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第24話 カラカラに乾いた場所

 泰生の母は朝9時からスーパーマーケットで働いており、泰生の知る限り、余程の体調不良でない限りは欠勤しない。朝から働くパートさんが欠けると大変だということを知っているからだ。

 喫茶淡竹は、開店準備の9時半から出勤する木村さんの病欠を埋めるのが、大変だ。テストが終わり夏休みに入った泰生は、モーニングの混雑を店長の森と2人で捌いている。おかげで、勤務3日にして備品の場所は大体把握できた。

 岡本も今日午前中、テストを全て終えた。帰省する前にサシで飲みたいと岡本が言ってきたので了承し、泰生は昼過ぎに彼と淡竹のアルバイトを交代してから、大学に向かった。

 前期試験最終日の図書館は静かだった。「夏休み特別貸し出し20冊まで!」と書かれたポスターを横目に、泰生は宿題のための資料を探す。5冊の本を机に持ってきて吟味していると、視界の端に知っている人影が横切った。管弦楽団のクラリネッティスト、戸山百花と、彼女を百花姫と呼ぶコントラバシニストの三村だった。

 2人は親し気に、しかし図書館の中であるということを意識しつつ、小さく話しながら、奥の棚に向かう。泰生は興味半分に、本と鞄をテーブルに置いたまま彼らをこそっと追った。

 4回生の彼らは、就職活動をおこなうと同時に、卒業論文を仕上げなくてはならない。とはいえ、専攻が同じでないなら、一緒に図書館に来る必要も無いように思える。

 つき合ってるんかな。泰生の脳内に、単純かつ下世話な言葉が浮かんだ。だとしても全然おかしくないし、責められることでもない。吹奏楽部内でも交際している男女はいたし、何なら卒業後に結婚に到るカップルもいる。同じ音楽を趣味とする者が集まっているのに、恋愛感情を抱くなというほうが不自然だ。

 井上は、何で俺を好きになったんやろ。ふと思う。それは全く聞かなかった。いや、彼が話していたとしても、きっと耳に入らなかっただろう。そう思うと、ちょっと切なくなり、喉の渇きを覚えた。




 淡竹の店長の森は、飲みに行くなら少し早く上がっていいと岡本に言ったらしく、泰生が再び喫茶店の前に行ったのは18時だった。岡本は自分の都合で泰生を振り回すことになったので、恐縮していた。


「悪いなぁ、大学行っとったん?」

「うん、図書館に用事あったからちょうど良かった」


 泰生は本で膨らんだ鞄を持ち上げた。


「ゼミの夏休みの宿題があんねん」

「重いのに持って回らせんのが、また申し訳ないわ」

「いやいや、どうせ借りなあかん本やし」


 岡本は泰生を促して、アーケードを少し駅に向いて戻り、横切る道のひとつを曲がる。豆乳をたくさん取り扱っているスーパーの前を過ぎ、緩く曲がる道なりに進む。今日は雲があるとはいえ、アーケードを抜けると一気に熱気が押し寄せた。


「あっつ、喉カラカラやわ」


 岡本に泰生も同意する。


「うん、ビール飲みたいとか思うもんなんやな」

「ほんまやな、この辺小洒落た店も幾つかあるんやけど、あそこでいい?」


 岡本が指さす先に、和風の平屋建ての店舗が見えた。焼き鳥屋のようだ。外観はそんなに洒落てはいないが、どんどん客が入っていく辺り、人気の店らしい。

 席が埋まると残念過ぎるので、2人は店に向かった。入ったところが広い待合スペースだったが、そこで待たされることはなく、直ぐに店員が店の奥のほうに案内してくれた。

 テーブルはこまこまと並んでいるが、天井が高いのでせせこましく感じない。岡本は泰生と向かい合って座り、ビールと黒豆の枝豆、それに焼き鳥の盛り合わせを頼む。

 ビールで乾杯し、お互い試験を無事終えたことを讃えた。カラカラに乾いた喉がやっと潤い、思わず大きく息をついてしまう。


「美味しい、枝豆もうまそう」

「ここは焼き鳥もうまいで、しかもそんな高ないし」


 泰生は勧められて枝豆を摘む。莢から出して口に入れると、香ばしかった。

 大切なことを思い出し、おしぼりで手を拭いて鞄を開ける。


「あのな、もし行けそうやったらこれ行かへん?」


 泰生が楽器店で貰った、弦楽器フェアのチラシを見せると、岡本はひゃっ! と変な悲鳴を上げた。


「楽器買うんか! 長谷川って実はええとこの子なん?」


 これには泰生も驚いたが、説明不足だったのでまず岡本に詫びる。


「楽器も買わへんしええとこの子ちゃう、松脂を試せるんやって」

「松脂?」


 岡本は目を丸くし、違った意味の驚きを見せた。


「最近ずっとこだわってない? ヤニの呪いにかかってる?」

「呪いって何や……だって何かええ楽器に当たってしもたから、ヤニも選びたいかなって」

「ふうん……俺楽器買う気無いけど試奏しよかな」


 チェロとコントラバスは、同じくらいの価格だ。高いものは天井知らずだが、10万円台のものもある。


「でも試したら欲しなるやろ、必死でバイトしたら手ぇ届く値段やったりするし」

「それは言うな、手が届いたとしてどこに置いとくねん」


 確かに。泰生が笑った時、焼き鳥の盛り合わせがやってきた。


「うまそう、どれする?」

「皮は譲れへんけどあとは長谷川の好きなん食べて」


 岡本が皮を自分の取り皿に移したので、泰生はふっくらしたねぎまを取る。かぶりつくと、肉もたれも美味で、幸福感が増した。

 泰生が食べるのを眺めていた岡本は、だしぬけに言った。


「ごめんな、管弦楽団に強引に誘って」

「……へ?」

「悪い癖なんや」


 岡本は皮に手もつけず、昔の話を始めた。

 中学の頃から親しかった友達を、高校に入学して直ぐにバスケットボール部に誘った。友達があまり乗り気でないのは察していたが、彼と一緒に楽しみたかったし、きっと面白さをわかってくれると思っていた。


「でも面白くなかったみたいでな、やる気無いまま練習してたから怪我してん……そいつはクラブ辞めて、2年でクラスも分かれたから疎遠になって、そのまま卒業した」


 岡本は自分を責めているようだった。しかし、バスケットボール部に入ると決めたのは友達なのだから、岡本に責任は無いと泰生は思う。ただ、そうストレートに伝えると、岡本が大切にしていた人をけなすことになりそうなので、泰生は言葉を選んだ。


「その子のことはわからんけど、少なくとも俺は、仕方なく管弦楽団に入ることにしたんちゃうで……吹部辞める時にちょっといろいろあったんやけど、楽器弾くこととは別やってわかったから」


 感謝とまでは言わないが、自分を見つめ直すきっかけをくれた岡本に対して、悪い感情を持つ理由が無かった。

 岡本は泰生の言葉にほっとしたのか、微笑して皮の串を手に取る。それを見て泰生は、乾いた喉にビールが沁みるような心地良さを、胸の深いところで感じた。

 カラカラに乾いていたのは、喉ではなく心の中だった。そして朗らかで人当たりのいい岡本にも、密かにカラカラになっている場所があったようだ。彼は2杯目のビールを注文すべく、呼び鈴を押した。


「ありがと、そう言うてくれるんやったら救われる」

「うん、だいぶ迷ったけど俺は自分の選択を信じてる、というか信じたい」


 互いの乾いた場所に水を注ぐことが、親しくなるというプロセスそのものなのかもしれない。泰生はつくねの串に手を伸ばした。



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