そして翌日。ひっそりとした朝の空気の中、オレたちのギルド『ストレイキャット』の入り口には、リリスさんの丸っこい可愛い字で書かれた『臨時休業』の張り紙が、どこか寂しげに風に揺れていた。その紙の端がパタパタと音を立てるたび、まるでこのギルドの現状を嘲笑われているような気がして、少しだけ胸が締め付けられる。
そう、今日は、朝早くからリリスさんに問答無用で叩き起こされ、強引に腕を掴まれ、どこかに連れて行かれている最中だ。
正直、こんな張り紙なんかしなくても、ここ数日の状況を見れば、冒険者がひょっこり訪れるなんて奇跡中の奇跡はまず起こりそうにない。だけど……そんな冷徹な現実をリリスさんの前で口に出そうものなら、何されるかわからない。
「あの、リリスさん。一体どこに向かってるんですか?」
「はい?昨日のジェシカちゃんのところですよ」
「……え?」
「だって彼女は、上級者ギルド『ホワイトナイツ』で働いていたんですよね?それが、昨日クビになった。こんな絶好のチャンス、逃す手はないじゃないですか!」
リリスさんは、歩きながらくるりとオレの方を向き、瞳をキラキラと輝かせながら、まるで獲物を前にした猫のようにニヤリと笑った。その笑みが、オレには少しだけ恐ろしく見えた。
「というか、君が連れてきたんじゃないですか?あの子を雇おうとしてたんですよね?そうじゃないと君はギルドに戻ってこれないですもんね!いやぁ弱いのに勇猛果敢に立ち向かうパフォーマンスを見せて、わざと怪我をして、あの子の同情を誘う……まぁベタな展開ですが、エミルくんにしては頑張りました。あの子みたいな男を知らなそうな真面目な女の子くらいならエミルくんでも騙せますしね。それにあの子は私に比べれば、女としての色気はないですけど、そこそこ可愛い子ですしギルド受付嬢としてはギリギリ合格です!」
すごく饒舌に楽しそうに毒を吐くリリスさん。オレだけじゃなく、なぜか昨日初めて会ったジェシカさんにも。つまり、リリスさんはジェシカさんを、オレたちのギルドに雇おうとしているということか?
確かにリリスさんの言う通り、上級者ギルドの内情を肌で知っていて受付嬢として働いてきた彼女がいれば、このどうしようもない状況の『ストレイキャット』に、少しでも冒険者が来るようになるかもしれない。少なくともオレやリリスさんよりも、ギルドの運営や受付業務について詳しいのは間違いないだろう。
「でもリリスさん。ジェシカさんがどこにいるか分かるんですか?いくら何でもこの王都をしらみ潰しに探すのは……」
「そんな必要はありません。昨日、あの子がギルドを出ていく前に、彼女の服に『スナッチ』という盗賊の上位スキルを、こっそりと使っておきましたから」
「は?」
「これは相手の身につけている武器や防具、所持しているアイテムなどを奪うためのスキルなのですが、今回はジェシカちゃんの服そのものをまだ奪っていないので、スキルが発動したままの状態なんです。まぁ、私クラスになればこの程度のスキルを発動したまま、魔力を長時間持続させることなんて、朝飯前ですからね!」
リリスさんは自慢げに胸を張る。いや、怖っ!怖すぎるだろ!いつの間に、そんな恐ろしいことを仕掛けたんだ!?ということは、リリスさんがそのスキルを解除しない限り、ジェシカさんが昨日と同じ服を着ていたとしたら、彼女の居場所が、この街のどこにいても、常にリリスさんに筒抜けになっているということなのか……
ゾッとする。背筋が凍るような恐ろしさを感じた。リリスさんって、可愛い顔してとんでもないことを平気でやるんだな……
「ふふふ。これも立派な戦略です。大丈夫です。バレなければ何の問題もありませんし、万が一バレて、何か文句を言われたり危害を加えようとしてくるようなら、その時は適当に始末すればいいですしね?」
リリスさんは涼しい顔で、そして全く悪びれる様子もなく、さらに恐ろしい言葉を付け加えた。適当に始末!?怖いって、マジで怖いって!
そんな、オレの内心の混乱と恐怖をよそにリリスさんは再びスタスタと歩き始めた。街の裏通りを抜け、少しばかり人通りのある通りに出ると、少し古びた二階建ての建物が見えてきた。ここは宿屋か。ここにジェシカさんがいるのか。
「着きましたよ。この宿屋に、ジェシカちゃんは泊まっているはずですよ。行きましょう」
リリスさんはそう言うと、躊躇いもなく宿屋の入り口へと向かった。その迷いのない足取りを見ていると、本当にジェシカさんがここにいるのだという実感が湧いてくる。恐るべしリリスさんのスキル……
そしてオレも、少しばかりためらいながらも、リリスさんの後に続くように宿屋に入った。宿屋の中は、外観と同じく年季が入っており、木造の床がきしむ音が響く。カウンターに座っていたおばあさんに部屋番号を聞き、言われた通りに薄暗い廊下を進む。
廊下には、他の宿泊客の気配はほとんどなく、静まり返っている。目的の部屋の前まで来ると、リリスさんが躊躇なく扉をノックをした。
すると、中からジェシカさんが少し警戒したような表情で顔を出した。本当にいたよ……リリスさんの言葉が本当だったことに改めて驚きと少しばかりの恐怖を感じた。
「え?なんで……あなたたちがここに?」
ジェシカさんは、明らかに驚いて、目を丸くしている。当然だろう。まさか、昨日別れたばかりのオレたちが、こんな朝早くから自分の泊まっている宿屋に訪ねてくるなんて、夢にも思っていなかったに違いない。
「立ち話もなんですし、とりあえず中に入りますね」
「え?あっ、ちょっと!」
リリスさんは、ジェシカさんの驚きを全く意に介する様子もなく、有無を言わさず部屋の中にずかずかと入っていく。ジェシカさんが制止しようとするも、リリスさんは全く聞く耳を持たない。オレもどうすることもできず慌ててその後ろに続く。
「ちょっとなんなの!」
ジェシカさんは完全に怒っている。無理もない。他人の部屋に、アポなしどころか強引に入り込んでくるなんて、いくらなんでも非常識すぎる。オレだって、ジェシカさんの立場だったら同じように怒鳴りつけている。
「まあまあ、落ち着いてください、ジェシカちゃん」
リリスさんは、そんなジェシカさんの怒りにも全く動じることなく、涼しい顔で適当な相槌を打った。そして、部屋の中を見回しながら、まるで自分の部屋にいるかのようにくつろいだ様子で言った。
「しかし、思ったより質素なお部屋ですね?少しくらい女の子らしい物を置いた方がいいですよ?」
「関係ないでしょ!それより、なんであなたたちがここにいるの!?ストーカー!?」
「ストーカーだなんて失礼な。純粋に、ジェシカちゃんに会いに来ただけですよ?」
「じゃあなんで私がここにいるって分かったの!?」
ジェシカさんは焦りと苛立ちを隠せない様子で詰め寄る。当然の疑問だ。いくらなんでも、昨日別れたばかりの相手の居場所をこうも簡単に突き止めるなんて普通ではない。
「ふふ。それは企業秘密です。それよりお話があるんですよねエミルくん?」
リリスさんは、悪戯っぽく微笑んでオレの背中をバンッと叩いた。痛い!かなり痛いぞ!これは、ギルドマスターであるオレが、ここでしっかりとジェシカさんを勧誘しろということだよな?リリスさんの無言のプレッシャーを感じる。
「えっと……もし良かったら、オレたちのギルドで働きませんか?」
「え?」
オレは、背中の痛みに耐えながら、そして精一杯の勇気を振り絞って、ジェシカさんに声をかけた。自分の声が、少しだけ震えているのが自分でも分かった。こんな情けないギルドだけどジェシカさんの力が必要なんだ。
「まあ、エミルくん、ナイスアイデア!」
リリスさんは、わざとらしく、まるで棒読みのような声でそう言いながら手を叩いて喜んでみせた。全然、嬉しそうじゃないんだけど……むしろ、オレの背中を叩いた方が力が入っていたんじゃないか?
「……でも私は……もう故郷に帰ろうと思っているから。ごめんなさい」
ジェシカさんの言葉に、オレは思わず固まってしまった。「故郷に帰る」――その一言が、ズシリと胸に響いた。無理もないと頭では理解している。昨日、言い争っていたのはギルド経営のやり方についてだった。彼女は信念を持って仕事をしてきたのに、それが否定されてしまっていたから。