広間を出たチトは、すぐに
土間の奥――使用人しか立ち入らないような薄暗い一画。紅は、
本人はそこで隠れているつもりらしかったが、泣き声を漏らしていては意味がない。
チトがそっと呼びかけると、紅は、
「藍ちゃん?」
「……藍でなくてすまない」
「あっ、いいえ、私の方こそごめんなさいぃ――えぇと、チト様……ですよね?」
紅はごしごしと目元を
「……なんとなく聞きそびれちゃってたけど、やっぱり、あなたが伝説の〈
どことなく恍惚とした口調で、紅が問う。
しかしチトは、藍からの反応を思い出して曖昧に視線を
「い、言いたくないならいいんですよぉ! いろいろ事情もあるでしょうし。それに、藍ちゃんもキツいことを言ったんだろうし……ほら、藍ちゃん真面目だから」
紅はそう言って
まるで、藍がチトの異能を批判した場面を見ていたかのよう。思わず目を丸くするチトに、紅は「
紅は、今回のような
「……藍ちゃんは、本当は優しい子なんですよぉ。夏の
「大水――洪水のことか。何があったのか聞いてもいいか?」
紅は、チトの真剣な眼差しに
「今年の夏はひどい
紅は寂しげに目を伏せて、こう続けた。
「雨とか風とか……自然の前では、私たちはどこまでも無力だから。こうしてヨナギ村のキクだけ救われたのが、悔しかったんじゃないかなぁ。
藍ちゃん、『自分も救って欲しかった』って
紅の言葉には、諦めに似た感情が宿っていた。
土砂崩れが起こるほどの天災だ。ひょっとすると紅が大切にしている植物――例えば近村のベニバナ園なども、
それに事情を知った今では、藍の
ややあって、
「ところでチト様。
「……え?」
「実は、私と民子さんは同じ里の出身なんです。年齢は、私が16で民子さんが28だから、私のほうがずっと下だけどぉ……共通点が多いのもあって、民子さんとは昔からずっと仲良しなんです」
チトは、紅が民子の不在を残念がっていたことを思い出した。
並行して、紅と民子の共通点に首をひねる。年齢、身長・体重、職業も異なる紅と民子。同郷以外の共通点などないように思えたが、
「私はこんなそばかす顔だし、民子さんも生まれつき顔に
例えば……チト様は『
「『
極東の古典文学『源氏物語』の登場人物・末摘花。
「ええ、そうですぅ。私も民子さんも、ドジで
紅はそう言うと、遠くを見るように目を細めた。
紅に対して敬遠しない藍のような存在が、民子にもいた。それが、四年前の
民子と菊代は、使用人と主人といった立場でありながら、気のおけない親友のような関係だった――紅はそう前置きして、民子と菊代のエピソードを語った。
「『菊代様は本当にお綺麗な人』っていうのが民子さんの口癖。もちろん外見も
それどころか。
菊代は民子が顔に巻き付けている布を
「ねぇ民子。斑入りのキクだって美しいでしょう? そんなに気にすることないわ」
と笑い飛ばしてみせたらしい。
チトはそれを聞いて、無意識に口元を緩めた。
民子が菊代へ抱く忠義は、
「民子さん、心の底から菊代さんのことを
紅がしゅん、と落ち込んでみせた瞬間、
「……待て。紅、今何と言った?」
「『避けられてるのかな』って」
「違う、その前だ。『お手紙じゃダメ』――なぜ手紙ではいけない?」
チトは突然前のめりになって、紅に迫った。
チトの蒼い目が大きく見開かれ、深紅の振袖が
急に話題に食いついたチトに、紅は困惑しながらも素直に答えた。
「な、なぜって……民子さんは読み書きができないもの」
ごくり。チトの喉が静かに鳴った。
紅が不安げにチトの顔色を
民子は文字の読み書きができないという――それでは、VERTに届いたあの手紙は、いったい誰が書いたというのだろう?
・・・
一方その頃。
菊人形の衣装づくりに参加させてもらえなかったリュッカは、
「うわっ! この人形、めちゃくちゃリアルじゃないですか!」
ヨナギ村の共同
リュッカの気取らないリアクションに、菊人形の本体――キクの衣装を着せる土台となる「
村人たちは、村内をとぼとぼと歩いていたリュッカを
「皆さん、俺をからかったんですね!?」
薄暗い納屋の中、ずらりと並ぶ等身大の
胴殻と呼ばれる人形の胴体は、木材と巻き
生々しい表情に、
リュッカはぶつぶつと文句を
「でもこの人形、顔立ちが全部違うんですね。女性や子どもを
「そりゃそうさ。この人形は、村の人間を
リュッカの疑問に、年配の村人がさらりと答える。
「義手の兄ちゃんは知らなくても当然だがね。ヨナギ村には墓がないんだよ。この人形が、墓の代わり」
村人が語る内容は、リュッカの想像の斜め上だった。
目の前の人形が急におどろおどろしく見えてきて、リュッカは思わず息をのんだ。
「それじゃ『菊人形祭り』というのは――?」
「村で亡くなった人を
村人は長いため息を挟んで、
「『せめて彼らを忘れないように』って、生前の姿を人形にして、キクで着飾るようにした。だから、ここにある人形は全部……そのとき死んだ人間の生き写しさ」
老若男女。夫婦、兄弟、親子の人形。
二十体は下らない人形を見渡して、リュッカはきつく唇を噛んだ。
村人の話の通りなら、この中には、流行病で他界した正夫の妻・菊代の人形もあるに違いない。民子が「美しい人」と絶賛した、菊代の人形はどれだろうか……
一体ずつ
おそらく祭りの際に、屋外に展示するせいだろう。人形の顔には細かい葉屑や羽虫がついていた。
台所なら、
そう予測したリュッカは、土間の奥へ進み、
そこに目当てのものはなかったが――代わりに、小さく盛り上げられた砂の山がひとつ。人目をはばかるように
砂山のてっぺんにはキクが一輪添えられていて、まだ手折られたばかりなのか、鮮やかな黄色に輝いていた。
これは
しかし、ヨナギ村には墓はないと聞いた――それでは、このキクの