試験時間の終了を告げるチャイムが鳴り、まあまあやったかなと思いながら泰生が教室を出ると、隣の教室から岡本が出てきた。一瞬固まった泰生に、岡本も気づいたようだった。
「長谷川、めっちゃグッドタイミング! RHINEしよと思ってたとこ」
「おはよう、暑いな」
泰生はとりあえず挨拶して、やけにノリのいい岡本と連れ立ち、食堂を目指す。
「昼からいくつテストあるん?」
「5限目まである」
今日は試験期間中、一番試験の数が多い日だ。これを乗り切れば、明日明後日は1つずつなので、もう何ということは無い。
岡本がうんざりしながら同意した。
「俺も一緒……やねんけど、終わってからちょっと時間無い?」
泰生は岡本の顔を見た。今度は何を企んでいるのやら……泰生が言明を避けていると、岡本はあっさり口を割った。
「コントラバスパートの三村さん、今日来てはるねん……長谷川に会いたいって」
マジか。泰生はにこにこしている岡本を、つい嫌な目で見てしまった。それにもお構いなしに、岡本は続ける。
「小林が三村さんにこないだのこと話しよったから、4回生に断りなく部外者を音練場に入れたって、微妙に怒られたわぁ」
それを聞いて、泰生はふあ、と変な声を上げてしまった。自分が誘惑に負けたばかりに、岡本が叱責されたなんて。小林もおそらく、岡本の行為を告げ口するつもりではなく、コントラバスが弾ける3回生を岡本が連れて来たと、喜んで先輩に話しただけだっただろう。
「……わかった、ほな今日三村さんとやらに俺から謝る」
泰生の陰鬱な声に、今度は岡本がええっ? と声を裏返す。
「三村さん、たぶんそんな話がしたいんと違うで」
「いや、禁じられたことやらかしてバレた以上は、謝らなあかん」
「……この件に関しては、長谷川に何一つとして責任は無いような気がするんですけど……」
そういう訳にはいかない。泰生は岡本の先に立って、ずんずんと食堂に向かって足を進めた。
驚いたことに、学生会館には少なからぬ学生がうろうろしていた。試験期間中だというのに、みんなそんなに余裕があるのだろうか。3度目にこの建物にやってきた泰生は、単純に驚いた。
廊下の先の大きな多目的室を覗くと、幾つかのグループが飲み食いしたり話しこんだりしていた。泰生は岡本の姿を認め、ひとつ深呼吸してから扉を開ける。岡本がすぐに泰生に気づき、岡本の前に座ってこちらに背中を向けていたスーツ姿の男性も振り返る。
「あ、長谷川くん? はじめまして、三村です」
わざわざ立ち上がったスーツの男は、岡本よりも背が高かった。体格もがっちりしていて、楽器よりもスポーツが似合いそうだ。泰生もはじめまして、と言って頭を下げた。
「就活でお忙しいのに、何かすみません」
「いや、午前中にちょっと面接行って、そのまま試験受けに来ただけやから気にせんとって」
戸山と会った時のように、岡本が自販機に向かう。微笑を浮かべる三村は、1学年だけ上なのに随分大人びて見えた。
泰生は先に、先週の「不祥事」を謝っておこうと思った。
「あの、勝手に練習場に入って楽器に触って申し訳ありませんでした」
「え? 岡本が誘ったんやろ?」
「そうなんですけど、やめとくべきやったと思うてます」
三村は困惑する表情になった。
「長谷川くんは何も悪ないで、体験入部で楽器触るのも全然OKやし、岡本が誰の許可も取らんと勝手にやったのがあかんだけ」
「……そしたら何で僕は呼び出されたんでしょう」
岡本が戻ってきて、三村に缶コーヒー、泰生にはペットボトルの紅茶を手渡した。彼自身は緑茶を買っている。三村は早速タブを起こし、コーヒーをひと口飲む。
「こないだ試奏した楽器、大事にしたってほしいなと思って」
それも困った話で、これから弾くと泰生はまだ約束していない。ところが三村は、泰生がそう答える前に、話し出した。
「あの楽器、ええ音したやろ? あれ、俺の叔父が寄付した楽器やねん」
「え……そうなんですか?」
三村の叔父は、この大学に入学し管弦楽団でコントラバスを担当した。そしてすっかりコントラバスの魅力に嵌ってしまい、この大学の文学部を卒業してから、市立の芸術大学の器楽科に入った。優秀な成績で芸大卒業後は地味に活躍し、現在は市の交響楽団の首席コントラバス奏者だという。
泰生はそんな卒業生がいることにすっかり感心してしまったが、どうして三村があの楽器を弾かないのだろうかと思う。思いきって尋ねると、単なる巡り合わせらしい。
「1回クラブで楽器借りたら、まあ卒部するまで同じ楽器使うやろ? あの楽器が寄贈されてたぶん10年かそこらなんやけど、俺が入部した時は他所の大学に貸してる最中やったんやわ」
戻ってきたタイミングが中途半端で、あの楽器を弾く者がいなかった。そして1年前に、管弦楽団のOB会が代金を出し、メンテナンスに出すことになった。
「半年かかったんですよね」
岡本は緑茶をあおってから、言った。三村も大仰に頷く。
「そうや、あれ絶対楽器屋に忘れられてたわ……そんでせっかくぴかぴかになって戻ってきたのに、入ってきた1回生が女の子やしあれは重過ぎて、だからこの半年誰も弾いてへん」
そんなに重かったかなと泰生は思ったが、三村は眉をハの字にして、悲劇的に言う。
「だから今長谷川くんが来たのは天の采配なんや、叔父も喜ぶさかいにあれ弾いたって」
何じゃそりゃ。泰生はこんな形で泣きつかれるとは想像しておらず、あ然とするばかりだった。岡本は楽しそうに2人を眺めている。
「試験終わったらこれからのスケジュール渡すわな、百花姫からも真面目な子やて聞いてるから、コントラバスパートとしては期待してます」
三村の言葉がとどめを刺す。この場で泰生が、入部する気は無いと言えるはずが無かった。