連れ立ち、食堂を目指す。


「昼からいくつテストあるん?」

「5限目まである」


 今日は試験期間中、一番試験の数が多い日だ。これを乗り切れば、明日明後日は1つずつなので、もう何ということは無い。

 岡本がうんざりしながら同意した。


「俺も一緒……やねんけど、終わってからちょっと時間無い?」


 泰生は岡本の顔を見た。今度は何を企んでいるのやら……泰生が言明を避けていると、岡本はあっさり口を割った。


「コントラバスパートの三村さん、今日来てはるねん……長谷川に会いたいって」


 マジか。泰生はにこにこしている岡本を、つい嫌な目で見てしまった。それにもお構いなしに、岡本は続ける。


「小林が三村さんにこないだのこと話しよったから、4回生に断りなく部外者を音練場に入れたって、微妙に怒られたわぁ」


 それを聞いて、泰生はふあ、と変な声を上げてしまった。自分が誘惑に負けたばかりに、岡本が叱責されたなんて。小林もおそらく、岡本の行為を告げ口するつもりではなく、コントラバスが弾ける3回生を岡本が連れて来たと、喜んで先輩に話しただけだっただろう。


「……わかった、ほな今日三村さんとやらに俺から謝る」


 泰生の陰鬱な声に、今度は岡本がええっ? と声を裏返す。


「三村さん、たぶんそんな話がしたいんと違うで」

「いや、禁じられたことやらかしてバレた以上は、謝らなあかん」

「……この件に関しては、長谷川に何一つとして責任は無いような気がするんですけど……」


 そういう訳にはいかない。泰生は岡本の先に立って、ずんずんと食堂に向かって足を進めた。




 驚いたことに、学生会館には少なからぬ学生がうろうろしていた。試験期間中だというのに、みんなそんなに余裕があるのだろうか。3度目にこの建物にやってきた泰生は、単純に驚いた。

 廊下の先の大きな多目的室を覗くと、幾つかのグループが飲み食いしたり話しこんだりしていた。泰生は岡本の姿を認め、ひとつ深呼吸してから扉を開ける。岡本がすぐに泰生に気づき、岡本の前に座ってこちらに背中を向けていたスーツ姿の男性も振り返る。


「あ、長谷川くん? はじめまして、三村です」


 わざわざ立ち上がったスーツの男は、岡本よりも背が高かった。体格もがっちりしていて、楽器よりもスポーツが似合いそうだ。泰生もはじめまして、と言って頭を下げた。


「就活でお忙しいのに、何かすみません」

「いや、午前中にちょっと面接行って、そのまま試験受けに来ただけやから気にせんとって」


 戸山と会った時のように、岡本が自販機に向かう。微笑を浮かべる三村は、1学年だけ上なのに随分大人びて見えた。

 泰生は先に、先週の「不祥事」を謝っておこうと思った。


「あの、勝手に練習場に入って楽器に触って申し訳ありませんでした」

「え? 岡本が誘ったんやろ?」

「そうなんですけど、やめとくべきやったと思うてます」


 三村は困惑する表情になった。


「長谷川くんは何も悪ないで、体験入部で楽器触るのも全然OKやし、岡本が誰の許可も取らんと勝手にやったのがあかんだけ」

「……そしたら何で僕は呼び出されたんでしょう」


 岡本が戻ってきて、三村に缶コーヒー、泰生にはペットボトルの紅茶を手渡した。彼自身は緑茶を買っている。三村は早速タブを起こし、コーヒーをひと口飲む。


「こないだ試奏した楽器、大事にしたってほしいなと思って」


 それも困った話で、これから弾くと泰生はまだ約束していない。ところが三村は、泰生がそう答える前に、話し出した。


「あの楽器、ええ音したやろ? あれ、俺の叔父が寄付した楽器やねん」

「え……そうなんですか?」


 三村の叔父は、この大学に入学し管弦楽団でコントラバスを担当した。そしてすっかりコントラバスの魅力に嵌ってしまい、この大学の文学部を卒業してから、市立の芸術大学の器楽科に入った。優秀な成績で芸大卒業後は地味に活躍し、現在は市の交響楽団の首席コントラバス奏者だという。

 泰生はそんな卒業生がいることにすっかり感心してしまったが、どうして三村があの楽器を弾かないのだろうかと思う。思いきって尋ねると、単なる巡り合わせらしい。


「1回クラブで楽器借りたら、まあ卒部するまで同じ楽器使うやろ? あの楽器が寄贈されてたぶん10年かそこらなんやけど、俺が入部した時は他所の大学に貸してる最中やったんやわ」


 戻ってきたタイミングが中途半端で、あの楽器を弾く者がいなかった。そして1年前に、管弦楽団のOB会が代金を出し、メンテナンスに出すことになった。


「半年かかったんですよね」


 岡本は緑茶をあおってから、言った。三村も大仰に頷く。


「そうや、あれ絶対楽器屋に忘れられてたわ……そんでせっかくぴかぴかになって戻ってきたのに、入ってきた1回生が女の子やしあれは重過ぎて、だからこの半年誰も弾いてへん」


 そんなに重かったかなと泰生は思ったが、三村は眉をハの字にして、悲劇的に言う。


「だから今長谷川くんが来たのは天の采配なんや、叔父も喜ぶさかいにあれ弾いたって」


 何じゃそりゃ。泰生はこんな形で泣きつかれるとは想像しておらず、あ然とするばかりだった。岡本は楽しそうに2人を眺めている。


「試験終わったらこれからのスケジュール渡すわな、百花姫からも真面目な子やて聞いてるから、コントラバスパートとしては期待してます」


 三村の言葉がとどめを刺す。この場で泰生が、入部する気は無いと言えるはずが無かった。



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