「ハシャテのやつ遅いなあ。もうとっくに帰ってきていいはずなのに」
ツヴォルグは窓の外を見ながら、心配と苛立ちの混ざった声をもらした。
「あなたの教え方が悪かったんじゃない?お店の場所が分からなくて困ってるのかもね」
芋の皮をむく手を止めず、ソルナは台所からそう言葉を投げかける。ツヴォルグは窓から視線を外し、台所の方を睨む。
「そんなことねえよ。八百屋も肉屋も果物屋も、全部ちゃんと回ったさ。近寄っちゃいけない場所も教えたし」
語気の強くなるツヴォルグに対し、ソルナは手を止めて向かい合った。そんなふたりの険悪な空気を断ち切るように、ソルナと並んで芋の皮をむいていたヴァルダは、「やめなさい」と声をかける。
「少しくらい時間がかかっても仕方なかろう。ひとりでの買い出しは、ハシャテにとって初めてのことだからな」
そうふたりをたしなめると、ツヴォルグは窓の外へ目を戻し、ソルナは皮むきを再開した。
七十二歳の老魔法使いヴァルダは、三人の弟子と、森の中の家で暮らしていた。
最近、十四歳になったツヴォルグは、弟子の中で一番の年長者。ヴァルダと昼食の支度をしている少女が十二歳のソルナ。そして家を不在にしているのが、十歳の男の子ハシャテである。
この日、ハシャテは初めて、ひとりで城下の街まで買い出しに行っていた。リヴラ王国の国王の居城に接した、比較的大きな街である。何度かツヴォルグについて街へ行き、店の場所や買い物の仕方などを教わり、万全を期しての本番だったのだが、もう帰ってきていいと思われる時間を過ぎても、一向に戻る気配がない。それでツヴォルグとソルナは落ち着かず、ギスギスした空気を
もちろんヴァルダも心配はしていたが、このようなことにトラブルはつきものと心得ていた。そもそもツヴォルグにしたところで、初めて行ったひとりでの買い出しは、途中で金を落とし、ヴァルダが迎えに行くまで森の入り口で泣いていたのだ。ツヴォルグ本人はそのことをすっかり棚上げしているのか、あるいはハシャテに重ねているのか、窓にかじりついて離れない。
「食事の支度が一段落したら、様子を見に行ってみるとしよう」
ヴァルダがそう声をかけても、ツヴォルグは黙ったまま振り向きもしない。しかしその直後、「お、やっぱりそうだ。帰ってきた!」と小さく歓喜の声を上げる。しばらくすると、跳ねるように地面を蹴る足音が、ヴァルダの耳にも小さく聞こえだした。
「ただいま戻りましたー!」
勢いよくドアが開かれると、ハシャテは息を弾ませて、家の中へ飛び込んできた。小さな体には少し大きすぎる肩掛けかごから、買ってきた品々が顔をのぞかせている。
「何やってたんだ。心配したんだぞ」
ツヴォルグが怒ってみせても、ハシャテはどこ吹く風で笑顔を向ける。
「勇者様だよ!パレードがあったんだ。二百年ぶりに復活した魔王を討伐に行くんだって!」
「勇者?魔王?お前、遅くなったからって、嘘ついてるんじゃないだろうな」
かごを下ろさぬまま興奮して語るハシャテに、ツヴォルグは疑いの目を向ける。
「嘘じゃないよ。ちゃんと見たんだ!そのせいで遅く……」
「魔王が復活したというのは、本当か?」
むきになってツヴォルグに話していたハシャテの肩を、ヴァルダは震える手でがっしと掴み、自分の方へ向かせる。ふたりの会話を聞いたヴァルダは、信じられないことが起こったとばかりによたよたと歩き、ハシャテのそばに近づいていたのだった。
「え……はい。急に、お触れが出されたみたいで、勇者様のパレードも……」
ハシャテはさっきまでの元気が嘘のように、顔を寄せるヴァルダにおののきながら、訥々と答えた。それはヴァルダの表情が尋常ではなかったからだ。驚愕と歓喜、そして焦燥などの色がないまぜになり、はたで見ていたツヴォルグも思わず息をのんだ。
「こうしちゃおれん」
ヴァルダはハシャテの両肩から手を離すと、壁に立てかけてあった杖を掴み、殴りつけるように玄関の戸口を開いて家を出ていく。
「師匠。今から行ってもパレードは終わってるよ!」
「待ってください師匠!」
「お昼ご飯の準備、どうするんですか!」
弟子たちが口々に叫ぶ声は、もちろんヴァルダの耳に届いてはいた。しかし、ただ聞こえただけで、ヴァルダを引き留めることはできなかった。
ヴァルダは杖をつきながら道を急いだ。そうはいっても、森を出るのに歩いて三十分はかかる。全力疾走するわけにはいかない。そんなことをすれば、すぐに疲れ果ててしまうだろう。それでも気がはやり、やがて杖をつくのはやめて地面と平行に持ち、小走りになった。
ヴァルダには幼いころからの夢があった。それは勇者のパーティに入り、魔王を倒すこと。人に話せば夢物語と笑われるようなものであったが、比類なき魔法の才能と絶え間ない努力により、ヴァルダは若くして、夢に手が届くほどの力を手に入れた。冒険者として経験と実績を積み、相棒の剣士ロアとのコンビは、世界最強のパーティとまで謳われる存在となる。しかし、魔王は現れなかった。「平和なのは、いいことじゃないか」。ヴァルダが魔王討伐の夢を語るたび、ロアはそう言って笑った。
そんなロアが結婚することになったのは、三十を少し過ぎたころだった。同時に引退して故郷へ帰るという。残念ではあったが、決断を反故にさせるような引き留めはしなかった。「魔王が現れたら、またパーティを組んでくれればいい」。そう伝えるとロアは笑みを見せたが、そこには衰えを感じた者特有の影が差していた。
その後すぐ、ヴァルダも冒険者をやめることになる。世界最強の魔法使いに見合うパーティなど、どこを探してもなかった。そんなヴァルダを、故郷のリヴラ王国は放っておかなかった。誘われるままに、王国の魔法研究室で働くこととなる。しかし、それも十年ほどでやめた。自由を旨とする冒険者をしていたヴァルダにとって、百八十度性質の異なる勤め人としての仕事は、むしろよく十年も続いたと思えるほどだった。
どうしてもと乞われ、研究室顧問として籍を残すことになるが、それ以上の仕事をする気にはなれなかった。森へ居を移し、余生と言うには早すぎるが、気ままな生活を送るつもりだった。しか幾人もの魔法使いを志す子弟がやってきて、断りきれず面倒を見ることになる。多いときには七、八人の弟子を抱え、想定とは真逆の賑やかな生活となったが、それもまた悪くはないとヴァルダは感じていた。
しかし近年は体力的な衰えもあり、新たに取る弟子を減らした。そして七十と言う年齢を期に、魔法研究室の顧問もやめたが、それがいけなかった。頻繁でないとはいえ、城への出入りを続けていれば、もっと早く魔王の復活を知ることができたに違いない。
過去の自分の判断を後悔しつつも、ヴァルダは走った。結局、全速力となり、激しい動悸に耐えながらようやく森を抜ける。そこに見えたのは、右前方にリヴラ城、左前方に城下の街である。ヴァルダはその間を、城をぐるりと取り巻く深い堀に沿って走った。
ヴァルダが目指していたのは、リヴラ城だった。まずは国王に事の次第を尋ねるのが先決だと、ヴァルダは考えていた。そして国王から勇者パーティ入りを許可されれば、勇者たちを呼び戻すために兵を出してもらえるのではないかとの思惑もあった。
城門にかかる石橋が目前に迫るころ、ヴァルダは一度、街の方へ目をやった。視線の先に伸びる大通りには、パレードの余韻がまだ濃厚に漂っている。歯噛みする思いで視線を戻すと、ヴァルダは右に折れて石橋を渡りにかかった。
石橋の上を進んでいくと、それに気づいた城門を守る番兵たちが、警戒するような動きを見せた。しかし、次第に困惑の表情を浮かべはじめる。それは相手がヴァルダだと認識したからなのか、あるいは必死の形相の老魔法使いと関わり合いたくなかったからなのか。いずれにせよ番兵たちからの咎めはなく、ヴァルダは石橋を渡り終え、城門をくぐった。