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第17話 蚊取り線香の煙が目に染みる午後①

 管弦楽団の面々から完全に外堀を埋められた泰生は、観念して入部届を書こうと考えた。しかしどうも胸の中がすっきりしない。

 これはもう自分自身の問題でしかないので、泰生は誰か信用の置ける、でも自分のことをそんなに良く知らない人に、思っていることをぶちまけてしまいたくなった。そんな都合のいい人物の顔が、幸いにして今の泰生の頭には数人浮かんだ。

 1教科だけの試験を済ませて、泰生は商店街のある駅で迷わず途中下車した。淡竹に向かおうとしたが、テストを済ませた岡本がアルバイトに来る可能性が否定できない。岡本は信頼できる人間だと感じているが、何かのはずみで繋がりかねない同級生のセクシャリティに関する話題を、彼の前では軽々しく出したくなかった。

 泰生は商店街の入り口でしばし立ち止まり、スマートフォンを出す。周辺の地図を開くと、確かに「お宮さん」の傍に教会があった。そこを目指し、夏の太陽が照りつける道に踏み出す。

 少し昇っている道を進むと、左手に私鉄の駅がいきなり現れた。改札のほうを覗き込むと階段が見えて、ちょうどわらわらと客が下りて来たので、この電車が高架を走っていることに納得する。

 さらに進んで、スーパーや不動産店などの前を通り過ぎ、大きな朱塗りの鳥居をくぐった。商店街の入り口からは、私鉄の高架に隠れて見えないのだが、立派な鳥居だ。

 泰生は拍子抜けする。想像していたよりも、教会は近かった。左手に続く白い土壁は教会のものらしく、ちゃんと看板もかかっている。お宮さんの鳥居の傍に教会って……と、泰生は1人で突っ込んでしまった。

 両開きの立派な門は、片方だけ開いていた。この教会は幼稚園を併設しているらしく、遊具が置かれているのが見える。岡本の話した通り、十字架のついた建物は昔の学校のような木造建築だ。

 奥の建物が幼稚園のようだが、午前中保育なのか、人気ひとけは無かった。とはいえ、無断で門から入って幼稚園を覗き、変質者だと思われてはいけないので、泰生は勇気を振り絞って真っ直ぐ教会の入り口を目指した。こちらの建物には、大人が集まっている様子である。ちょうど何かが終わったらしく、主に老人が次々と出てきた。


「石田先生にご用ですか?」


 杖をついてゆっくり出てきた老婦人に話しかけられた。泰生はびくりとして、早くも逃げ腰になる。


「あっ、はい、えっと、お忙しいですよね? 約束とかしてなくて……」

「今ちょうど勉強会終わったから、大丈夫やと思うよ」


 何の勉強会なのかわからないが、のんびりと出てきた老人たちは、暑そうやな、どっかで何か飲んで帰ろか、などと語らっている。老婦人は、下駄箱でスリッパに履き替えたらいいと教えてくれた。

 泰生が靴を履き替えていると、ありがたいことに石田牧師が出てきた。彼は眼鏡の奥の目を丸くする。


「こんにちは、いらっしゃい」


 そう声をかけられると、一体自分が何をしに来たのかわからなくなる。泰生は言葉を探して深呼吸した。入り口で炊かれていた蚊取り線香の匂いが鼻腔をくすぐる。


「礼拝堂にどうぞ」


 泰生が言葉を発する前に、石田は右手奥に入っていく。ついて行くと、不思議な光景に行き当たった。古い学校のような窓に囲まれた縦長の部屋には、長椅子がずらりと2列で縦に並び、奥に布が掛けられた祭壇が設えられている。天井も床も木なので、大きな十字架が置いていなければ、寺とも見間違えそうだった。


「蚊が多いんで、蚊取り線香そこらに置いてますけど、気ぃつけてください」


 礼拝堂の入り口にも、渦巻きの線香が置かれていた。泰生は後ろのほうの椅子にちょこんと座り、石田が祭壇の左手の扉から出て行くのを見送る。

 何か変なところに入りこんでしもたかも。

 和風の礼拝堂は緩い冷房でふわっと涼しかったが、何となく潜伏キリシタンがこっそりミサをしている様子を連想させ、どちらかというとそれは泰生に薄気味悪さを感じさせた。

 石田は茶の入ったグラスを載せた盆を手に、礼拝堂に戻ってきた。彼は気楽に泰生の右前の椅子の端に座って、身体をこちらに向けた。お茶の礼を述べた泰生は自己紹介して、最近淡竹で岡本と知り合ったことを話した。


「ああ、長谷川くんは大阪から通学してはるんやね」

「はい、僕文学部なんで、3回生になって、京都駅の近くの下京キャンパスから深草の伏見キャンパスに変わりました」


 麦茶は良く冷えて美味しかった。石田は泰生の大学の事情にはあまり通じていないようだが、岡本も文学部生であることや、部活でチェロを弾いていて、泰生を自分のクラブに誘っているのはうっすら知っていた。


「岡本くんが、途中入部で低音の子が来るかもって話してました、長谷川くんのことでしたか」

「……そのことなんですけど、ちょっといろいろ迷ってて」


 相手が牧師でいかにも話しやすそうだとはいえ、泰生はほぼ見ず知らずの人間に自分の悩みを話すのは生まれて初めてだった。どきどきしたが、もういろいろなことを含めて、引き返せないと思った。


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