懐かしい夢を見た。
温かな指先が、痛むところをなぞっていく。
その感触は、かつて病弱だった少年の体をさする母親の手によく似ていた。
たちまち心が落ち着く、不思議な手当て。熱で
仰向けに横たわった体を、優しく撫でる手。
やがて指先は自分から離れ、革靴の音とともに遠ざかっていく。
・・・
目を開けると、天井だった。
やわらかい色合いの吸音板。一目でわかる病室の壁。
自分を中心にチューブが四本伸びていて、点滴が打たれていることがわかった。
ピ、ピ、ピ……と一定間隔で鳴る電子音のほうへ視線を動かすと、仰々しい心電図モニターが見えた。
鼻に装着された人工呼吸器から、意識的に息を吸う。
病室には消毒液の匂いが充満していたが、かすかに花の香りも混じっていた。
視界の端、窓辺に置かれた花瓶に目が止まる。そこには、真っ白なガーベラが一輪。リュッカを見下ろすように凛と咲いていた。
夢で嗅いだ香りはこのガーベラだったのだろうか。
だめだ。どうにも、思考が
(俺、いったい何が――)
リュッカは次第にひどくなる頭痛に顔をしかめながら、天井を見て回想した。
一面の砂漠と、砂から出てきた金属製の小箱。
閃光、爆風、そして血の色――惨劇の瞬間はすぐに思い出せた。
砂漠の緑化活動をしていて、残存地雷の爆発に巻き込まれたのだ。
リュッカは掘り出された感光式地雷を夢中で抱えて、砂に叩きつけて、でも起爆を止められなくて。それからどうなったんだっけ。こうしてベッドの上で考えられるのだから、死んでいないのは確かだった。あの状況で、助かったのだ。
(それより、
リュッカは弾かれたように目を見開き、ベッドから体を起こそうとした。
――が、それは叶わなかった。
腹筋に力を入れた瞬間に激痛が走り、思わず
無数のナイフで突かれたような鋭い痛み。それは胸から腹にかけて、びりびりと広がった。
反対に、背中はまったく痛みを感じない。おそらく、間近で炸裂した地雷の金属片で、胸と腹が傷ついたのだろう。ずきずきと疼く部位から負傷状況が推測できた。
腹筋で起き上がれないのなら、手を使って起き上がるまでだ。
リュッカは
(おかしい。腕に力が入らない)
というより、力を入れる場所がわからない。
返ってくるのは、宙を掴もうとするような空虚な手ごたえ。リュッカは違和感に眉をひそめた。
腕に包帯が巻かれていたのではない。包帯が肩を覆っていた。
包帯は左脇腹から胴体を包むようにリュッカを縛り、そして右肩の先は、
(腕が、ない)
どくん、と、鼓動が跳ねた。
右腕がない。肩から先がすっかり消えている――腕が、肘が、手が、ない。
見間違いだと思った。いや、思いたかった。危うく呼吸が止まりそうになる。
あまりの動揺に「いったいなぜ」という愚問が浮かんだ。心当たりなどひとつしかないのに。
ピピ、ピ、ピピ……と、心電図の音が乱れていく。
リュッカは恐る恐る左肩に視線を移し、今度は完全に呼吸の仕方を忘れた。
左腕もなかった。申し訳程度に肘までは残っているものの、その先が見当たらない。
リュッカは、右腕と、左腕の肘から下を失っていた。
自覚した途端に、鳥肌が立った。
導き出された真実はひとつ――地雷で腕が吹き飛んだのだ。
リュッカは爆発の瞬間に見た、異様な光景を思い返した。人の手が宙を舞う光景。あれは自分の腕だったのか?
リュッカは震えながら再確認する。左腕の長さは以前の半分。右腕に至っては影も形も残っていない。つまり自分は、両手を失くしてしまったのだ。
嘘だ。あり得ない。こんなこと、信じられるわけがない。
苦しい。ひゅう、ひゅう、と喉が鳴るのに、口を押さえる手のひらがない。
ディガーショベルを握る手が。砂漠に苗木を植える手が。土を触るための両手がない――!
過呼吸になるリュッカに気づいたのか、申し合わせたようなタイミングで病室の扉が開く。
「まさか、もう目覚めたの?」
と言って駆けつけた看護師の制服には、見覚えのある
大きな木が地球を包み込むデザインのそれは、世界緑化機構〈
看護師はベッドで
リュッカが、砂漠での緑化活動中に地雷に触れて大ケガを負ったこと。
一命は取り留めたが、右腕と左肘から下は切断を
それからこの場所が、世界緑化機構〈
それらは皆、リュッカの想像の答え合わせに過ぎなかった。実感はまだ伴わなくとも、繰り返し頷いておく。すると看護師は、リュッカが平静を取り戻しつつあるのだと解釈して、安心してこう言った。
「……よかった、とりあえず大丈夫そうですね。他に、何か聞きたいことはありますか?」
リュッカは腕の欠けた肩で息をしながら、思う。
何もよくない。全然大丈夫じゃない。わからないことだらけだった。
緑化作業員として欠かせない手のひらを失った自分は、これからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう。混乱と不安が
とはいえ――今後の処遇を決めるのは、リュッカが所属する世界緑化機構〈
やがて思考する体力さえ尽きたリュッカは、再び、深い眠りの底に落ちていった。
世界緑化機構〈
設立は21世紀半ば。今からおよそ百年ほど前に
地球規模の砂漠化・環境破壊を受けて設立されたVERTの目的は、ひとことで言えば「地球の再緑化」だ。確か、
そんな国際機関VERTの理念は「植物こそが平和の鍵」。
この言葉には、創設当時の世界情勢と、それにまつわる神話めいた伝説が深く関わっている。
伝え聞くところによれば、かつて世界が第三次世界大戦の危機に
すべての兵器にコケやツタが絡みつき、起動不可能になったのだ。
装置の内部にまで入り込んだ植物の根が、電子機器を停止させ、核ミサイルのハッチすら開かなくなった。まるで、地球が人類の自滅を止めようとしたかのように。
かくして戦争は未然に防がれた――のだが、この一連の現象に
植物で争いを止めた人物。その名はチト。
チトは「指で触れた植物を咲かせることができる」特殊能力――いわゆる〈みどりのゆび〉を持った庭師であったという。園芸師であるチトは、奇跡的な異能と機転で世界を救ったのだ。
正直、この話がどこまで本当なのかは怪しいところだ。
植物を意のままに操る異能なんて、
だけどそれは、病弱だった少年をVERTへ導くのには十分な物語で、
「すごい……僕もいつか、チトみたいな人になる!」
体力がないため遊びの輪に入れず、学校を休みがちで勉強も苦手だった幼いリュッカが、チトという存在に
力任せでもなく難解でもない。花というただ美しいもので世の中を変え、人を救う。そんな風になれたらどんなに素敵だろう。その瞬間、将来の夢は定まった。
そして18歳になった春、リュッカはようやくVERTの門を叩いた。
念願の配属が決まり、緑化作業員として〈五級
リュッカは虚弱体質を克服するため、できることは何でもやってきた。朝晩の筋トレはずっと続けていたし、仲間の誰よりも懸命に働いた。
そうしていれば、いつか伝説の人物・チトのようになれると信じて――
・・・
……そういえば。
チトの話を初めて聞いたのも、こうして寝たきりになっていたときだった。
やわらかな布団の上。熱に浮かされて
それはちょうど、今みたいな優しい手つきで。
(――誰かが、俺に触ってる?)
だんだんと、意識が現実へ戻ってくる。
リュッカは、自分に触れていた手のひらの感触を追い求めるように、ぱっと目を開いた。
数時間、いや、数日ほど眠っていたかもしれない。慌てて視線を巡らせたが、またしても、病室には誰もいなかった。また夢だ。花の残り香がする甘い夢。一方で、腕の喪失は夢ではなくて――両手はやはり欠けていた。
この体で「チトみたいになる」だなんて、もう、冗談でも言えない。言えるほど強くない。
溢れた涙が頬を伝って、シーツに染みをつくっていく。涙を拭う手が欲しかった。
窓辺の花瓶に