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P-2 無言のお見舞い

 懐かしい夢を見た。

 温かな指先が、痛むところをなぞっていく。

 その感触は、かつて病弱だった少年の体をさする母親の手によく似ていた。

 たちまち心が落ち着く、不思議な手当て。熱で火照ほてった頬も、咳でひりついた胸も、ただ触れられるだけで楽になった気がした。


 仰向けに横たわった体を、優しく撫でる手。

 やがて指先は自分から離れ、革靴の音とともに遠ざかっていく。

 夢現ゆめうつつの交差点。ふいに、花の香りを嗅いだ。甘い香りが鼻腔びこうをくすぐる。リュッカは香りに引かれるように、重たい目蓋をそっと開いた。


      ・・・


 目を開けると、天井だった。

 やわらかい色合いの吸音板。一目でわかる病室の壁。

 自分を中心にチューブが四本伸びていて、点滴が打たれていることがわかった。

 ピ、ピ、ピ……と一定間隔で鳴る電子音のほうへ視線を動かすと、仰々しい心電図モニターが見えた。

 鼻に装着された人工呼吸器から、意識的に息を吸う。

 病室には消毒液の匂いが充満していたが、かすかに花の香りも混じっていた。

 視界の端、窓辺に置かれた花瓶に目が止まる。そこには、真っ白なガーベラが一輪。リュッカを見下ろすように凛と咲いていた。

 夢で嗅いだ香りはこのガーベラだったのだろうか。

 だめだ。どうにも、思考がかすんではっきりしない。


(俺、いったい何が――)


 リュッカは次第にひどくなる頭痛に顔をしかめながら、天井を見て回想した。

 一面の砂漠と、砂から出てきた金属製の小箱。

 閃光、爆風、そして血の色――惨劇の瞬間はすぐに思い出せた。

 砂漠の緑化活動をしていて、残存地雷の爆発に巻き込まれたのだ。

 リュッカは掘り出された感光式地雷を夢中で抱えて、砂に叩きつけて、でも起爆を止められなくて。それからどうなったんだっけ。こうしてベッドの上で考えられるのだから、死んでいないのは確かだった。あの状況で、助かったのだ。


(それより、綾鷹あやたかは? 緑化作業員の皆は無事なのか?)


 リュッカは弾かれたように目を見開き、ベッドから体を起こそうとした。

 ――が、それは叶わなかった。

 腹筋に力を入れた瞬間に激痛が走り、思わずうなる。

 無数のナイフで突かれたような鋭い痛み。それは胸から腹にかけて、びりびりと広がった。

 反対に、背中はまったく痛みを感じない。おそらく、間近で炸裂した地雷の金属片で、胸と腹が傷ついたのだろう。ずきずきと疼く部位から負傷状況が推測できた。


 腹筋で起き上がれないのなら、手を使って起き上がるまでだ。

 リュッカはき腕の右手を動かそうとして、異変に気づいた。


(おかしい。腕に力が入らない)


 というより、力を入れる場所がわからない。

 返ってくるのは、宙を掴もうとするような空虚な手ごたえ。リュッカは違和感に眉をひそめた。

 かろうじて首を持ち上げ、眼球を視界右下へめいっぱい動かしてみる。見れば、右肩は包帯でいた。

 腕に包帯が巻かれていたのではない。包帯が肩を覆っていた。

 包帯は左脇腹から胴体を包むようにリュッカを縛り、そして右肩の先は、


(腕が、ない)


 どくん、と、鼓動が跳ねた。

 右腕がない。肩から先がすっかり消えている――腕が、肘が、手が、ない。


 見間違いだと思った。いや、思いたかった。危うく呼吸が止まりそうになる。

 あまりの動揺に「いったいなぜ」という愚問が浮かんだ。心当たりなどひとつしかないのに。

 ピピ、ピ、ピピ……と、心電図の音が乱れていく。

 リュッカは恐る恐る左肩に視線を移し、今度は完全に呼吸の仕方を忘れた。


 左腕もなかった。申し訳程度に肘までは残っているものの、その先が見当たらない。 

 リュッカは、右腕と、左腕の肘から下を失っていた。


 自覚した途端に、鳥肌が立った。

 導き出された真実はひとつ――地雷で腕が吹き飛んだのだ。

 リュッカは爆発の瞬間に見た、異様な光景を思い返した。人の手が宙を舞う光景。あれは自分の腕だったのか?

 リュッカは震えながら再確認する。左腕の長さは以前の半分。右腕に至っては影も形も残っていない。つまり自分は、両手を失くしてしまったのだ。


 嘘だ。あり得ない。こんなこと、信じられるわけがない。

 苦しい。ひゅう、ひゅう、と喉が鳴るのに、口を押さえる手のひらがない。

 ディガーショベルを握る手が。砂漠に苗木を植える手が。土を触るための両手がない――!


 過呼吸になるリュッカに気づいたのか、申し合わせたようなタイミングで病室の扉が開く。

「まさか、もう目覚めたの?」

 と言って駆けつけた看護師の制服には、見覚えのある紋章マークがあった。

 大きな木が地球を包み込むデザインのそれは、世界緑化機構〈VERTヴェール〉の紋章。よく知っている。今でこそ上半身は包帯まみれだが、砂漠の緑化活動をしていたリュッカの作業着にも、同じ紋章があったから。


 看護師はベッドでもだえるリュッカを落ち着けようと、事務的に経緯を告げた。

 リュッカが、砂漠での緑化活動中に地雷に触れて大ケガを負ったこと。

 一命は取り留めたが、右腕と左肘から下は切断を余儀よぎなくされたこと。

 それからこの場所が、世界緑化機構〈VERTヴェール〉管轄の病院であること――

 それらは皆、リュッカの想像の答え合わせに過ぎなかった。実感はまだ伴わなくとも、繰り返し頷いておく。すると看護師は、リュッカが平静を取り戻しつつあるのだと解釈して、安心してこう言った。


「……よかった、とりあえず大丈夫そうですね。他に、何か聞きたいことはありますか?」


 リュッカは腕の欠けた肩で息をしながら、思う。

 何もよくない。全然大丈夫じゃない。わからないことだらけだった。

 緑化作業員として欠かせない手のひらを失った自分は、これからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう。混乱と不安がぜになって、体を重くする。

 とはいえ――今後の処遇を決めるのは、リュッカが所属する世界緑化機構〈VERTヴェール〉だ。満身創痍の今、明確なのはそれだけ。

 やがて思考する体力さえ尽きたリュッカは、再び、深い眠りの底に落ちていった。




 世界緑化機構〈VERTヴェール〉――環境再生を使命とする、国際規模の植生機関。

 設立は21世紀半ば。今からおよそ百年ほど前にさかのぼる。

 地球規模の砂漠化・環境破壊を受けて設立されたVERTの目的は、ひとことで言えば「地球の再緑化」だ。確か、Vegetableベジタブル……みたいな小難しい単語の頭文字を並べて、V・E・R・Tだった気がする。ちなみにVERTとは、どこかの国の言葉で「緑」という意味を持つらしい。


 そんな国際機関VERTの理念は「植物こそが平和の鍵」。

 この言葉には、創設当時の世界情勢と、それにまつわる神話めいた伝説が深く関わっている。


 伝え聞くところによれば、かつて世界が第三次世界大戦の危機にひんしたとき――各国の大量破壊兵器が一斉に起動準備に入ったその瞬間、不可解な現象が起こったという。

 すべての兵器にコケやツタが絡みつき、起動不可能になったのだ。

 装置の内部にまで入り込んだ植物の根が、電子機器を停止させ、核ミサイルのハッチすら開かなくなった。まるで、地球が人類の自滅を止めようとしたかのように。


 かくして戦争は未然に防がれた――のだが、この一連の現象にが関わっている、とするのが就寝前の読み聞かせの定番である。

 植物で争いを止めた人物。その名はチト。

 チトは「指で触れた植物を咲かせることができる」特殊能力――いわゆる〈みどりのゆび〉を持った庭師であったという。園芸師であるチトは、奇跡的な異能と機転で世界を救ったのだ。


 正直、この話がどこまで本当なのかは怪しいところだ。

 植物を意のままに操る異能なんて、眉唾まゆつばもの。乾燥地帯の緑化に、途方もない時間と労力が必要だと知っている今では、チトの伝説など子供向けのおとぎ話でしかない。

 だけどそれは、病弱だった少年をVERTへ導くのには十分な物語で、


「すごい……僕もいつか、チトみたいな人になる!」


 体力がないため遊びの輪に入れず、学校を休みがちで勉強も苦手だった幼いリュッカが、チトという存在にかれるのは当然のことだった。

 力任せでもなく難解でもない。花というただ美しいもので世の中を変え、人を救う。そんな風になれたらどんなに素敵だろう。その瞬間、将来の夢は定まった。


 そして18歳になった春、リュッカはようやくVERTの門を叩いた。

 念願の配属が決まり、緑化作業員として〈五級庭師にわし〉の階級を授かった。VERTが植物関係職を〈庭師にわし〉と呼んで統括しているためである。新人に与えられる、最も低い等級が五級。それでも、世界を救うヒーローの末席に加われた気がして嬉しかった。


 リュッカは虚弱体質を克服するため、できることは何でもやってきた。朝晩の筋トレはずっと続けていたし、仲間の誰よりも懸命に働いた。

 そうしていれば、いつか伝説の人物・チトのようになれると信じて――


   ・・・


 ……そういえば。

 チトの話を初めて聞いたのも、こうして寝たきりになっていたときだった。

 やわらかな布団の上。熱に浮かされて朦朧もうろうとする自分に、母さんが語り聞かせてくれたのだ。息苦しい胸をそっと撫でる、母親の手。声に合わせて手のひらが移動するたび、魔法みたいに痛みがやわらいだのを、はっきりと覚えている。


 それはちょうど、今みたいな優しい手つきで。


(――誰かが、俺に触ってる?)


 だんだんと、意識が現実へ戻ってくる。

 リュッカは、自分に触れていた手のひらの感触を追い求めるように、ぱっと目を開いた。

 数時間、いや、数日ほど眠っていたかもしれない。慌てて視線を巡らせたが、またしても、病室には誰もいなかった。また夢だ。花の残り香がする甘い夢。一方で、腕の喪失は夢ではなくて――両手はやはり欠けていた。


 この体で「チトみたいになる」だなんて、もう、冗談でも言えない。言えるほど強くない。

 溢れた涙が頬を伝って、シーツに染みをつくっていく。涙を拭う手が欲しかった。

 窓辺の花瓶にけられた花が、ピンクの実を付けたヒペリカムの枝に変わっていることを、嗚咽おえつするリュッカはまだ知らなかった。

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