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第4話

 それから数日後、『香倉堂』の呼び鈴を鳴らしたのは意外な人物だった。

 背丈はトヨと同じくらい、ふわりとウェーブがかかった肩までの髪の毛は、艶のある亜麻色だった。インターホンに映ったその顔は幼く見えた。

「あの、こんにちは、はじめまして、その……」

 まるで、子供のように彼女は言い淀み、そして、何から伝えていいのか戸惑うような顔をして、すぐに首を小さく横に振った。

「私、佐野円華といいます、えっと、その、謝罪にきました」

「え?」

 トヨはその名前と、用件の両方に驚いて聞き返す。

 佐野は、インターホンのカメラの方へ視線を向け、そして眉を寄せた。

「その、突然の訪問、すみません、ネイルの件で」

 言いたいことがまとまらない様子で、おろおろと視線をさ迷わせる佐野を、トヨはとりあえず応接室へ通すことにした。


 応接セットのソファに腰かけると、佐野は落ち着かない様子で言葉を選ぶようにもじもじしていた。

「……」

「……」

 二人の間に沈黙が流れる。ようやっと佐野は短く息を吐くと、頭を下げる。

「この度は、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」

「えっと……佐野さん、ですよね」

「はい……あの、先日の早瀬友美さんの件で、あれ、マスコミにリークしたの私なんです……」

 良心の呵責に耐え兼ねてここに来たのだ、という。トヨは少しほっとして、息を吐いた。

「……そうなんですね」

「ほんとにごめんなさい」

 佐野はカラコンが入った瞳を逸らす。そして、これではだめだと思い直したのか、もう一度トヨの方を見た。

「許されることではないですけど、私がやってしまったこと、聞いてくれますか」

「どうぞ」

 テーブルの上のティーセットからは、ふわりと優しい花の香りがした。それを佐野に勧め、そしてトヨもティーカップに口をつける。


「あの日、競技が始まる前……更衣室で早瀬先輩の足の爪にラメが残ってるの見つけて、ひょっとしたら私、繰上りで競技に出られるかもって思っちゃったんです」

 早瀬が推理した通りだった。トヨは黙って佐野の話に耳を傾ける。

「実際、エンチャントの効果が残ってたら失格じゃないですか、ほんとは検査する人に伝えようって思ったんだけど、更衣室を出たとこに記者の方がいて、その人でもいいかもって思っちゃって」

「どうして」

「騒ぎになったら監督とかも早く動くかなって思って」

「……」

 浅はかだね、とは言えなかった。言いたかったけれど、佐野が沈痛な面持ちで言うものだから。彼女は彼女なりに反省しているらしかった。

「でも、マスコミは後から動いた……先輩が走って、その後で騒ぎ立てたんです、実はネイル残ってたでしょって。そうしたら、ドーピング検査をやった人間についてもつるし上げられるから、よりセンセーショナルなニュースにできるからって……!」

 トヨは頷く。すべてのマスコミがそう、とは言わないが、ニュースをより面白くするために大げさに何かをしたり、タイミングを操ることで大ごとにしたり、そういう事は少なくない。報道にも悪意を持つ者がいるということを、大人であればわかっている。それに気づくには、佐野はあまりにも精神が幼すぎたようだ。

「もちろん、先輩はドーピング検査には引っかかんなかった。ラメにはエンチャント効果ってなかったみたいだから。カラーさえ落ちてれば、問題ない、カラーの基材の方にエンチャントがかかっているから、って、検査官の人も言ってた。それで、当日は登録通りのメンバーで走ることになって、私は応援する側に入ったの。途中で体調不良者とかもでなかったから、本当に、予定通りに……」

 すべてが終わって、次の日になってマスコミが騒ぎだして、早瀬に突撃インタビューなんかを始めたのだという。それで、風評は『香倉堂』にまで飛び火したわけだ。

「予定通りにいかなければ、繰上りであなたが出場した、と」

 トヨは佐野がさっき言った事を敢えて繰り返す。

「……補欠としては、私が上位にいたんです、だから誰かが落ちれば私が入る予定だった」

「身勝手だと思わないの」

 佐野は膝の上で手をぎゅうと握ると、頷く。

「卑怯だったって今ならちゃんとわかります。入院してるおばあちゃんに、私が走るとこ、中継で見てほしかった」

「それ、おばあちゃん喜びます? 孫が卑怯なことをやって走ったところで」

「あの時、ほんとに判断おかしかったと思います。冷静になって考えたら、こんな孫、おばあちゃんだってやだと思う」

 佐野の瞳に大粒の涙が浮かんだ。

「泣きたいのは早瀬さんとおばあちゃんだと思うよ」

 トヨは自分でも冷たい言い方をしたな、と思った。けれど、佐野の身勝手な行いに、どうしても黙っていられなかった。佐野はひゅっと息を飲むと、こぼれそうな涙を手の甲で一気に拭って、すみません、と鼻をすすり、そしてまっすぐにトヨを見た。

「私が泣いたりしたら、失礼でした。申し訳ありません」

 ぎゅっと唇を一文字に引き結び、佐野は再度頭を下げる。

「……」

 トヨも、佐野を責めて潰したいわけではない。

 むしろ、ここに謝罪に来た時点で褒めてやってもいいと思っていた。手放しに佐野を褒めてやらないのには理由がある。彼女の本当の目的は、恐らく『謝罪』ではない。トヨの中の何かが、それに気づいていた。



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