「おい坊主、ワシの酒が飲めないなんて言わないよな?」
「いや、でも俺は任務で……」
チトの奇跡を目の当たりにした夜。遅めの夕食で集った、お茶の間で。
リュッカは、
数時間前のおっかない姿はどこへやら――正夫は畳の上で片膝を立てて、
それは見事にキクを咲かせたチトへの、感謝と
「いかがでしょう、チトさん。お口に合いますかしら?」
「民子、酒が切れるぞ。
「おいしい。これはユリの
「あの、俺、
すっかり打ち
――いや、正しくはチトを認めた証か。リュッカはチトの異能が
目の前でキクが満開を迎える、魔法のような光景。何度思い出しても鳥肌が立つ。そういえばあの後、民子が咲いた菊花をいくつか
リュッカは回想しながら、不器用な義手で箸を握った。
手元が狂って、漬物が空を飛ぶ。革手袋をしたまま食事をするチトも
その不作法はもちろんリュッカも自覚していて、
「……すみません、こんなに散らかして」
「その義手じゃ仕方なかろう。今晩は
正夫は落ち込むリュッカにそう言うと、盃を押し付けた。
ぐい
「この花びらは何ですか?」
「『
民子は答えると、静かにその場を離れた。
正夫も遠い目で菊酒を見つめ、にわかに口を閉じる。
正夫の妻・
盃を持つ義手が震え、キクの花弁が揺れる。
なかったことにはならない悲しい過去たち。
リュッカはそれらを振り払うように、盃をぐいとあおった。
「――ぷはっ」
「お、なかなかいい飲みっぷりじゃないか、坊主」
一気にあおったリュッカを見て、正夫が
さて――その後の出来事は、リュッカの記憶からすっぽりと抜け落ちている。
しかも後で聞くところによると、酔ったリュッカは
というのも、リュッカは
「俺も手伝いまひゅ!」
と挙手したらしい。
いや、だって、「お花を摘みに」と聞いて黙っていられる〈庭師〉がいるだろうか。
リュッカはチトから冷ややかな視線を
・・・
翌朝。リュッカはほとんど全裸で目覚めた。
「うう、頭が痛い……」
二日酔いでぼんやりとする頭を、
貸与された浴衣は、かろうじて腰帯からぶらさがっている状態。寝ているうちに
VERTの紋章がついた、軍服じみたマントを羽織る。
リュッカは着替え終わると、コメを炊く香りに誘われるように使用人部屋を出た。
リュッカがまっすぐ居間へ向かうと、
「ひゃふ!」
行く手から、聞き覚えのある小さな悲鳴。
悲鳴のほうを見れば、廊下に膝をつくチトの姿があった。
チトは慌てて立ち上がり、きょろきょろと首を巡らす。転んだのを見られたくなかったのだろうが――タイミング悪く、出くわしたリュッカとばっちり目が合った。
チトは
おそらくチトは、慣れない服装のせいで
だってチトの着ている
「その着物、どうしたんですか?」
「今朝、民子が着せてくれたんだ。菊代がもっていた
チトが着ていたのは、鮮やかな深紅の振袖だった。
晴れの日専用の衣装があるのか。そんな誤解を顔面で表現したリュッカに、着物姿のチトが噴き出す。
「『ハレ』とはいわゆる非日常。冠婚葬祭を代表とする特別な日のことだよ」
「なるほど」
「と、ところでリュッカ。どうだろう。わたし、変じゃないか……?」
チトが着物の袖をつまんでくるりと一回転する。
金色の帯は、リボン型の文庫結び。紅色の布地には、小菊の
リュッカはそわそわと返事を待つチトに、
「はい。まったく変じゃないですよ」
「…………」
リュッカのあっけらかんとした答えに、チトは沈黙した。
途端に唇を
「あっ、その着物が気に入らないなら、俺から民子さんに言いましょうか?」
「……そうじゃ……なくて……」
「大丈夫ですか? もしかして具合でも悪――」
言い
「そこは『か・わ・い・い・ね』じゃろうがッ!!」
ごつん! と、げんこつ大の衝撃が、リュッカの頭をしばいた。
唐突な暴力に、脳みそがぐわんぐわんと揺れる。痛い――だけど目は覚めた。リュッカが振り返ると、正夫が呆れた様子で立っていた。
「菊代の着物か。こりゃまた懐かしいものを。似合ってるぞ、嬢ちゃん」
「……ありがとう、正夫」
チトはリュッカを不満げに
変じゃないか、と聞かれたからそう答えたのに。チトはいったいなんなんだ――ひとり取り残された廊下で、リュッカは頬を膨らませた。
正夫はああ言ったが、リュッカはことのほか、正夫の指摘に
ヨナギ村のキクを救ってみせた〈一級庭師〉のチトは、世界的にもう十分「すごい」人物なわけだし、今さら服装で
それに――昨晩は興奮してチトの手を握ってしまったが、リュッカはまだ、チトとの距離感を測りかねていた。調子に乗って褒めたりなんかして、初対面のときみたいに拒絶されるのは
リュッカは正夫にしばかれた頭をさすりながら、ふらふらと二人の後を追った。
昨日の
正夫は、民子が用意した食事をぺろりと平らげると、
「
そう言って、正夫はテキパキと片づけを始めた。
どうやらリュッカが知らないうちに、
「せっかくだから『菊人形祭り』まで滞在していきなさい」
という話になっていたようだ。
チトが着物姿なのも、今朝中にヨナギ村を出発するつもりがないからだと気づく。民子に至っては、朝から祭りの準備に
「正夫。ぜひ、わたしにも菊人形づくりを手伝わせてくれ。こう見えて、細かい作業は得意なんだ」
すかさずチトが、革手袋の手を掲げて立ち上がる。
リュッカもそれに
器用とは対極にある、リュッカの鉄の義手。それは、菊人形の制作――キクを使って人形の衣装を仕立てる繊細な作業に向いているはずもなく。
チトと正夫が意気揚々と去っていくのを見届け、リュッカはしょんぼりと肩を落とした。
……えも言われぬ疎外感。
こうなったら、言われた通り「ゆっくりしていって」やろうじゃないか。
リュッカは寂しさを
そして、リュッカが屋敷の裏手に出たときだった。
「やっと見つけた」
敵意のこもった一声が、リュッカを呼び止めた。
足を止めれば、そこには見知らぬ少女が二人、リュッカを品定めするように立っていて、
「……ねぇ
「
「でもでも、怖い人かもしれないしぃ……」
「平気よ。紅はちょっと下がってて」
遠巻きに立ちはだかる、十代半ばの、着物姿の少女たち。
リュッカに突っかかってきた前者はショートカットで、腰が引けているそばかす顔の後者は、長い髪をお団子にしていた。
二人は
「アンタがチトね? 私は〈みどりのゆび〉なんてインチキな能力、認めないんだから!」