メールの差出人は、渦中の人だった。『早瀬友美』と書かれたFrom欄に、トヨは一瞬身構える。今回の件に違いない。これは、何かしらのお叱りか……。恐る恐る開いてみると、その内容はトヨの想定とは違った。
「ごめんなさい、忙しいのにお時間作ってもらっちゃって」
数日後トヨの事務所に、かっちりとしたリクルートスーツを纏って、菓子折りを持って早瀬は現れた。紙袋から上等そうな包装がなされた箱を出し、畳んだ紙袋の上に重ねて差し出す。
「あっ、ご丁寧に……」
来客だから、といつもよりも気合を入れて身支度をして事務所の掃除もしたけれど、トヨは急にこれでよかったのか心配になってしまう。思っていたよりもずっと、早瀬がしっかりしていたので面食らってしまったのだ。
(報道のイメージでなんか軽い感じの子なのかと思ってたけど、先入観で見るのは良くないな……)
応接セットのソファに腰かけるよう勧めると、早瀬は会釈をしてからソファにゆっくりと腰を下ろした。そして、開口一番、謝罪したのである。
「私のせいで、香倉堂さんの看板に傷をつけるようなことになって申し訳ありませんでした」
「え……」
早瀬は頭を下げ、明るく染めたその髪の毛の生え際の黒いところを見せたまま、顔を上げようとしない。
「ドーピングは、本当にしていないんです。でも、ネイルのラメが少し残ってて、それで……」
「いや、待って? ていうか、全然あなたのせいで何か困ってるとかないですし……とりあえず顔を上げてください」
トヨは慌ててそう言って早瀬にお茶を勧める。早瀬が持ってきてくれたお菓子を開封するように梅井に頼むと、梅井はすぐに給湯室の方へ姿を消した。
「……あの、まずは私も謝罪しないといけないです。早瀬さんの事、少し疑ったんです。ごめんなさい」
本当にネイルを落とし忘れていたんじゃないか、あるいは、自分に有利になるようにネイルを残したまま競技に参加したんじゃないかって。そう続けて、トヨも頭を下げた。
「へ……」
早瀬は拍子抜けしたような顔をして、それからくしゃりとした笑顔に変わった。
「なんだ! そんじゃお互い様ってことで今回ドローでいいっすか?」
急に砕けた口調になり、早瀬は能天気に「あはは~」と笑う。さっきまでのお堅い雰囲気はどうしたんだ? とトヨもあっけに取られたが、しかしつられて笑ってしまった。
「ちょっと気になることがあったんだけど、聞いてもいいですか?」
「気になること?」
どうぞどうぞ、答えられることなら、と言って、早瀬は微笑んだ。トヨは少し迷って、それから言葉を選ぶ。
「あの、ドーピングの検査ってかなり厳しくされますよね?」
「はい」
「競技の前にチェックを受けるはずだけど、そこで引っかからなかったのにどうして……」
早瀬は、表情を曇らせる。
「ほんとにドーピングしてないっすもん。あれね、マスコミに突撃取材された日にわかったんです」
誰が私の爪にラメが残ってるって告げ口したのか。
「え……」
内部告発だったの、とトヨは聞き返した。早瀬は頷く。
あの映像、生放送じゃなかったでしょ、と早瀬は言う。そういえば、とトヨは思い出した。
「あれね、一応放送していいか聞かれたんすよ、そんなんダメに決まってるじゃないっすか、でもダメって言ってもどうせ出すんだろうなって思った。それで、条件を出したんです」
「条件?」
「私の爪に塗ったネイルのラメ、あれの成分をもう一回検査してっていうのと、垂れ込んだ人は私の爪に『何が残ってる』って言ってたのか教えて、って」
早瀬は梅井から焼き菓子を受け取ると、「どもっす」と言って、フォークで一口大に切った。
「検査については出来るかわからないって言われたけど、タレコミでは『赤いラメ』って報告があった、って。簡単に口割ってくれたんすよ」
それで、確信したという。
塗っていったネイルは、ベースカラーはブラックだった。残っていたラメは、大粒の赤いラメ。急いでいたためリムーバーで落としきれなかったラメだけが親指の先に少し残っていたのだという。
「残ったラメを見ることができたのは、競技前の更衣室でだけ。あとは検査の人が見るけど、正当な検査をやった側の人間が変なタレコミするなんてありえない」
つまり、あの更衣室で私のつま先を見て、競技前にマスコミや競技関係者に「早瀬の爪にペディキュアが残ってる」と言った人物がいる、ということだ。
「そんな……」
「あの日、先に更衣室にいたのは、同じチームの後輩一人だけ。私は他のメンバーよりいつも早く着替えるんだけど、その日はあの子が先にいたんですよ」
それで、思い出したのだという。
海に行った日のこと、あの子――佐野円華が、早瀬のペディキュアを見て言った言葉。
――いいなあ! めっちゃ可愛いネイルですね先輩! え? それエンチャントコスメなんですかあ? えーっ! 高かったでしょ……ですよね~! どんな効果があるんですか?
その質問に、早瀬は嬉しくなって素直に答えた。
みんなで海を存分に満喫するために塗ってきたんだ、と。
このネイルは筋肉疲労を軽減してくれるから、普段歩かない砂浜ではしゃいでも、水の中を歩いたりしてもへっちゃらなんだ、って。
その時、佐野がどう思っていたのかなんて早瀬には知る由もなかった。
「円華には聞いてないけど、てか、聞けないけど、あの子補欠だったんですよね、私が出場停止になったら繰上げで出場できるかもって思ったんじゃないかな、それで、リークしたんじゃない? って」
トヨは俯いたまま何も言えなくなってしまった。早瀬は慌てて付け足す。
「あっ、あの……だから、ネイルポリッシュにはなんの責任もないじゃんって話を、マスコミにもしたんですよ、でも、それから何にも取材来てくれないし……」
どんどん声が小さくなっていく。
「……ごめんなさい、私がラメ落としきれなかったのがそもそも全部悪いんですけど……」
「いえ、違うんです、勝手に落ち込んでごめんなさい」
トヨは顔を上げて、そして頭を下げ、もう一度早瀬の顔を見た。
「ポリッシュの基材の部分にエンチャントがかかってるので、ラメにはエンチャント効果は一切ないんだけど、そんなことマスコミも世間も知らないから……」
「でも、『香倉堂』さんが悪いみたいな雰囲気なるの、嫌なんですよ」
「……ありがとうございます」
どうしよう、と俯いてしまった早瀬に、トヨはそっとお茶を勧める。そして――。
「調査機関は問題なかったって言ってくれてるし、私の方からも改めてこのネイルポリッシュのどの部分にエンチャントがかかっているのか、声明をだします。早瀬さんは何も気にしなくて大丈夫です」
だから、どうか気に病まないで。そう言ったトヨの横にすとん、と腰掛けて梅井は頷く。
「我々としては、そうやって気遣っていただいて恐縮というか……このブランドを愛してもらえてるんだって素直に嬉しいです、ね? トヨ先輩」
「うん」
こんなことじゃへこたれないから、と梅井はトヨを指さす。
「人を指ささない」
「すみませえん」
二人のやり取りに、ようやく早瀬が笑顔を取り戻した。
「落としにくいっていうのも問題かもしれないから、ラメもしっかり落ちるエンチャント用リムーバーの開発も進めますね」
「えっ……そんなとこまで気にかけてくれるんですか?」
トヨはいたずらっぽく笑う。
「急いでても落とせるようになったら、もっと使ってくれるでしょ?」
言わんとしていることに気づいて、早瀬は次こそ破顔した。
「あはは、そしたら、リピしますね!」
その日、早瀬は足取り軽く帰っていった。新作ができたら、一番に買いに来ます、と言って、とても嬉しそうに笑って。
「……後輩ちゃんのこと、ショックだったでしょうね」
梅井はその後姿が見えなくなると、ぽつりとトヨに言った。
「うん……。同じチームで、一緒に頑張ってたはずなのにね」
けど、と梅井は続ける。
「早瀬さん、もう恨んでないみたいでしたね。むしろ、後輩ちゃんを心配してる、っていうか」
確かに、とトヨは頷く。
「……なんていうか、このことを抱えるのはむしろ……」