「ただいまー」
トヨは事務所と研究所を備えた自宅へやっとたどり着くと、紙袋の中から少し溶けかけたフラッペを馨に差し出した。
「お留守番ありがとうね、しかし、気分転換の買い物のつもりがなぁ……嫌なモンみちゃったな~」
おどけて肩を竦めて見せるトヨの顔をみて、馨は顔をしかめる。
「……」
「眉間に皺~。美容の仕事してる私らがそんなんじゃだめだぞ~」
ははは、と笑いながら馨の眉間に人差し指を当てようとしたトヨの手首を馨が掴んだ。ぱっと見は女性的な雰囲気の馨だが、よく手入れされた滑らかな手は男性特有の骨ばった質感と筋肉がある。
彼の丁寧に整えられた眉がしっかりと見えるセンターパートの髪は、軽くかきあげただけなのに猫っ毛のおかげか自然とその位置に収まって落ちてこない。便利で良いな、とトヨはいつも思っていた。一度髪質がうらやましいと口に出したことがあるが、毎朝セットしてるからこれを保てているし、くせ毛だからケアが大変だ、ヘアサロンに通う回数も自然と多くなると反論された。直毛のトヨとしては、束ねていないとすぐに前髪が落ちてくるあたりうらやましいことに変わりはないのだが……。
相変わらず顔が良いな~、と能天気に手首を掴まれたまま馨の長いまつ毛に縁どられた目を見ていると、馨は大きくため息をついた。形の良い唇がへの字に歪む。
「トヨ先輩、ちょっと気分落ちてるときおどける癖バレてないと思ってます?」
「……」
「俺ね、割と観察眼はある方だと自分で思ってます。トヨ先輩ちょっと鏡みたほうがいいすよ。『美容の仕事してる俺らがそんなんじゃだめ』です」
さっき言った言葉をそのまま返されて、トヨはうぐ、と言葉を詰まらせた。
狭い事務所だ。馨の視界から逃れることは出来ない。彼のデスクの真横にある自分のデスクに付くと、トヨは先ほどの馨と同じくらい大きなため息をついた。
「ほんとだ、ひっどい顔してる」
鏡に映る自分の顔に、トヨは更にげんなりする。少しつり目気味なアーモンドアイが、充血している。短時間で極度のストレスがかかったからか、目と喉が異様に乾いているような気がした。唇もカサカサだ。
「はい」
隣のデスクの引き出しから出てきたのは、ジャータイプのリップバームだった。
「使ってください、リラックス効果のある香りの」
馨が差し出してきたのは、他社の通常コスメだった。
「ありがと……」
スクリュータイプの蓋を開けると、ベルガモットの香りがふわ、と広がる。それをスパチュラで少し取って唇に乗せ、指先でマッサージするように馴染ませていくと、エンチャント効果は少しもないのに癒されていくような感覚になる。
「なんでも魔法頼みっていうのも、良くないですからね」
馨はそう言って、トヨから戻ってきたリップバームを机の中にまたしまう。
そもそも、エンチャントコスメの魔法の力というのは、使用者の体力や精神力に作用する効果によるものと考えられている。
例えば、『lighten the load』も筋肉疲労を軽減する効果があるが、それは使用している間、効率的な筋肉の使い方を魔法で強制することによって、無駄な負荷がかからないようにするという工夫によるもの。なので、そもそも筋肉の使い方がうまいアスリートであれば、その効果は劇的なものとはなりえないのである。
また、薬に薬機法があるようにエンチャントコスメにも魔法薬事法が適用される。その理由として、用法・容量を守って安全に配慮した使用をしないと、場合によっては副作用が起こるということがわかっているからだ。
しっかりと説明書を読んで使用していれば問題が起きない設計にはなっているが、その説明を読まない、或いは読んでも守らない人間が存在するために年間で何件かは理不尽なクレームが舞い込んでくるのも事実。
正直なところ、エンチャントコスメは使用者の良識を信じて作るしかない代物と言える。
時折不安になる。
このまま開発を続けていても良いのだろうか。
この世界に、エンチャントコスメは存在しても良いものなのだろうか。
けれど、トヨは『香倉堂』の看板を下ろすつもりにはなれなかった。
この店は、このブランドは、祖母が遺した贈り物なのだ。
トヨが生まれる前に亡くなった、トヨの祖母が彼女に遺したもの、それは『トヨ』という名前と、この『香倉堂』だ。
トヨの祖母である香倉千代は、魔法使いの素質が高い女性であった。
もとは普通の化粧品を開発、販売していた家の娘だったが、魔法使いとしての素質に気づいてからは早かった。たったの一代で独立して、魔法化粧品――エンチャントコスメブランドを立ち上げてしまったのだ。世からは天才と持て囃され、夢を叶えたがる購入者からは崇拝され、同業者からは妬まれ、そして、エンチャントコスメに反対する勢力からは疎まれた。
次代は誰か、と期待されたトヨの母は魔法の才能が発現せず、千代の死からは『香倉堂』から新作が発売されることは無かった。屋号と特許だけ守り、ブランド休止という形をとっていた『香倉堂』が息を吹き返したのは、トヨの誕生から20年。大学在学時にトヨが屋号を継いだ日のことであった。
世間は、人気ブランドの復活に湧きたった。
あの香倉千代の孫が、『香倉堂』を再興する。期待の目と、どこか試すような視線を感じながら、トヨはこの業界に足を踏み入れた。
どんなものを作れば、人々は喜んでくれるのか。
どんなものがあれば、この世界はより暮らしやすくなるのか。
自分の能力を、どのように役立てていけばいいのか。
ずっと、考えてきた。
自分が生み出したものが誰かを傷つける要因になるのだけは、嫌だった。
「あ……」
その時だった。
開きっぱなしのノートパソコンの画面に、メール受信の通知が見えた。